鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

桃井氏と御館の乱

2020-10-28 21:59:08 | 桃井氏
越後桃井氏は、上杉景勝と上杉景虎の争う御館の乱において景虎味方として天正6年5月に桃井伊豆守が戦死するが、天正10年以降桃井宮内少輔その子喜兵衛が景勝の元再び上杉氏家臣として見える。

御館の乱後、景虎方重鎮の多くが滅亡を遂げる中での帰参は注目すべきである。その動向を確認してみたい。


まず、御館の乱に伴う武田勝頼の軍事介入の後、桃井氏の拠点である越後飯山城は武田勝頼の支配領域となる点に留意したい。天正6年6月に勝頼と上杉景勝の同盟が結ばれるから、この前後に飯山の領有が実現したと見られる。同年9月には勝頼から尾崎孫十郎に安堵状が発給され(*1)、天正7年7月武田勝頼判物写(*2)において勝頼が飯山城へ在城する禰津松鷂軒常安に「飯山之郷」他4カ所を与えている。
              
天正10年3月の武田氏滅亡後には上杉氏の信濃侵攻が開始され、その際飯山付近も上杉氏の影響を受ける。天正10年4月岩井信能書状(*3)には「外様之もの共如先代御忠信申候、飯山之地取つめ申候之由、自何以可然候」とあり、上杉氏の支配を離れていた飯山を、景勝が再び支配していく様子が窺える。「外様之もの共先代御忠信」とあることから、対象が御館の乱以前上杉謙信の元で活動していた人々であることは確実である。さらに、「外様」は御館の乱中に景勝軍が攻撃している地であるから、謙信死後は景虎に味方した者らであったと推測される。福原圭一氏(*4)は上倉氏や奈良澤氏、泉氏、尾崎氏などこの地域を本拠とする在地の武士を「飯山衆」や「外様衆」と呼ばれるとしている。実際、上記で天正6年時に武田氏への帰属を確認した尾崎孫十郎に対し天正10年4月に直江兼続が知行書出を発給している(*5)。

飯山城将であった桃井氏も外様衆らと同様の行動を示していたとは考えられないだろうか。御館の乱において、『景勝一代記』は飯山城から御館へ着陣した武将として、「桃井伊豆守、本田石見守、其外外様衆」を挙げ、上述の『文禄三年定納員数目録』に桃井氏が飯山氏周辺の領主の記載中に組み込まれていることなどもそれを示唆する(*6)。


[史料1]『上越市史』別編2、2333号
「(ウハ紙)
上条殿 参     実城」
返々、桃井所よりの書中為御披見差越候、与六所へさしこし候、いも川もせいしをヲハ成之、昨日さしこし申候、
一筆申候、仍而今度信州有之いも川、此度当方へ可成忠功由申候、証人なと可相渡由申候条、深々与自境目可動由、雖申越候、人体衆にふにふにて、もとをらす、のひのひにて口惜迄候、やかてやかて、上より証人可取由、沙汰候間、其内ニと申こし候へ共、手前無人数故遅引、口惜次第候、桃井宮内少輔ニ付而、度々申越候、此上いかん成之可然候や、有御工夫、一途御意見待入候、以上、


[史料1]は天正10年4月の書状である。[史料1]には景勝が信濃方面の指揮官上条冝順へ「桃井宮内少輔ニ付而、度々申越候、此上いかん成之可然候や、有御工夫、一途御意見待入候」と述べ、まさに桃井氏の処遇についての記述と見ることができるのではないか。さらに、[史料1]「桃井所よりの書中為御披見差越候」「いも川もせいしヲハ成之、昨日さしこし申候」、同時期の景勝が他の書状で「芋川・外様之者共へ書中遣之候」(*7)と述べており、芋川氏とや外様衆と桃井氏の動向が一致していることがわかる。この時上杉氏に従属した芋川氏と同様に、桃井氏も誓紙を提出したと考えるのが自然である。

