鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

柿崎景家とその一族2

2022-02-26 18:55:16 | 柿崎氏
今回は柿崎景家の息子たちについて検討していきたい。景家については前回詳しく検討している。


1>晴家
嫡子は柿崎晴家である。天正3年2月までに家督を相続した。越相同盟において小田原北条氏の元へ証人として提出された人物である(*1)。実名は系図でのみ確認される。

証人とされた理由は、景家妻=晴家母が守護代長尾氏出身の女性、つまり上杉謙信の近親であったからと推測される。


確実な初見文書は、越相同盟に関連した永禄13年2月遠山康光書状(*2)であり、「柿崎父子」と表現されている。


ただ、年不詳某条書(*3)には「柿崎平二郎」という人物が見える。この条書は片桐昭彦氏(*4)によって弘治3年から永禄2年のものと推測される。また、同時期の年不詳某条書(*5)には「かきさきそくに、きたてうそく女いいあわせへき事」とあり、柿崎景家息子と北条高広息女の婚姻が予定されていたことがわかる。

つまり、婚姻が予定されていた平二郎と晴家が同一人物である可能性が高い。

よって、晴家が仮名「平二郎」であること、妻が北条高広娘であること、その初見が弘治末期から永禄初期であること、が理解される。


さて、その死去について考える。法名は大定院殿籌山曇忠居士とされる。

死去についての詳細は不明であるが、『柿崎町史』(以下『町史』)や今福匡氏(*6)は景家が誅殺されたとする誤伝の背景に晴家が誅殺された事実がある可能性を指摘している。つまり、御館の乱に際して、晴家が上杉景虎に味方したため上杉景勝によって殺害されたという。

晴家は景虎方の北条高広の娘を娶っており、小田原北条氏への証人として提出されていたことから小田原北条氏出身の景虎とは近い関係であった可能性がある。また、母が守護代長尾氏の女性であり、血縁上も家中で無視できない影響力があったのだろう。

天正5年12月『上杉家家中名字尽手本』に「柿崎左衛門大夫」が載り、これが終見である。天正6年8月柿崎千熊丸宛上杉景勝判物(*7)に「今度其方家中之者依令忠信、名跡之儀返置候、弥可抽忠功者也」とあり、この間までに晴家が死去していたことが確実である。

また『町史』は同判物の「名跡之儀返置」という部分が、晴家が景虎方につき景勝によって殺害された可能性を示唆していると考察している。「名跡」を取り上げられる程の事件であるから、やはり御館の乱に関係して殺害されたと考えるのが妥当であろう。

さらに『町史』は『楞嚴寺過去帳』に永禄元年3月14日とされていることから、実際には天正6年3月14日と推定している。しかし、謙信の死去が同年3月13日であり対立が5月から激化することを踏まえると、この点は不自然である。この過去帳の記載は単なる誤伝であり、実際には御館の乱が本格化し北条高定など有力な武将が殺害された天正6年5月頃ではないだろうか。


2>祐家
『米沢柿崎系譜』に景家の子として「祐家」が記される。「源三」を名乗ったとある。

実際に、天正元年8月上杉謙信書状(*8)にて北陸方面での合戦中に「かきさきけん三」が太腿を射抜かれたことが記されている。生死は不明である。

『米沢柿崎系譜』では祐家が長男、晴家が次男とさているが、永禄年間に官途名で見える晴家に対して祐家は天正元年の時点で仮名を名乗っていることを考えると、実際には長男晴家、次男祐家であったと推測される。『謙信公御書集』も嫡子晴家、次子祐家としている。


永禄6年11月上杉輝虎朱印状(*10)では柿崎景家が「長尾土佐守分」等の所領を与えられているのだが、その上で「即土佐守孫ニ其方息おひこ丸ニ申含、彼家相続簡要候者也」という一文が記される。

この「おひこ丸」であるが、『謙信公御書集』に「柿崎景家男彦丸使嫁土佐守女」との記載があり「彦丸」という幼名を指すことがわかる。「おひこ丸」=「御彦丸」であろう。

さて、この彦丸は年代的に見ても、系図上の人物から見ても、源三祐家にあたると考えられる。

このような長尾氏との関係を見るに、祐家も晴家と同じく守護代長尾氏の女性を母として守護代長尾氏との血縁関係を有していた可能性は十分に考えられるであろう。


また、『米沢柿崎系譜』は晴家、祐家の他に三男として「清七郎」という人物を挙げるが、他に史料はなく、存在を含め詳細は不明である。晴家の息子である千熊丸/憲家が三男とされる所伝もあることから、景家には晴家、祐家の他にもう一人息子がいたのかもしれない。


3>憲家
景家の息子或いは孫とされる人物であるが、『米沢柿崎系譜』によると寛永10年に58歳で死去したとあり、逆算すると天正4年であるから、実際には晴家の息子と推測するのが妥当である。

