越後桃井氏は、上杉景勝と上杉景虎の争う御館の乱において景虎味方として天正6年5月に桃井伊豆守が戦死するが、天正10年以降桃井宮内少輔その子喜兵衛が景勝の元再び上杉氏家臣として見える。
御館の乱後、景虎方重鎮の多くが滅亡を遂げる中での帰参は注目すべきである。その動向を確認してみたい。
まず、御館の乱に伴う武田勝頼の軍事介入の後、桃井氏の拠点である越後飯山城は武田勝頼の支配領域となる点に留意したい。天正6年6月に勝頼と上杉景勝の同盟が結ばれるから、この前後に飯山の領有が実現したと見られる。同年9月には勝頼から尾崎孫十郎に安堵状が発給され(*1)、天正7年7月武田勝頼判物写(*2)において勝頼が飯山城へ在城する禰津松鷂軒常安に「飯山之郷」他4カ所を与えている。
天正10年3月の武田氏滅亡後には上杉氏の信濃侵攻が開始され、その際飯山付近も上杉氏の影響を受ける。天正10年4月岩井信能書状(*3)には「外様之もの共如先代御忠信申候、飯山之地取つめ申候之由、自何以可然候」とあり、上杉氏の支配を離れていた飯山を、景勝が再び支配していく様子が窺える。「外様之もの共先代御忠信」とあることから、対象が御館の乱以前上杉謙信の元で活動していた人々であることは確実である。さらに、「外様」は御館の乱中に景勝軍が攻撃している地であるから、謙信死後は景虎に味方した者らであったと推測される。福原圭一氏(*4)は上倉氏や奈良澤氏、泉氏、尾崎氏などこの地域を本拠とする在地の武士を「飯山衆」や「外様衆」と呼ばれるとしている。実際、上記で天正6年時に武田氏への帰属を確認した尾崎孫十郎に対し天正10年4月に直江兼続が知行書出を発給している(*5)。
飯山城将であった桃井氏も外様衆らと同様の行動を示していたとは考えられないだろうか。御館の乱において、『景勝一代記』は飯山城から御館へ着陣した武将として、「桃井伊豆守、本田石見守、其外外様衆」を挙げ、上述の『文禄三年定納員数目録』に桃井氏が飯山氏周辺の領主の記載中に組み込まれていることなどもそれを示唆する(*6)。
[史料1]『上越市史』別編2、2333号
「(ウハ紙)
上条殿 参 実城」
返々、桃井所よりの書中為御披見差越候、与六所へさしこし候、いも川もせいしをヲハ成之、昨日さしこし申候、
一筆申候、仍而今度信州有之いも川、此度当方へ可成忠功由申候、証人なと可相渡由申候条、深々与自境目可動由、雖申越候、人体衆にふにふにて、もとをらす、のひのひにて口惜迄候、やかてやかて、上より証人可取由、沙汰候間、其内ニと申こし候へ共、手前無人数故遅引、口惜次第候、桃井宮内少輔ニ付而、度々申越候、此上いかん成之可然候や、有御工夫、一途御意見待入候、以上、
[史料1]は天正10年4月の書状である。[史料1]には景勝が信濃方面の指揮官上条冝順へ「桃井宮内少輔ニ付而、度々申越候、此上いかん成之可然候や、有御工夫、一途御意見待入候」と述べ、まさに桃井氏の処遇についての記述と見ることができるのではないか。さらに、[史料1]「桃井所よりの書中為御披見差越候」「いも川もせいしヲハ成之、昨日さしこし申候」、同時期の景勝が他の書状で「芋川・外様之者共へ書中遣之候」(*7)と述べており、芋川氏とや外様衆と桃井氏の動向が一致していることがわかる。この時上杉氏に従属した芋川氏と同様に、桃井氏も誓紙を提出したと考えるのが自然である。
芋川氏の従属は速やかに決まっている一方、桃井宮内少輔について景勝が「度々申越候、此上いかん成之可然候や」と述べその帰参を渋っているように感じられるが、御館の乱において交戦した事情を考えれば当然であろう。
御館の乱による桃井伊豆守戦死の後も、桃井氏は飯山周辺を拠点とし勢力を維持していたと想定され、それは武田氏への帰属を意味していると考える。そして武田氏滅亡後、天正10年4月に他の飯山周辺の領主らと共に再び上杉氏に従属したと推測できる。以上より、拠点飯山が上杉氏・武田氏という大勢力の境目に位置するという条件によって桃井氏の存続と上杉氏への復帰が可能になった、といえるだろう。
*1)『戦国遺文武田氏編』第五巻、3172号、年時比定は湯本軍一氏「戦国大名武田氏の貫高制と軍役」に拠った。
*2)同上、3139号
*3)『上越市史』別編2、2321号
*4)福原圭一氏「上杉謙信と城」(『上杉謙信』高志書院)
*5)『上越市史』別編2、2341号
*6)御館の乱前は越後の所領も存在していただろうが、伊豆守の討ち死と景虎の敗北により失われたであろう。それにより、一層飯山周辺の領主としての側面は強くなったのではないか。ただ、『文禄三年定納員数目録』は泉氏など飯山周辺の武将に関連する改竄があるとされ、注意が必要である。
*7)『上越市史』別編2、2332号