『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)には栖吉長尾氏の分家として蔵王堂長尾氏、甑沢長尾氏が存在したことが記されている。今回は、その二氏について考えてみたい。
前回、栖吉長尾氏の系譜を検討した際、当主にアルファベットを付記して整理したが今回もそれを継承していく。
A景春カ/道継(豊前守)-B某(豊前守)=C宗景カ/長泉(備中守)-某-D某(四郎左衛門尉/備中守)-E元景(弥四郎/備中守)-F孝景(弥四郎/豊前守)-G房景/小宝士丸(弥四郎/豊前守)
なお、栖吉長尾氏として蔵王堂から栖吉へ拠点を移す以前には惣領筋が蔵王堂長尾氏と呼ばれていたようだが、ここで言う蔵王堂長尾氏は惣領が移転後に蔵王堂で成立した庶家を指す。この辺の呼称の曖昧さについてはページ後尾で整理している。
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1>蔵王堂長尾氏
『長尾次第』では、四郎左衛門/備中守(D)の次男「四郎左衛門尉」(H)が分家したとされる。四郎左衛門尉(H)は兄(E)と同じ備中守を名乗ったとあり、兄の死後に名乗ったものであろうか。
四郎左衛門尉/備中守(H)の次代は、孝景(F)弟の四郎左衛門尉(I)が養子として継承したとある。それぞれ、「蔵王殿」、「蔵王堂殿」と記されている。受領名の記載はない。
明応7年長尾能景書状(*1)に、「委細四郎左衛門尉可申入候」と見える。名字が略されており長尾氏の人物と推測される上、栖吉長尾房景へ宛てられた文書であることから、四郎左衛門尉は蔵王堂長尾氏の人物である可能性が高い。世代的に蔵王堂長尾氏二代目の人物ではないか。孝景弟の四郎左衛門尉(I)と推測する。
永正9年6月長尾為景書状(*2)において「長尾四郎左衛門分」が片桐氏に宛がわれている。また、同月長授院妙寿書状(*3)では「四郎左衛門分賀幾・摂待屋」が大須賀氏に宛がわれていることがわかる。
この永正9年「四郎左衛門」は前述の人物(I)と同一、もしくは後述の人物(J)の前身と思われる。
永正16年には畠山勝王書状(*4)から「長尾備中守」(J)が確認される。この備中守は、永正10年長尾為景書状(*5)で房景に対し「此趣備中殿へ同前申候」と述べられているから栖吉長尾氏の近縁であることがわかり、蔵王堂長尾氏の人物であろう。四郎左衛門尉(I)の次代にあたる。
この長尾備中守(J)については、年不詳長尾宗景書状(*6)より実名「宗景」とわかる。宛名「四郎殿」は長尾弥四郎房景(G)と推定される。発給者「備中守宗景」は、文中に栖吉長尾氏被官樫出氏が登場することから栖吉長尾氏の一門であることが窺われ、備中守の名乗りからそれは蔵王堂長尾氏の人物であると考えられるのである。
すると、永正9年11月知行宛行状(*7)を発給した「宗景」もこの長尾備中守宗景(J)のことであろう。
宗景に関しては、『長尾次第』を含め系図類にその名を見ないがこれは分家の人物であることが理由であろう。『長尾次第』に載る分家の人物はみな栖吉長尾氏出身の人物であり、その子孫については記載されていない。宗景の父が栖吉長尾氏ではないため、同氏系図には紐付けられなかったと考えられる。
さらに、「宗景」の実名については、栖吉長尾氏初期の当主と伝わる「長尾宗景」=入道長泉(C)との混同が疑われる。系譜類には長泉の実名が「宗景」と伝わるが、確実な史料にその名を見ない。さらには永正9年11月知行宛行状(*7)には後筆で「長尾備中守宗景ハ越前守房長祖父」と書入れがあり、宗景(J)と長泉(C)が後代の人々が正しく認識できていない可能性がある。よって、長泉の実名については慎重に考える必要があると考えている。
