鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

栖吉長尾氏の分流

2021-07-16 17:16:48 | 長尾氏
『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)には栖吉長尾氏の分家として蔵王堂長尾氏、甑沢長尾氏が存在したことが記されている。今回は、その二氏について考えてみたい。

前回、栖吉長尾氏の系譜を検討した際、当主にアルファベットを付記して整理したが今回もそれを継承していく。

A景春カ/道継(豊前守)-B某(豊前守)=C宗景カ/長泉(備中守)-某-D某(四郎左衛門尉/備中守)-E元景(弥四郎/備中守)-F孝景(弥四郎/豊前守)-G房景/小宝士丸(弥四郎/豊前守)

なお、栖吉長尾氏として蔵王堂から栖吉へ拠点を移す以前には惣領筋が蔵王堂長尾氏と呼ばれていたようだが、ここで言う蔵王堂長尾氏は惣領が移転後に蔵王堂で成立した庶家を指す。この辺の呼称の曖昧さについてはページ後尾で整理している。

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1>蔵王堂長尾氏
『長尾次第』では、四郎左衛門/備中守(D)の次男「四郎左衛門尉」(H)が分家したとされる。四郎左衛門尉(H)は兄(E)と同じ備中守を名乗ったとあり、兄の死後に名乗ったものであろうか。

四郎左衛門尉/備中守(H)の次代は、孝景(F)弟の四郎左衛門尉(I)が養子として継承したとある。それぞれ、「蔵王殿」、「蔵王堂殿」と記されている。受領名の記載はない。


明応7年長尾能景書状(*1)に、「委細四郎左衛門尉可申入候」と見える。名字が略されており長尾氏の人物と推測される上、栖吉長尾房景へ宛てられた文書であることから、四郎左衛門尉は蔵王堂長尾氏の人物である可能性が高い。世代的に蔵王堂長尾氏二代目の人物ではないか。孝景弟の四郎左衛門尉(I)と推測する。


永正9年6月長尾為景書状(*2)において「長尾四郎左衛門分」が片桐氏に宛がわれている。また、同月長授院妙寿書状(*3)では「四郎左衛門分賀幾・摂待屋」が大須賀氏に宛がわれていることがわかる。

この永正9年「四郎左衛門」は前述の人物(I)と同一、もしくは後述の人物(J)の前身と思われる。


永正16年には畠山勝王書状(*4)から「長尾備中守」(J)が確認される。この備中守は、永正10年長尾為景書状(*5)で房景に対し「此趣備中殿へ同前申候」と述べられているから栖吉長尾氏の近縁であることがわかり、蔵王堂長尾氏の人物であろう。四郎左衛門尉(I)の次代にあたる。

この長尾備中守(J)については、年不詳長尾宗景書状(*6)より実名「宗景」とわかる。宛名「四郎殿」は長尾弥四郎房景(G)と推定される。発給者「備中守宗景」は、文中に栖吉長尾氏被官樫出氏が登場することから栖吉長尾氏の一門であることが窺われ、備中守の名乗りからそれは蔵王堂長尾氏の人物であると考えられるのである。

すると、永正9年11月知行宛行状(*7)を発給した「宗景」もこの長尾備中守宗景(J)のことであろう。

宗景に関しては、『長尾次第』を含め系図類にその名を見ないがこれは分家の人物であることが理由であろう。『長尾次第』に載る分家の人物はみな栖吉長尾氏出身の人物であり、その子孫については記載されていない。宗景の父が栖吉長尾氏ではないため、同氏系図には紐付けられなかったと考えられる。


さらに、「宗景」の実名については、栖吉長尾氏初期の当主と伝わる「長尾宗景」=入道長泉(C)との混同が疑われる。系譜類には長泉の実名が「宗景」と伝わるが、確実な史料にその名を見ない。さらには永正9年11月知行宛行状(*7)には後筆で「長尾備中守宗景ハ越前守房長祖父」と書入れがあり、宗景(J)と長泉(C)が後代の人々が正しく認識できていない可能性がある。よって、長泉の実名については慎重に考える必要があると考えている。


以上から、蔵王堂長尾氏として次の系譜が推測できる。

H某(四郎左衛門尉/備中守)=I某(四郎左衛門尉)-J宗景(備中守)


2>甑沢長尾氏
『長尾次第』には「小敷沢殿」とあるが、読みは同じである。四郎左衛門/備中守(D)の三男「又四郎」が分家したことが伝わる。系図上の記載は「又四郎」のみである。