芋川氏の従属は速やかに決まっている一方、桃井宮内少輔について景勝が「度々申越候、此上いかん成之可然候や」と述べその帰参を渋っているように感じられるが、御館の乱において交戦した事情を考えれば当然であろう。


御館の乱による桃井伊豆守戦死の後も、桃井氏は飯山周辺を拠点とし勢力を維持していたと想定され、それは武田氏への帰属を意味していると考える。そして武田氏滅亡後、天正10年4月に他の飯山周辺の領主らと共に再び上杉氏に従属したと推測できる。以上より、拠点飯山が上杉氏・武田氏という大勢力の境目に位置するという条件によって桃井氏の存続と上杉氏への復帰が可能になった、といえるだろう。


*1)『戦国遺文武田氏編』第五巻、3172号、年時比定は湯本軍一氏「戦国大名武田氏の貫高制と軍役」に拠った。
*2)同上、3139号
*3)『上越市史』別編2、2321号
*4)福原圭一氏「上杉謙信と城」(『上杉謙信』高志書院)
*5)『上越市史』別編2、2341号
*6)御館の乱前は越後の所領も存在していただろうが、伊豆守の討ち死と景虎の敗北により失われたであろう。それにより、一層飯山周辺の領主としての側面は強くなったのではないか。ただ、『文禄三年定納員数目録』は泉氏など飯山周辺の武将に関連する改竄があるとされ、注意が必要である。
*7)『上越市史』別編2、2332号

桃井氏の系譜3

2020-10-25 16:52:04 | 桃井氏
前々回越後桃井氏の系譜を検討し、前回越後桃井氏とは別系統の関東系桃井氏と京都奉公衆系桃井氏が存在することを確認した。今回は、京都外様衆系桃井氏の存在を踏まえ、越後桃井氏のルーツを考察していく。

結論から言えば、越後桃井氏は京都足利幕府の外様衆出身であり、享徳の乱における関東下向をきっかけに越後に定着したと推測する。


まず、「桃井讃岐守」について改めて確認する。上杉氏と古河足利氏の抗争である享徳の乱(*1)とその後の越後においてその名が見られる。

『松陰私語』(*2)における文明三年下野児玉塚、佐野への上杉方進軍に関する記述の中に、「(岩松家純・明純の記述略)・桃井讃岐守・上杉治部小輔・同名形部少輔、武州成田以下為先、当方二千五百余騎、向児玉塚発向」とある。さらに、その翌年反攻してきた足利方と利根川を挟んで対陣する上杉方として「管領上杉、(岩松氏の記述略)、桃井讃岐守・上杉上条・八条・同治部少輔・同形部少輔・上杉扇谷・武・上・相之衆、上杉庁鼻和、都合七千余騎」とある。これらについて、森田真一氏(*3)は上杉一族より前に記されていることから桃井讃岐守が家格の高い人物であると想定している。

明応9年の本庄氏の反乱に際して、その派遣軍の中に「桃井殿」が見える(*4)。併記される「飯沼丹後」と異なり「殿」の敬称が付されていることから、ここでも家格の高さがわかる。

永正6、7年に勃発する長尾為景と山内上杉可諄・憲房の抗争において「桃井讃岐守」が山内上杉氏方で活動している様子が見える(*5)。


次に、京都で所見される外様衆としての桃井氏を検討していく。幕府の諸番帳において「外様衆」の内に記載があることのみで確認できる系統である。文安年間(1444~49)成立の『幕府番帳安』に、「桃井右馬助」。寛正年間(1460~66)成立の『大和大和守晴完入道宗恕筆記一』に、「桃井右馬頭」。同寛正年間成立の『条々事書』に、「桃井右馬頭」。長享元年(1487~89)成立の『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』に、「桃井右馬頭」が確認される。

