鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

天文24年善根の乱と北条高広

2021-05-09 21:29:21 | 毛利氏
天文24年1月から2月にかけて越後国刈羽郡善根において生じた善根の乱について、前回毛利善根氏との関連に注目して検討した。今回は、同族の毛利北条氏に視点を移して見ていきたい。


1>武田信玄書状の検討
まず、善根の乱が北条高広の反乱主体であったと誤解される場合があり、それについて確認する。


[史料1]『新潟県史』資料編5、3410号
雖未申通候、令啓候、抑先日承候旨、至真実者、大慶満足候、向後者、異于他可致入魂候、同意可為本意候、猶甘利左衛門尉可申候、恐々謹言、
  十二月五日            (武田信玄花押)
   北条丹後守殿

[史料1]は武田信玄から北条高広に宛てられた書状であり従来天文23年12月に比定され、翌24年の反乱は北条高広が武田氏に内通した結果生じたものと解釈されてきた。

ただ、近年は黒田基樹氏(*1)や栗原修氏(*2)の研究から、永禄9年に高広が上杉氏を離反し甲斐武田氏、小田原北条氏へ通じた際のものであると明かにされている。

理由は文中に登場する「甘利左衛門尉」=甘利昌忠/信忠の名乗りの変遷にある。黒田氏によると弘治年間の文書まで彼は仮名藤三で所見されるから、官途名左衛門尉と見える[史料2]が弘治年間以前である可能性はない。

さらには、「甘利左衛門尉可申候」とある通り甘利左衛門尉信忠書状(*3)が[史料2]の翌年4月の日付で発給されている。甘利信忠の実名は永禄7年に昌忠から改めたものであることが黒田氏により指摘されているため、その甘利信忠書状は永禄7年以降である。

よって、甘利信忠書状の前年に発給された[史料2]は永禄6年以降に武田信玄が高広と接触した永禄9年離反時に限られるのである。

[史料1]と天文24年の反乱は全くの無関係であると言える。


2>上杉輝虎書状の検討
続いて、後年の長尾景虎/上杉謙信との関係性を書状から探り、高広の動向を推測してみたい。

高広は永禄2年から公的文書の署判者として所見される。さらに、永禄初期の某覚書(*4)には次の様な一文がある。

「そうまかないりう所ともに小四郎しんたいもたれへき大小事ともニ、きたてう方たのミうちまかせへき事」

景虎の一族である長尾小四郎(景直)について、進退に関する大小事を北条高広に頼み任せるというのである。永禄初期においてこの様な立場にいる人物が、その数年前に反乱を起こしていたのだろうか。


さらに、永禄9年に高広が上杉氏から離反した際の文書を見てみたい。

永禄9年12月13日上杉輝虎書状(*5)より
「道七以来之芳志与云、関東ニ輝虎為代差置候事、無其隠候、如此之仕合、天魔之所行ニ候」
永禄9年日付不明上杉輝虎書状(*6)より
「既丹後守者、其身擬与云、巧者与云、年老与申、殊譜代之芳志を黙止、妻子ヲ捨、南甲へ一味、争左様ニ可有之候哉」

どちらにおいても、長尾為景以来譜代の家臣として活動してきたことが読み取れる。高広自身が以前にも反乱したことは全く記されていない。

その離反後、高広は越相同盟と共に帰参するが、その後は息子景広への家督交代を強制されるなど離反前と立場は一変している。他国との交渉も、景広中心の体制に改められている。やはり、離反後にはそれなりの処遇がなされている。

このような点からも、天文24年に反乱した主体が高広であったとは考えにくい。


ちなみに、安田氏と北条氏が対立関係にあったという俗説もこの反乱が北条高広によるものとした結果であり、事実ではない。安田景元は天文の乱において北条城に在城し高広の祖父北条輔広と共に長尾為景に味方しており、友好的な関係であることが明らかである。また、景元の妻は輔広の娘であった可能性が『毛利系図』から示唆される。


3>北条高広と反乱の関与を示す史料
北条高広が反乱主体とは考えられない点は示したが、ここから実際に反乱についてどのような立場であったかを見ていく。


『越後平定以下太刀祝儀次第写』を見ると「毛利丹後守」=高広が明かに後方に記載される。これはいわゆる席次の降格を表わすのでないか、と推測される。記載が後方の人物は「糸牧」の太刀を進上しているが、高広のみ上位の人物に多く見られる「金覆輪」の太刀を進上している。明らかに格の違いがあり、この席次は本来のものではないだと思われるからだ。

ただ、後方に記される人物は正確性が疑われる者も多い。高広の席次降格を示唆する史料ではあるが、これだけでは判断し難い。


[史料2]『新潟県史』資料編5、3282号
 覚
一、北条之事
一、今度出馬之上、無二無三可被走廻事
一、働之上さしつ次第馳走之事
一、向後可請意見之間、内儀次第上府事
一、誓詞之事
 以上

[史料2]は年不詳某条書である。しかし、発給主体の出陣とその元で奮戦するべき事、誓詞についての事など、[史料1]に見える安田景元の動向と一致する。「北条」は北条高広のことだろう。