文明4年雲照寺妙瑚書状(*8)には「甑沢分」が「同名又四郎」に宛がわれたことが記され、甑沢における長尾又四郎の存在は確実である。

ただ、文書上これ以後は、甑沢長尾氏の確実な初見はない。


3>系統の呼称について
ここまで、栖吉長尾氏とその一族蔵王堂長尾氏、甑沢長尾氏について検討した。

本家が栖吉に拠点を移すのは後年のことで当初は蔵王堂にその拠点があったため「蔵王堂殿」や「蔵王殿」と呼称されたと『長尾次第』に記される。また、栖吉への拠点が移された後も蔵王堂へ一門を配し、蔵王堂長尾氏と呼ぶべき庶流があった。甑沢へも一族が入部し、甑沢長尾氏が成立していた。

『長尾次第』では栖吉系やその他の庶流を全て含めて「古志」と称される。古志郡を拠点とした長尾氏の総体を古志長尾氏、その中でも栖吉を拠点とした嫡流を栖吉長尾氏と呼ぶべきだろう。以前の記事において私も「古志」と「栖吉」を混同していた部分があり、訂正したい。

当時の史料でも「古志長尾」という呼ばれ方は見ない(*9)。単に「長尾」や「同名弥四郎」、受領名「豊州」などが主であり、少し時代を下れば寛文11年(1671)『上杉家古案改帳』に「古志ノ栖吉長尾殿」と記されるのが見える。

ただ、栖吉長尾氏の別名として「古志長尾」が知られているために、わかりづらくなっている。「越之十郎」で知られる上杉十郎と長尾景信の混同も古志長尾氏の呼称に影響された感もある。また、別の機会に検討するが長尾景信は栖吉長尾氏とは関係がなく、上杉十郎とも別人と推測される。

「古志」と言われると栖吉長尾氏をイメージしてしまいがちであるが、実際には「古志」は上杉十郎の古志上条上杉氏を指し、栖吉長尾氏はあくまで「栖吉」であったと考えられるのである。

当時の呼称について正確に把握することは、史料の読解にも繋がってくるように思っている。

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ここまで、栖吉長尾氏とその一族について複数回にわたり検討してきた。系譜関係においては、概ね整理できたのではにないかと思う。ただ、政治的関係については課題が残ると言える。例えば、今回取り上げた蔵王堂長尾氏はその立地から守護代長尾氏との関係は不可避であり、実際に長尾能景書状中にその名が見えている。栖吉長尾氏においても守護上杉氏、守護代長尾氏との関係、さらに上杉謙信期のあり方など検討すべきことは多く、今後検討を進めていきたい。


*1) 『新潟県史』資料編3、227号
*2) 『越佐史料』三巻、586頁
*3) 同上、586頁
*4) 『新潟県史』資料編3、195号
*5) 同上、164号
*6) 同上、437号
*7) 『越佐史料』三巻、588頁
*8) 『新潟県史』資料編3、176号
*9)文書上で「古志」が人物を指すものとして天文6年5月長尾張恕書状(*10)がある。ここでは上田長尾氏と抗争する長尾張恕(為景)が福王寺彦八郎に「古志」と相談して対応するように命じている。これは、栖吉長尾氏ではなく古志上条上杉氏を表わしているように思う。福王寺氏が古志上条氏と共に軍事行動にあたる様子は永正7年の上野派兵の際にも見られている。
*10) 『越佐史料』三巻、806頁

※21/8/2 長尾平六の乱を永正9年1月までのこととしていたが、永正8年1月までと推測されるため該当部分を削除した。

栖吉長尾氏と長尾定景

2021-07-04 21:42:34 | 長尾氏
戦国期越後国古志郡栖吉を拠点に活動した栖吉長尾氏は天文12年までに長尾景虎(上杉謙信)によって継承されたことは、以前に検討した。しかし、それ以前に栖吉長尾氏として活動していた長尾房景とは史料的空白が存在する。

この空白期に栖吉長尾氏として誰が活動していたのであろうか。今回は、この問に対して一つの仮説を提示してみたい。

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1>栖吉長尾氏と「定景」
まず、房景の終見は栖吉長尾氏家臣只見助頼に宛てられた大永7年11月吉田景親等連署段銭預状(*1)に「豊州様」と出てくるものになる。『越後長尾殿之次第』によれば、房景に子がなかったため長尾景虎がその跡を継いだという。