これを、外様衆系と呼んでおく。ここでいう外様衆とは「国持」と呼ばれる大名ではなく、相伴衆、奉公衆などと並ぶ室町幕府の構成員のことである。外様衆は木下聡氏の研究(*6)に詳しく、それによると桃井氏が外様衆に属する背景を南北朝期に越中・能登守護を経験した家格によると推測している。また、「桃井右馬頭」は番帳にしか名が見えず『長享』番帳を最後に所見されないという。


ここまで、越後系、讃岐系、外様衆系が系譜関係を検討すべき系統として残った訳だが、外様衆系の名乗りが右馬助/右馬頭であることに注目すれば、越後系桃井右馬助との共通性は明らかであろう。よって外様衆系と越後系が同系であり、京都外様衆であった桃井氏が越後へ定着した可能性が浮上する。


森田氏(*3)は『康富記』の記述に康正元年4月「上杉・今川・桃井」が関東へ下向したとあることを踏まえて、これを桃井讃岐守と推測している。さらに同氏は「このとき下向した桃井氏は、京都幕府の外様衆或いは奉公衆の系譜を引く人物の可能性がある。」とも言及している。よって、外様衆系と越後系の中間として讃井守系が位置づけられることが推定される。

年次の整合性を確認する。まず、外様衆系の京都での終見が長享年間であり、越後系の初見は享禄年間だから全く矛盾しない。さらに、讃岐守系を見ると初見が文明年間で終見が永正年間である。外様衆系と越後衆の間を埋めるように讃岐守系が所見されることがわかる。享徳の乱の終結が文明14年であるから、それを境に京都から関東を経て越後へこの三系統が移っていく印象である。

以上から三系統を同系と推測し、外様衆桃井氏が享徳の乱のために康正元年に関東へ下向、その後明応までに越後へ拠点を移し、最終的に長尾上杉氏家臣桃井氏となったと推測する。関東下向から越後定着という展開は八条上杉氏と同様である。


さてこれらを踏まえて人物を整理してみたい。まず、享徳の乱で活躍する桃井讃岐守が康正元年の下向だとすると、すると、上述の文安の番帳でみられる右馬助と寛正年間の二つの番帳に記載された桃井右馬頭は別人である。すなわち、右馬助が讃岐守の前身であろう。康正元年に成人している人物が永正中期まで活動するのは無理であろうから、明応・永正年間の桃井讃岐守は上記の讃岐守とは別人と見られ、寛正の番帳や、長享の番帳で見える桃井右馬頭の後身ではないか。

すなわち「讃岐守」は文安から文明に活動が見られる右馬助/讃岐守と、寛正から永正に活動が見られる右馬頭/讃岐守の二人と見る。

永正まで見られる桃井讃岐守の跡を継いだのは、享禄には受領名伊豆守で見える桃井義孝であろう。

(右馬助/讃岐守)-(右馬頭/讃岐守)-義孝(伊豆守)、という系譜関係が推測される。


讃岐守が京都より派遣された人物であるとすると、『松陰私語』において上杉氏らよりも前に位置する記載順の説明がつく。さらに、長尾景虎の活動期に桃井氏の家格が高いことが史料から読み取れるが、それも出身が京都外様衆であることに由来すると考えられる。

[史料1]『上越市史』別編1、3号
兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候。覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候。何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日     平三景虎
村山与七郎殿

越後桃井氏が京都外様衆出身でありそれに由来して高い家格を誇っていたことを確認した上で[史料1]を見ると、長尾景虎の活動期における桃井氏の立場についても納得できるものがある。黒田秀忠の反乱や景虎の家督相続に際して、桃井氏の影響力も無視できるものではなかった、といえよう。


ここまでの検討を踏まえ、外様衆系桃井氏のち越後桃井氏の系譜を総合すると、

(右馬助/讃岐守)-(右馬頭/讃岐守)-義孝(伊豆守)-(清七郎/右馬助/伊豆守)-(宮内少輔)-(喜兵衛)