初見は前述の天正6年8月上杉景勝判物( *10)である。ただ、この時わずか3歳であり、しばらくは上野九兵衛尉など家臣団が文書に見える。

天正12年8月上杉景勝一字書出(*11)において「柿崎弥次郎」に対し「憲」の一字が与えられている。元服し、「弥次郎憲家」を名乗ったと考えられる。

その後、能登守を名乗り活動するが、ここでは割愛する。



以上が、柿崎景家とその息子たちに関する基礎的な検討である。後世のイメージが先行しがちな柿崎一族についてその存在形態を正しく認識することは、越後史を考える上でも重要なことのように思える。


*1) 『新潟県史』資料編3、467号
*2) 同上、99号
*3) 同上、資料編5、3279号
*4)片桐昭彦氏 「長尾景虎の権力確立と発給文書」(『戦国期発給文書の研究』高志書院)
*5) 『新潟県史』資料編5、3280号
*6)今福匡氏『上杉景虎』宮帯出版社
*7) 『越佐史料』五巻、563頁
*8) 『新潟県史』資料編4、1866号
*9) 『上越市史』別編1、356号
*10)『越佐史料』五巻、563頁
*11)『上越市史』別編2、2964号


柿崎景家とその一族1

2022-02-20 18:39:06 | 柿崎氏
柿崎景家は上杉謙信の家臣団の中でも最も有名な武将の一人である。しかし、軍記物などから”家中随一の猛将”といったイメージが先行し、その実像の把握には研究の余地が残る。また、その息子たちについても整理すべき点は多い。

今回と次回にわたり、柿崎景家とその一族について検討してみたい。


ちなみに、景家の息子左衛門大夫=「晴家」と源三=「祐家」の実名については系図にしか確認できない。ただ他に有力な記録もないため、これを利用していく。


1>柿崎景家の前半生
天文24年1月長尾宗心書状(*1)に「柿中」という武将が登場する。「柿中」=柿崎中務であり、和泉守を名乗る前の景家である可能性がある。

他に景家が「中務」を名乗ったとする徴証はないが、この柿崎中務は善根における抗争を鎮圧するため軍勢を率いて出陣しており単なる柿崎氏庶子とは思えない。景家である蓋然性は高いと考える。


「景家」として確実な初見は永禄2年12月長尾藤景等四名連署状(*2)であり、「和泉守」が確認できる文書は永禄3年5月長尾藤景等四名連署条目(*3)となっている。また、『越後平定以下祝儀太刀次第写』では永禄2年10月時点で「柿崎和泉殿」として見える。概ね、弘治から永禄初期に「和泉守」を名乗ったのではないか。


よく長尾為景と上条定兼(定憲)の抗争のクライマックスである天文5年三分一原合戦において、柿崎景家の寝返りが為景の勝利を決定づけたとする俗説を見る。また、柿崎氏の菩提寺陵厳寺の所伝では文亀年間或いは天文3年に「柿崎和泉守」が開基となり建立したという。

こういった所伝や軍記物、さらには歴史小説などのイメージもあり、「和泉守景家」は天文初期から活動していたような印象を受けるが、根拠はなく、史実としては考えにくい。

追記:23/12/22
三分一原合戦の実像 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~で三分一原合戦が実際は天文5年ではなく永正11年であったことを推測した。


『謙信公御書集』にはこれ以前に、長尾晴景が「柿崎弥次郎景家」に対し「胎田常陸介景高」一族の「監物」を討った事を賞する文書が載る。しかし、胎田常陸介という人物は天文10年代の長尾景虎の活躍を強調するための創作であり、実在しない。よって、この文書も創作されたと見るべきである。

ただ、天文10年代に柿崎景家が「弥次郎」を名乗っていたとする点は興味深い。仮名弥次郎については、系図類などにも所見される。景家が天文10年代に仮名弥次郞、同20年代に官途名中務、永禄初期までに受領名和泉守を名乗ったと考えると、世代的にも整合性が取れる。

やはり、天文期の「柿崎和泉守」は後世の創作、もしくは景家の前世代の事蹟の混同と考えるのが妥当であろう。


2>景家の没年
景家の死去については、織田信長に内通したことにより上杉謙信に誅殺されたとの俗説がある。もちろん、そのような事実はない。

この点については『柿崎町史』(以下『町史』)の研究に詳しい。『町史』は多くの所伝を比較し妥当性に欠くと判断した上で、『柿崎弥三郎先祖書』なる史料にある「曾祖父柿崎和泉守儀、越後長尾謙信輝虎之家臣、越後柿崎之城主に而罷在、致病死候」という所伝が最も信頼できる、と推測している。つまり、病没である。法名は「本心院殿転誉守邦居士」という。