しかし、房景の終見から景虎の栃尾入城までに約15年の空白がある。房景の死去と、その次代の存在を想起させるには十分な時間である。房景が生存していたならば、享禄・天文の乱などにおいて一切文書に登場しない点は不自然であるように感じる。

景虎の誕生は享禄3年であるから、房景が史料上の終見後まもなく死去していたとすればそれは景虎誕生以前の可能性もある。

やはり、房景と景虎の間に一世代あるように感じられる。それを文書から窺えるものが次の[史料1]である。


[史料1]『歴代古案』第一、197号
今度不慮之義出来、抽忠信蒙疵無比類候、弥可励懇志事、肝心者也、
   四月十日        定景
      小越源三郎殿

[史料1]は実名「定景」を名乗る人物による感状である。

小越源三郎は他に所見がないが、『歴代古案』に拠れば後筆で「平左衛門事」と書き加えられている。小越平左衛門尉は、庄田定賢らと共に栖吉長尾氏を継承した長尾景虎のもとで活動し、のちに栖吉衆の一員として見られる。

すなわち、小越平左衛門尉は栖吉長尾氏被官と考えられる。すると、[史料2]でわかるように小越氏に対し軍事指揮権を持っていた定景は栖吉長尾氏の人物であった可能性が高い。


小越平左衛門尉の初見は天文17年長尾景虎書状(*2)であり、終見は天正7年(*3)である。元亀2年に小越与十郎(*4)、天正6年に小越宮内丞(*5)、天正7年に小越与六兵衛(*6)らが見え平左衛門尉の次代にあたるであろう。『先祖由緒帳』に拠れば与六兵衛が平左衛門尉の三男である。

平左衛門尉が仮名源三郎を名乗ったとすれば、それは天文前期から中期にかけてのことであったと推測される。

そして、景虎が栖吉長尾氏を継承した後は、小越氏も景虎の軍事指揮下にあったことが確認できるから、[史料1]は景虎の栖吉長尾氏継承以前の時期に発給されたものと考えられる。


よって、長尾定景は天文前期に栖吉長尾氏家臣の軍事指揮を掌握していた人物であり、それは栖吉長尾氏当主である蓋然性が高い。ちょうど、天文前期という時期は房景と景虎の空白期に一致する。

すなわち、房景の後継者として定景を想定する。


ちなみに、応永期にも越後において長尾定景という人物の活動がみえる(*8)。定景は信濃守を名乗った人物で、守護代長尾高景の三男であり、守護代長尾頼景の父にあたる。[史料1]の「定景」がこの人物ではないか考えることもできるが、定景は守護代長尾氏の人物であり栖吉長尾氏被官小越氏との関係は認められない。

また、米沢藩『先祖由緒帳』を見ても小越氏の家伝は小越平左衛門尉より後代の記載となっており、平左衛門尉の活動時期を大きく遡る応永期頃の家伝や文書は存在していなかった可能性が高い。『先祖由緒帳』に平左衛門尉がクローズアップされていることからも、[史料1]は天文期頃の小越氏に関する文書であると考えられる。

[史料1]にある「定景」は、応永期の信濃守定景とは別人であるといえる。


2>定景と栖吉長尾氏家臣団
天文期から永禄期に活動する栖吉長尾氏出身の有力武将に「定」字を冠する者が見られる。庄田定賢や大関定憲がそうである。栖吉長尾氏当主であった定景からの偏諱と考えられないだろうか。

定景自身は越後守護上杉定実からの偏諱と考えられるが、庄田定賢や大関定憲は栖吉長尾氏被官である立場上、定実から一字を与えられたとは考えにくい。上田長尾氏においては上杉氏からの与えられた一字を家臣へ与える事例が確認できるから、この場合も上杉定実→長尾定景→庄田定賢・大関定憲という偏諱の過程が想定できる。

栖吉長尾氏家臣団の実名から定景の存在が示唆されると考えるのである。


3>定景に関する所伝
「定景」という名が出てくる所伝を見てみたい。

『平姓長尾氏系図』は長尾晴景の初名を「定景」とする。しかし、晴景は幼名道一を名乗っていた時に将軍足利義晴の偏諱を受け「弥六郎晴景」を名乗っているから、「定景」を名乗ったことはない。

また、『白川領風土記』は鵜川神社に残る安堵状(*7)は上杉謙信祖父の「長尾左衛門尉定景」なる人物の文書であると伝わっていること記している。しかし、謙信の祖父は父方が長尾能景、母方が栖吉長尾房景であるため、これも誤伝である。