と推定される。


追記:2021/2/23
寛正期に所見される「桃井伊豆入道」について  
『蔭涼軒日録』には寛正5年8月、「桃井伊豆入道」が富樫泰高と共に隠居したと記録されている。富樫氏は加賀守護で「国持外様」と呼ばれる地位にあり、この人物と併記された桃井伊豆入道も外様衆である可能性が考えられる。伊豆守は越後桃井氏の名乗りであるから、外様衆桃井氏が越後桃井氏の前身であることを示すさらなる根拠となりえる。

伊豆入道は寛正年間に入道し隠居しているから高齢であることが窺われる人物である。この人物が外様衆桃井氏であれば、同時期に享徳の乱に伴い関東へ出陣した桃井右馬助/讃岐守の先代にあたると推測されよう。


*1)享徳の乱に関する年時比定は、峰岸純夫氏『享徳の乱』(講談社選書メチエ)、『史料纂集古記録編 松陰私語』(八木書店)に従う。
*2)『松陰私語』は新田岩松氏の陣僧松陰によって記されているため、岩松氏の記述は差し引いて考える必要がある。
*3) 森田真一氏『上杉顕定』戒光祥出版
*4) 『越佐史料』三巻、375号
*5)『越佐史料』三巻、519頁
*6)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」、各番帳の年時比定もこれに従った。

桃井氏の系譜2

2020-10-23 00:02:47 | 桃井氏
前回は越後における桃井氏の系譜を検討し、享徳の乱以降関東や越後において桃井讃岐守の活動があり、その後は越後における桃井氏の活動が見られることを確認した(便宜的に越後系、讃岐守系と呼ぶ)。今回は越後以外における桃井氏の所見を辿ってみたい。

関東においては越後桃井氏とはまた違う活動を見せる桃井氏をみる。享徳の乱における所見である。『松陰私語』の記述の中で享徳4年三宮原合戦において山内上杉氏、越後上杉氏と交戦している武将に「新田、鳥山、桃井以下」と挙げている。さらに、岩松氏が古河足利方に寝返った後、文明9年岩松氏と鳥山氏の相論についての記述中に「畠山・桃井・田中」が出てくる。どちらも、古河足利方の武将であることから、一貫して上杉方としてみえる桃井讃岐守系統とも異なる桃井氏として見ることができよう。古河足利氏の家臣としての桃井氏が存在したと見られる。

永享12年年間に桃井左衛門督憲義が鎌倉公方足利氏の添状を発給していること(*1)などを見ると、それは一貫したものだということが理解できる。

関東を拠点とした一族と想定でき、関東系と呼んでおく。

関東系はその後所見されず、関東から没落したように思える。永禄4年に長尾景虎味方を書き連ねた『関東幕注文』にその名がないことは、それを裏づけるだろう。


さて、桃井氏は信濃国においても所見される。永禄4年5月には武田信玄により「桃井六郎次郎」が塩田城在城を命じられ、同時に内田、二子(共に松本市)を与えられている(*2)。永禄10年生島足島神社への起請文の中には、「桃井蔵人佐頼光」の名が見える(*3)。時期的に両者は同一人物であると見て良いのではないか。

天正6年6月には桃井綱千代が武田家朱印状(*4)によって知行を約束されている。文中に「就亡父先忠、以法性院殿直判、被相渡候本領」とあり、亡き父は信玄(法性院)の頃から武田氏に属していることがわかるから越後桃井氏とは関係がないことが明らかになる。また、父は信玄に本領を宛がわれる立場であるから、他国からの流入するなどした在地性の薄い存在であることが類推される。世代的にこの父は頼光ではないか。

これを信濃系と呼ぶ。


さて、ここに関東系と信濃系を検出したが、結論から言えば両者は同系であると推測される。

『文禄三年定納員数目録』(以下『目録』)には「上州惣社衆 長尾平太」の同心として「桃井蔵人」が現れる。上野国に縁があるならば関東系に分類すべきであるが、上述したように関東系は没落していたと考えられ、安易に系譜を繋げられない。