以上から、蔵王堂長尾氏として次の系譜が推測できる。
H某(四郎左衛門尉/備中守)=I某(四郎左衛門尉)-J宗景(備中守)
2>甑沢長尾氏
『長尾次第』には「小敷沢殿」とあるが、読みは同じである。四郎左衛門/備中守(D)の三男「又四郎」が分家したことが伝わる。系図上の記載は「又四郎」のみである。
文明4年雲照寺妙瑚書状(*8)には「甑沢分」が「同名又四郎」に宛がわれたことが記され、甑沢における長尾又四郎の存在は確実である。
ただ、文書上これ以後は、甑沢長尾氏の確実な初見はない。
3>系統の呼称について
ここまで、栖吉長尾氏とその一族蔵王堂長尾氏、甑沢長尾氏について検討した。
本家が栖吉に拠点を移すのは後年のことで当初は蔵王堂にその拠点があったため「蔵王堂殿」や「蔵王殿」と呼称されたと『長尾次第』に記される。また、栖吉への拠点が移された後も蔵王堂へ一門を配し、蔵王堂長尾氏と呼ぶべき庶流があった。甑沢へも一族が入部し、甑沢長尾氏が成立していた。
『長尾次第』では栖吉系やその他の庶流を全て含めて「古志」と称される。古志郡を拠点とした長尾氏の総体を古志長尾氏、その中でも栖吉を拠点とした嫡流を栖吉長尾氏と呼ぶべきだろう。以前の記事において私も「古志」と「栖吉」を混同していた部分があり、訂正したい。
当時の史料でも「古志長尾」という呼ばれ方は見ない(*9)。単に「長尾」や「同名弥四郎」、受領名「豊州」などが主であり、少し時代を下れば寛文11年(1671)『上杉家古案改帳』に「古志ノ栖吉長尾殿」と記されるのが見える。
ただ、栖吉長尾氏の別名として「古志長尾」が知られているために、わかりづらくなっている。「越之十郎」で知られる上杉十郎と長尾景信の混同も古志長尾氏の呼称に影響された感もある。また、別の機会に検討するが長尾景信は栖吉長尾氏とは関係がなく、上杉十郎とも別人と推測される。
「古志」と言われると栖吉長尾氏をイメージしてしまいがちであるが、実際には「古志」は上杉十郎の古志上条上杉氏を指し、栖吉長尾氏はあくまで「栖吉」であったと考えられるのである。
当時の呼称について正確に把握することは、史料の読解にも繋がってくるように思っている。
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ここまで、栖吉長尾氏とその一族について複数回にわたり検討してきた。系譜関係においては、概ね整理できたのではにないかと思う。ただ、政治的関係については課題が残ると言える。例えば、今回取り上げた蔵王堂長尾氏はその立地から守護代長尾氏との関係は不可避であり、実際に長尾能景書状中にその名が見えている。栖吉長尾氏においても守護上杉氏、守護代長尾氏との関係、さらに上杉謙信期のあり方など検討すべきことは多く、今後検討を進めていきたい。
*1) 『新潟県史』資料編3、227号
*2) 『越佐史料』三巻、586頁
*3) 同上、586頁
*4) 『新潟県史』資料編3、195号
*5) 同上、164号
*6) 同上、437号
*7) 『越佐史料』三巻、588頁
*8) 『新潟県史』資料編3、176号
*9)文書上で「古志」が人物を指すものとして天文6年5月長尾張恕書状(*10)がある。ここでは上田長尾氏と抗争する長尾張恕(為景)が福王寺彦八郎に「古志」と相談して対応するように命じている。これは、栖吉長尾氏ではなく古志上条上杉氏を表わしているように思う。福王寺氏が古志上条氏と共に軍事行動にあたる様子は永正7年の上野派兵の際にも見られている。
*10) 『越佐史料』三巻、806頁
※21/8/2 長尾平六の乱を永正9年1月までのこととしていたが、永正8年1月までと推測されるため該当部分を削除した。