このように、謙信(長尾景虎)に関連した人物として「定景」が所伝されていることがわかる。これらは誤伝であるが、栖吉長尾氏が定景から景虎へ継承された点が反映されたとも考えられよう。



以上、栖吉長尾氏の空白期を検討し、長尾定景という人物が房景の次代当主であり定景の跡目を景虎が継承した、との可能性を提示した。


*1) 『越佐史料』三巻、736頁
*2)『上越市史』別編1、237号
*3)『越佐史料』五巻、638頁
*4)『新潟県史』資料編5、3508号
*5)『上越市史』別編1、1580号
*6) 『越佐史料』五巻、665頁
*7) 同上、三巻、851頁
*8) 同上、58頁

栖吉長尾氏の系譜

2021-07-02 11:58:27 | 長尾氏
越後古志郡栖吉を拠点とした長尾氏は戦国期において顕著な活動を見せる。その成立と、歴代当主、さらにその庶流について検討していきたい。

系図としては、原本が天正14年成立の『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)を中心に栖吉長尾氏の人物を見ていく。

以下、栖吉長尾氏の人物について検討する。人物の名乗りがわかりにくいため、同一人物には同一のアルファベットを付記している。


(A) 景春カ/入道道継・豊前守
『長尾次第』に「古志上田両家初祖 蔵王堂豊州」と記されるのは、「長尾弾正左衛門」の次男「豊前守景春」である。越後守護代と推定され、文書上は入道名「道継」として見える。


(B) 某・豊前守
『長尾次第』によると景春(A)の嫡男「豊前守」が古志郡を拠点に、次男「兵庫助景実」が上田庄を拠点とする長尾氏にそれぞれ分かれた。前者が栖吉長尾氏であり、後者が上田長尾氏である。景春(A)の次世代で二氏が分家したことが示される。

この人物は子に恵まれず、景春の三男で弟である「備中守宗景」(C)が栖吉長尾氏を継承したという。


(C) 宗景カ/入道長泉・備中守
『長尾次第』に実名「宗景」、法名「月映長泉」と伝わる。実名については、後代の長尾備中守宗景との混同も考えられるため、その利用は慎重さが求められる。

応永34年2月長尾長泉文書(*1)に「御おん御れう所」=御恩御料所を「四郎さへもん入道」へ渡すとあり、さらに同年4月長尾四郎左衛門尉宛上杉房朝安堵状(*2)で「祖父備中入道長泉跡料所給分」の相続が長尾四郎左衛門尉に認められている。ここから、長尾備中守入道長泉(C)と孫の四郎左衛門尉(D)の存在が明かである。


(D) 某・四郎左衛門尉/備中守
『長尾次第』に、長泉(C)の嫡子は死去したため家督を継げなかったとあり、孫「四郎左衛門」(D)が長泉(C)の跡を継承したという。上述文書からこれは裏づけられる。

さらに『次第』には嫡男が栖吉長尾氏、次男が蔵王堂長尾氏、三男は甑沢長尾氏に分家したとある。文書上でも文明4年に甑沢への分家が確認され、永正期には栖吉長尾氏と別に備中守を名乗る系統が活動することを踏まえると、蓋然性は高い。

また、後掲[史料1]において受領名備中守が明らかである。


(E) 元景・弥四郎/備中守
『長尾次第』に「栖吉初祖」とあり、この人物の代に拠点を移したことが伝えられる。「惣領」とあり、この系統が嫡流であると認識されていたことがわかる。


[史料1]『新潟県史』資料編3、174号
御料所御恩之地所々事、方々相分候之由、内々被聞召候、不可然候、所詮、如故備州之時可有支配之由、被仰出候、此分可被相心得之由候、恐々謹言、
 十二月十三日          沙弥太西
                 左衛門尉頼景
  長尾弥四郎殿

[史料1]は従来文明2年に比定されていたが、長尾頼景が「左衛門尉」を名乗る時期を考慮すると文安2年から宝徳2年の文書と比定される(*3)。よって、この「長尾弥四郎」は四郎左衛門尉(D)=「故備州」の次代で、孝景(F)の先代であると言える。


また、「御料所御恩」の土地を家臣に分割していた状況はこの頃既に見られていたと推測できる。守護上杉房定が宝徳2年に越後へ下向したのは守護代長尾氏を牽制するだけでなく、独自な動きを取る領主層の引き締めも目的の1つであったと捉えることができよう。