そこで、永禄10年の信濃系所見「桃井蔵人佐頼光」と『目録』中「桃井蔵人」の官途名の一致は示唆的である。信濃系は関東系は関東からの没落後の姿であると考えられ、二つの系統が同系であることが推測される。武田氏滅亡後、北信濃の武将は上杉氏に従うものが多いから『目録』の桃井蔵人は、桃井綱千代の後身であろう。上杉氏に帰属後、本来関東出身であることから惣社衆に組み込まれたのだろう。

先に綱千代の父すなわち頼光が信玄から本領を宛がわれた事実をみたが、それは頼光の代に亡命したからとは考えられないだろうか。そうだとすれば、永禄3年から4年にかけての長尾景虎関東越山が理由として最も有力であり、それは頼光が所領を宛がわれた時期と一致する。『目録』で上州惣社衆として存在するのも、信濃への移動がそこから近い世代において行われたことを示すのではないか。


ここで、関東系桃井氏の拠点を推測してみよう。享徳の乱において関東系桃井氏が上杉軍と交戦した三宮原は現吉岡町、その後楯籠もった「高谷城」は高井城と推定され現前橋市に位置する。『目録』で関東桃井氏が所属する惣社衆も現前橋市惣社に由来している。現吉岡町には桃井城(地名から大藪城とも)の跡地が確認され、桃井氏の城という所伝がある。ちなみに、『日本城郭大系』は桃井氏の城としながら、築城年代を文明年間と推定し所伝にある桃井直常の関与には否定的である。

森田真一氏の著書『上杉顕定』(戒光祥出版)から引用すれば、「桃井氏は、鎌倉期から本貫地の上野国群馬郡桃井郷(榛東村)において確認されており(往古過去帳など)、その後の南北朝~室町期にかけては多くの系統に分かれ、鎌倉府の重臣、あるいは室町幕府の奉公衆・外様衆として活躍していた。」とされる。榛東村と吉岡町は隣接する自治体であり、関東桃井氏が桃井城を拠点として桃井郷を支配していたと考えられる。

以上のように、現在の吉岡町、前橋市に桃井氏が存在した徴証が複数ある。上州桃井城を関東系桃井氏の拠点として推測することができる。


ここまで、鎌倉/古河公方家臣出身の関東系桃井氏が永禄3・4年の長尾景虎関東越山に従わず武田信玄の元へ逃れ信濃で活動するようになったこと、武田氏滅亡後は上杉景勝に従い関東と関係の深い立場を与えられたと捉えられることから、関東系と信濃系は同系であると推測した。人物として、永禄期に活動した頼光(六郎次郎/蔵人丞)と天正期の活動が見られるその子某(綱千代/蔵人)を検出した。


さらに、京都においても桃井氏は存在する。文明12~13年成立と見られる『永享以来御番帳』において「二番番頭 桃井治部少輔入道常欽」を見る。時代は下って、明応元年もしくは翌年初頭の成立とみられる『東山殿時代大名外様附』(*5)の奉公衆の記載中に二番衆番頭として「桃井民部少輔」、続いて「同右京亮」が見られる。

二番衆の番頭という共通性から、奉公衆桃井氏が存在したと見られる。奉公衆系と呼ぼう。

延徳元年頃にも「桃井治部少輔」が所見され(大館尚氏書状案)、木下聡氏(*6)によれば足利義稙方として足利義澄方と交戦しているという。さらに、大永2年7月の本書を写したという安富元盛武家書札礼写(*7)に「番頭之衆」の内に「二番 桃井左京亮殿」が見られる。よって、奉公衆系が京都における一貫した系統であることが推測される。


ここまで、越後系、讃岐守系の他に関東系、信濃系、奉公衆系を提示、関東系と信濃系が同系であり、奉公衆系が一貫した系統であることを推測した。次回は、京都における外様衆としての桃井氏を確認した上で越後桃井氏のルーツを検討していきたい。