ただ『町史』は、天正3年2月『上杉家軍役帳』に息子「柿崎左衛門大輔」(晴家)が見えることと楞嚴寺過去帳の記載から景家没年を天正2年11月22日と推定しているが、これは誤りである。

景家は天正2年以降にも、天正4年3月梶原政景書状(*4)、天正5年2月里見義弘書状(*5)にそれぞれ宛名「柿崎和泉守殿」として見えるのである。前者は北条氏照の小山城在城、後者は東金酒井氏・土気酒井氏の小田原北条氏帰属を示す内容から発給年はそれぞれ確実である。また、息子晴家は天正5年12月(名字尽)にも「柿崎左衛門大夫」として所見されるから、これらの「柿崎和泉守」が景家死後に受領名を継承した晴家、ということもない。

そして、天正6年に勃発する御館の乱には全く景家の痕跡がないことから、この時点では既に死去していたことが想定される。

つまり、景家の死没は天正5年であると決定できる。過去帳にある日付を信じれば、天正5年11月22日となる。


景家死去以前の天正3年2月『上杉家軍役帳』には、柿崎左衛門大夫=晴家が鑓180丁・馬上20騎等の軍役を負担していることが記載される。これは山浦国清や齋藤朝信といった重臣を上回っており、柿崎氏の重臣としての立場はもちろん、晴家が柿崎氏の家督を継承し当主として活動していたことを示す。

よって、景家は天正3年2月までに隠居し、家督を息子晴家に譲ったと考えられる。

隠居後から死去までの景家関連文書は関東の武将との外交文書であり、長年の活動により形成された景家の人的関係を必要とするものであったことが推測される。引退後は、経験と人脈の豊富な景家個人が必要とされる政治的活動を中心としたのだろう。上杉家中では、本庄宗緩が似た事例として挙げられる。


3>景家の妻
景家の妻は、黒田秀忠の娘といった俗説を見る。これは誤りである。

この俗説の原因は『上杉御年譜』であろう。そこには、天文12年に黒田秀忠が反乱を起こしたとし、「黒田、柿崎弥二郞景家ト婚姻ヲ結ビ」とその婚姻関係を紹介している。ただ、「婚姻ヲ結ビ」という表現に留まり、誰が景家に嫁いだかはっきり記されていない。

『謙信公御書集』では景家を「胎田常陸介景高聟」とする。ちなみに、『北越軍談』、『越後内輪弓箭老師物語』といった軍記物も景家を胎田常陸祐の女婿とする。

「胎田常陸介」という人物は天文期の所伝における創作の産物であることは広く知られる。『上杉御年譜』などでは、黒田秀忠は胎田常陸介の実子であり、黒田氏に養子入りした存在として描かれる。

これらを踏まえると、『上杉御年譜』の記載は黒田秀忠の娘が景家に嫁いだという記載ではなく、胎田常陸介娘=黒田秀忠姉妹が景家に嫁いだということを表わしているのではないか。

つまり『上杉御年譜』など所伝類における景家婚姻関係の記載は、黒田秀忠娘と景家の婚姻ではなく一貫して胎田常陸介娘と景家の婚姻を伝えていたと考えられる。その常陸介が架空の人物である以上、景家婚姻の所伝は創作の産物に過ぎないことがわかる。


ここで米沢藩が作成した戒名書上『公族将士』を参考にする。片桐昭彦氏の研究(*6)によると、長尾為景の血縁が記載される史料である。

この中に「陽林喜春大禅定尼 かきさきとの御かミ」という人物が所見される。「かきさきとの御かミ」、つまり柿崎殿御上=柿崎氏の妻である。

片桐氏は、この女性が柿崎景家の妻であると推測している。さらに、景家の息子晴家が越相同盟の際に人質に選ばれた理由はこの血縁関係にあると指摘している。

他にも、永禄6年には景家へ長尾土佐守旧領が与えられ、同時に後の祐家と長尾土佐守孫娘の婚姻が決定している。景家が上杉謙信の近親を妻とし、その息子たちが守護代長尾氏の血を受ける者たちであれば、これらの動向も納得がいく。

上杉家中にて文書の署判者を務めた齋藤朝信の妻も『公族及将士』に記載されることから守護代長尾氏の女性と推定され、これは年不詳某条書(*7)からも確認できる。景家も朝信と共に署判者を務めており、類似の事例といえる。

以上から、柿崎景家の妻は守護代長尾氏出身の女性であったと推定される。



ここまで、柿崎景家について情報を整理した。次回はその息子たちについて検討したい。


*1) 『新潟県史』資料編4、1568号
*2) 『越佐史料』四巻、153頁
*3) 『新潟県史』資料編3、276号
*4) 同上、五巻、373頁
*5) 『上越市史』別編1、1323号
*6) 片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*7)『新潟県史』資料編5、3280号