鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

仙洞院の婚姻時期

2025-01-28 19:51:57 | 長尾氏
仙洞院は長尾為景の娘のひとりであり、天文後期に上田長尾政景に嫁ぎ上杉景勝の母となったことで有名である。しかし、その婚姻時期について確実な史料はない。これまで私は天文6年頃を想定してきたが、再度検討してみたところ天文18年末から天文19年のことであったと考え直すに至った。その理由としては、天文18年以前の婚姻の根拠となっていた下掲[史料1]の解釈が誤っていたと考えられるからである。今回は、[史料1]の解釈と仙洞院の婚姻時期について再検討したい。

1>天文18年6月本庄実乃書状「御新造」の正体
[史料1]『上越市史』、別編1、18号
於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候、抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候、尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候、被懸御目候間、寄存処、其まゝ申宣候、金沢方兎角被申候付、無曲之由彼方へも申候キ、まことにすいさん至極ニ候へ共、無御甚心まゝ申候、具儀者小林へ申候、相替儀候者可申入候、恐々謹言
    六月廿日         庄新左衛門尉実乃
   平孫 参御報

仙洞院の婚姻時期を考える上で、これまで私は[史料1]「たとへ御新造様之近御身るいにて候とも」を参考にしてきた。つまりこれを「上田長尾政景の妻は御親類であるが」と読み、長尾景虎の御親類=仙洞院が既に政景の元へ嫁いでいたと思っていた。当該文書は天文18年6月のものであるから婚姻もそれ以前と思い、景虎主導ではなく長尾為景・晴景期における政策と考えていた。具体的には天文6年の長尾為景と上田長尾房長の講和を契機としたと推定した。しかし、後述のように[史料1]を改めてよく読むと「御親類」は仙洞院を示しているわけではなく、この文書は政景と仙洞院の婚姻とは無関係であったことがわかる。よって、上記の推論も成立しないことを意味する。私の以前の検討における誤謬を訂正したい。

[史料1]の一文をよく読んでいく。同文書は長尾景虎と上田長尾政景の対立が深まっていた時期であり、特に政景方の被官が景虎方宇佐美定満の拠点を放火するなどの攻撃を行ったことが問題となっていた。[史料1]はそのような状況において、景虎方の中枢に位置する本庄実乃が定満拠点の近隣領主平子氏へ宛てた文書である。

「於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候」
→宇佐美駿河守(定満)の拠点に放火があったことについて伝えられた。以前、(平子氏が)宇佐美へ送った書中を読んだが、納得できない。

「抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候」
→事実であれば、(上田長尾氏が)たとえ妻の近い御親類であろうとも、一日でも味方の拠点が放火されたのであれば、そちら(平子氏)も対応すべきである。

「尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候」
→もっともその身柄に誤りがなければ、宇佐美の罪人と同じようにこちらへ引き渡すべきである。こちらでは景虎がその裁定を行うので、友照向後においても明白にあるよう、その裁定はあるべきこと。

上記のように、[史料1]は宇佐美拠点放火事件に関する対応を本庄実乃が平子氏へ指示する文書であることがわかる。平子氏は宇佐美氏の近隣領主として放火事件の鎮圧に動いたと見られ、「宇駿之縄付同前」からはこの時、定満と平子氏はそれぞれ放火の犯人を確保していたと見られる。定満は犯人を景虎へ引き渡したが、平子氏はその対応に迷いがあったのであろう。そのために本庄実乃は「御新造様之近御身るいにて候とも」と、平子孫太郎の妻が上田長尾氏の近親だとしても景虎に味方するように釘を刺したと考えられる。このように文脈からは、「御新造」は平子孫太郎の妻であり、上田長尾氏の一族であったと考えられる。

同年7月本庄実乃書状(*1)では「宇駿於用害火付候義、先書御目被下候故、屈伏申宣候処、則御成敗候由被仰越候、可御心安候」、平子孫太郎は放火の犯人を「成敗」したとあるから、平子孫太郎は景虎方の指示に従ったことがわかる。

2>仙洞院の婚姻時期
このように[史料1]は仙洞院の婚姻時期を示す史料とはいえないことがわかった。しかし、他に仙洞院の婚姻時期を示す文書はない。実際のところは、当時の状況から推定する他ないと考えられる。

では、仙洞院の婚姻はいつだったのだろうか。仙洞院の所生は、上杉景虎妻、上条義春妻、上杉景勝が挙げられる。米沢藩に伝わるところでは、景勝は弘治元年出生、上杉景虎妻が天文20年出生(*2)とされる。天文6年婚姻とすると婚姻から時差があり、天文末期頃の婚姻とすれば自然である。景虎に敵対していた上田長尾政景が天文末期を転換点として景虎の重臣として活動していることも、仙洞院との婚姻を契機としたものと考えてよいだろう。『上杉御年譜』、『平姓長尾氏系図』に伝わる没年、享年から逆算すると、大永4年生まれとされる。これに従えば天文20年に仙洞院は28歳となり、婚姻出生において高齢であるという印象は拭えない。以前の私は年齢的な問題が天文期の早い時期の婚姻を支持していると考えてしまっていた。この点については所伝の正確性を踏まえ、より検討する必要があろう。ちなみに、『羽前米沢上杉家譜』によれば長尾政景は大永6年生まれであり、天文20年には26歳となる。年齢に誤差はあったとしても、仙洞院と婚姻を結ぶ前に前妻がいた可能性は十分考えられる。上杉景勝の兄に「義景」がいたとする所伝もあるが、例えば前妻との間に子供がいた可能性も考慮するべきではなかろうか。

ここまで改めて仙洞院について検討したが、以上のように当時の状況から考えると天文後期における長尾景虎と上田長尾政景の講和を契機にしたもの推測される。景虎と政景の講和は通説において天文20年とされるが、私は天文18年10月までになされたと考えており、仙洞院の婚姻も同年末から翌年頃に行われたと考えられよう。そして、天文20年に上杉景虎妻を出産したと推測できる。景虎と政景の対立については次回、詳しく検討する。



*1)『上越市史』別編1、20号
*2)『外姻略譜』