*1)『福島県史』資料編2、537頁
*2)『戦国遺文武田氏編』一巻、742号
*3)同上、二巻、1133号
*4)同上、四巻、2990号
*5)今谷明氏「『東山殿時代大名外様附』について」
*6)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」、各番帳の年時比定もこれに従った。
*7)『新潟県史』資料編3、833号

※10/25 奉公衆系桃井左京亮の所見について加筆。

桃井氏の系譜1

2020-10-16 00:03:20 | 桃井氏
戦国期越後桃井氏の系譜を検討してみたいと思う。読みはモモノイである。


永正6、7年に勃発する長尾為景と山内上杉可諄・憲房の抗争において「桃井讃岐守」が山内上杉氏方で活動している様子が見える(*1)。永正7年6月には「黒瀧要害之事者八条修理、桃井一類在城堅固に候」(*2)と具体的な活動も確認される。ただ、上杉可諄敗死後の動向は不明である。

桃井讃岐守は享徳の乱に関連して関東での活動も見られるから、系譜関係はひとまず保留する。


享禄4年1月の越後衆軍陣壁書写(*3)にある署名「桃井伊豆守義孝」がみえる。この所見から義孝は越後を拠点にしての活動が明らかである。

天文の乱においては、上条上杉氏方で桃井氏が見える。天文4年9月砂越氏維宛の本庄房長等7名連署状(*4)において「自桃井弥次郎方被申越候」「巨細桃井方、本庄孫太郎方へ申下候、無御心元題目不可有之候、弥彼両人被仰合、於刷共者、可被相任之候」すなわち、出羽庄内の砂越氏に援軍を頼みその使者として本庄孫太郎と桃井弥次郎が遣わされたと読み取れよう。桃井弥次郎は先述の桃井義孝の一族ではないだろうか。天文の乱は長尾為景の優位に終結するが、これ以後も桃井氏の所見がありその存続が確認できる。


続く所見は、第一次黒田秀忠の乱に関する天文17年10月長尾景虎書状(*5)である。ここに、「兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候。覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候」とある。長尾晴景に対し反乱を起こした黒田秀忠討伐のため景虎が登場するわけであるが、この際桃井氏と談合したことが記されている。この頃においても、桃井氏が府内長尾氏と協調しながら影響力を保っていたことが窺われる。


『越後平定以下祝儀太刀次第写』では、永禄2年に長尾景虎へ太刀を献上したとされる人々に「直太刀之衆」中に「桃井殿」が見える。「直太刀之衆」は、「越ノ十郎殿」「桃井殿」「三本寺殿」の三名のみで構成され、家格の高さを表しているといえる。

この「桃井殿」について『上杉御年譜』は「桃井清七郎」とする。『越後平定以下祝儀太刀次第写』には「本庄清七郎殿」が見えるが、「清七郎」は後筆とされ、加えてこの頃の栃尾本庄氏を代表する人物は本庄宗緩もしくはその次代新左衛門尉であるから、この記述は誤りであろう。後年本庄清七郎が登場することから、桃井清七郎と混同された可能性はある。『上杉御年譜』を信用して清七郎と比定したい。清七郎は、伊豆守義孝の後継であろう。清七郎は、以降に見える右馬助、伊豆守と同一人物であろう。

永禄3年8月には関東出陣に際して出された長尾景虎掟書(*6)の宛名に長尾小四郎、黒川竹福、柿崎和泉守、長尾源五と並び「桃井右馬助殿」が所見される。

永禄4年4月には上杉政虎が「御くらニもものい右馬助進上の大かたな御さあるへく候」(*7)すなわち、桃井右馬助が進上した太刀が蔵にあるだろう、と言及している。


[史料1]『信濃史料』十二巻、327頁
改年之佳慶、漸雖事旧候、猶更不可有儘期、仍為御祝儀、太刀一腰令進入候、誠表万幸之一儀迄候、何様永日可申宣候条、不能詳候、恐々謹言
  三月十六日                  伊豆守義孝
 謹上 高梨形部太夫殿 御宿所