守護上杉房定と前守護代長尾実景が対立していた頃、守護への忠誠を求めた宝徳3年飯沼頼泰・長尾頼景連署起請文(*4)が「なかをひん中守」=長尾備中守に宛てられている。この備中守は、弥四郎と同一人物(E)であろう。

さらに、享徳4年6月には享徳の乱に伴う上州三宮原合戦での活躍を賞する感状が上杉房定らから「長尾備中守」に発給されている(*5)。この人物(E)と見られる。

この他、年不詳7月長尾備中守宛上杉房定感状(*6)があるが、同じくこの人物(E)であろう。「栗田城合戦」での活躍を賞されていることから、信濃での活動が示唆される。すると、寛正6年6月畠山政長書状(*7)より同時期に上杉房定と信州小笠原が信濃村上氏、高梨氏を攻める計画があったことが記されており、この軍事行動に関連したものと推測されよう。寛正6年であれば、この文書が備中守(E)の終見である。


系図類では実名は記されないが、文明4年雲照寺妙瑚書状に一族の長尾又四郎が「元景御在城之時」に活躍したことが記されており、この「元景」が長尾備中守(E)である可能性が考えられる。

その徴証として、栖吉長尾氏に縁のある守門神社に「元景」の署名を持つ文書(*8)が伝わっている。この文書は『新潟県史』に「検討を要する」とされてはいるが、「元景」という人物が影響力を持つ立場で存在したことを示唆している。


(F) 孝景・弥四郎/豊前守
文明2年12月上杉房定安堵状(*9)において、「当知行分」を「長尾弥四郎」として安堵されており、孝景(F)の確実な初見である。

長享3年9月長尾能景書状(*10)、上杉常泰書状(*11)に「長尾豊前守」と見え、この時点までに受領名豊前守を名乗ったことがわかる。

明応4年12月長尾孝景譲状(*12)、上杉房能安堵状(*13)に孝景が息子「小宝士丸」へ「隠居分」を残して所領を譲与しており、孝景(F)から小宝士丸=房景(G)に代替わりしたことがわかる。

終見は永正5年11月倉俣実経他五名連署奉書(*14)である。


(G) 房景/小宝士丸(丸)・弥四郎/豊前守
明応4年に家督を譲られる。孝景(F)の譲状には「小宝士丸」とあるが、他文書では「丸」とも記されている。

永正元年10月長尾能景書状(*15)まで、小宝士丸(丸)として所見される。永正4年12月上杉定実知行宛行状(*16)に「長尾弥四郎」と見えるから、この間に元服し実名「房景」を名乗ったと推測される。実名は発給文書から確実であり、それが上杉房能からの偏諱であるならば、元服は房能の死去する永正4年8月以前のこととなる。

永正18年4月長尾為景書状(*17)まで「長尾弥四郎」として見え、大永7年10月作成の段銭帳『豊州段銭日記』(*18)中に房景が「豊州」と記されているから大永年間に受領名「豊前守」を名乗ったと推測される。

そして、同年11月吉田景親等段銭請取状(*19)が房景の終見である。


その後、長尾景虎が栖吉長尾氏を継承したと推定される。

しかし、房景の終見は大永期であり景虎の栃尾入部とは約15年の隔たりがある。栖吉長尾氏におけるこの空白期をどう捉えるかは、判断の分かれるところである。

個人的には史料的な状況から見ても房景と景虎の間に一世代存在した可能性があると考えている。詳しくは次回検討したい。



以上、長尾房景まで栖吉長尾氏の系譜を考えた。推定される系譜は次の通りである。

A景春カ/道継(豊前守)-B某(豊前守)=C宗景カ/長泉(備中守)-某-D某(四郎左衛門尉/備中守)-E元景(弥四郎/備中守)-F孝景(弥四郎/豊前守)-G房景/小宝士丸(弥四郎/豊前守)



*1) 『新潟県史』資料編3、216号
*2) 同上、217号
*4) 『新潟県史』資料編4、193号
*5) 同上、194号
*6) 同上、196号
*7) 『越佐史料』三巻、141頁
*8) 『新潟県史』資料編5、2717号
*9) 『越佐史料』三巻、172頁
*10) 『新潟県史』資料編3、190号
*11) 同上、52号
*12) 同上、221号
*13) 同上、220号
*14) 同上、191号
*15) 同上、223号
*16) 同上、173号
*17)同上、156号
*18)『越佐史料』三巻、729頁
*19) 同上、736頁