[史料1]は『信濃史料』において永禄4年3月に比定されている文書である。『上杉御年譜』が永禄7年9月の頁において右馬助にあたる人物を「桃井伊豆守義孝」としていることなどから、この書状を含め実名「義孝」に比定されることが多い。しかし、それでは先代と同じ名前となる。二代続けて同じ実名という例も勿論あるが、不自然さは拭えない。

そして、永禄4年3月に「桃井伊豆守」を名乗っている点は、先述した永禄4年4月の「もものい右馬助」という記述と矛盾する。景虎の知らない所で受領名を名乗り始めたとも考えづらい。[史料1]は右馬助の先代にあたる伊豆守義孝の発給文書である可能性が高いといえる。よって、永禄期の伊豆守の実名が「義孝」である史料的裏づけは乏しく、慎重に考えるべきではないだろうか。

永禄8年4月には上杉輝虎が上州長井へ派遣した武将のひとりに「桃井」が見える(*8)。

永禄11年8月の上杉輝虎書状(*9)に「いつミ弥七郎江為添侍、もものい伊豆守・か地あきのかミ城代申付さし遣し、城下二のくるわニさし置候、弥七郎ハ城ぬしの事ニ候間、実城にもとの如く守りい候様に、かたくこれを申つけへく候」とある。永禄10年8月から10月にかけて大規模な普請が行われた飯山城へ、桃井伊豆守らが在番を命じられたことが読み取れる。

時代は下って、謙信死後御館の乱において天正6年5月に上杉景虎方についた桃井伊豆守が戦死したという記録が所見される。

『景勝一代記』『越後古実聞書』によれば、信州飯山城の桃井伊豆守が5月16日に御館に着陣したとする。さらに両書は翌17日に上杉景虎勢が春日山城を攻めるもその日の内に敗退、桃井伊豆守も深く手負いその日の暮れに死去したとする。

これについて、『上杉御年譜』は次ぎのように記す。「五月十七日、桃井伊豆守ヲ武将とし多兵を率し、春日山ヘ攻寄る、味方には兼て防戦の軍議定めし事なれば、城中人無いが如くして鎮り至る、敵兵は我先にと攻上る処を、思ふ図にて寄て、大手の千貫門を開き、諸兵急に突いて戦う、敵兵辟易して退んとすれども、山城の事なれば進退自由ならざれば、先勢は崩れ立て敗北し、岩谷に伝い落て亡命する者数を知ず、敵将桃井伊豆守討死す」。


御館の乱終結後、天正10年4月には「桃井宮内少輔」の活動が見られる(*10)。飯山周辺での活動であり、伊豆守の後継者とみて良いだろう。


『文禄三年定納員数目録』には飯山周辺の領主奈良澤主膳の同心として「宮内子 桃井喜兵衛」、尾崎衆の同抱として「桃井将監」が見える。


以上から、越後桃井氏として

義孝(伊豆守)-(清七郎、右馬助、伊豆守)-(宮内少輔)-(喜兵衛)

という系譜を推定した。また、義孝の活動期には弥次郎という一族が確認された。

今回詳しく触れられなかった御館の乱以降の桃井氏の動向と、讃岐守の系譜関係を含めた越後桃井氏のルーツについては、また別に考察してみたい。


*1)『越佐史料』三巻、519頁
*2)同上、542頁
*3)『新潟県史』資料編3、269号
*4)『新潟県史』資料編5、3627号
*5)『上越市史』別編1、3号
*6) 『上越市史』別編1、211号
*7)同上、274号
*8)同上、456号
*9)同上、615号
*10)『越佐史料』6巻、182頁