よって、[史料3]は天文24年に比定でき、長尾景虎側から安田景元への宛てられたものであろう。出陣後の奮戦を命じており、誓詞についての記載から安田景元起請文発給前と思われ、具体的には天文24年1月頃であると推測される。

「北条」が小田原北条氏を表わすと解釈すると越相同盟交渉の文書との可能性もあるが、越相同盟関連の文書を見ると小田原北条氏は「南」や「南方」もしくは「氏政」「氏康」と表記されている。従って、[史料2]は越相同盟に伴う文書ではなく、上記の推測が成り立つと言える。


年次比定が正しければ、[史料2]における「北条之事」が善根の乱における北条高広の動向を示すものとなる。ただ、「北条之事」のみで具体性に欠ける。

そのため、総合的に推測していくしかない。反乱主体は善根氏と想定されること、北条氏の席次が低下した可能性があること、景虎が安田氏に「北条之事」を相談していること、を踏まえると、北条氏の微妙な立場が類推される。

以前それぞれの系譜を検討する上で確認したように北条氏は善根氏と深い血縁関係があり、その反乱において善根氏と長尾景虎側の圧力との間で板挟みになっていたことが想像できる。

席次の低下も事実であれば同族の反乱の鎮圧にあたり、消極的な姿勢をみせたことによる引責というところではないだろうか。

安田氏と北条氏の関係は友好的であったことは先述したが、その関係を基に景虎も北条高広に働きかけ、高広側もそれに応じたと推測される。



以上が、北条高広と天文24年善根の乱に関する検討である。前回の善根氏と同様に推測に頼る部分が多いく、後考に期待したいところである。


*1)黒田基樹氏 「武田氏の西上野経略と甘利氏」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)
*2)栗原修氏「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉氏武田氏の上野支配』岩田書院)
*3)『新潟県史』資料編5、2543号
*4)『新潟県史』資料編5、3280号
*5) 『上越市史』別編1、543号
*6) 『新潟県史』資料編5、2423号


天文24年善根の乱と毛利善根氏

2021-04-30 22:10:31 | 毛利氏
天文24年2月、長尾景虎は越後国善根における反乱を鎮圧しているが、この反乱に関しては史料的制約からその反乱主体すら判然としない。従来の通説では、甲斐武田氏と通じた北条高広の反乱であるとするのが一般的である。しかし、この説の根拠とされてきた武田信玄書状は天文24年のものではないことが明らかにされており、そう単純ではなさそうである。確かなことを言えば、天文24年の乱の詳細は不明と言わざるを得ない。

なお、史料上「善根之一儀」と表わされていることから、善根の乱と呼称したい。

この乱に前後して、善根を領する毛利善根氏が史料上から姿を消す。反乱と善根氏の関係は無視できない。従来の説では善根毛利氏の存在を軽視している感がある。

そのため今回は、北条氏、善根氏、安田氏といった各毛利一族の動向に注目しながらこの「善根の乱」を検討したい。また、この時期長尾景虎は宗心を名乗っているが、便宜上景虎で通す。


1>反乱に関する確実な史料
ます、少ない史料の中でも確実なものからこの反乱を整理する。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1568号
此間者直江与兵衛尉所へ御懇切被仰越候、本望至極候、然者、柿中上条ニ在陣候、従此方一両輩立置候、上条・琵琶嶋其外被加御意見、動之儀可然様頼入存候、其口之様節々御注進簡要候、恐々謹言、
                        長尾入道
  正月十四日                     宗心
  毛利越中守殿御宿所

[史料1]は、この反乱の勃発を伝えるものである。具体的には、安田景元が反乱について直江実綱に報告し、それにより柿崎氏、上条氏、琵琶嶋氏らが出陣し合戦の準備を行っていたことがわかる。「其口之様節々御注進」や「此方一両輩立置」から、この時景虎は春日山城にいた。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1571号
 起請文事
右、今度善根之一儀付而、不図此口被致出陣候処、御骨肉ニ被参、御代々御筋目雖勿論候、無二宗心前可有御馳走以御覚悟、最前ニ被仰合候、誠以御頼母敷大慶ニ被存候、然上者、宗心も向後少も不可被存疎意候、自然、号間之宿意、従何方いか躰之申懸候共、景元御父子御事、善悪ニ見放申間敷由、深被存置候、雖如斯候、従御前被対世間、於被求事者、不可有其曲候、弥以互ニ不可有御別儀候、(以下罰文)
 天文廿四年    大熊備前守
二月三日           朝秀
          直江与兵衛尉
               実綱
          本庄新左衛門入道
               宗緩
  安田越州 参

[史料2]には天文24年初めに、「善根之一儀」によって出陣が余儀なくされたことが記され、その際安田景元が長尾宗心=景虎に味方したことがわかる。

「此口出陣」の上で景元が「宗心前可有御馳走」とあることから、善根周辺へ景虎と大熊、直江、本庄らが出陣してきていたことが推測される。[史料3]で安田景元へ「在陣中種々御懇意」を感謝しているから、景虎自身の出陣は確実である。


さらに、「御骨肉ニ被参」とあることから反乱主体は安田氏の同族、すなわち毛利一族であったことがわかる。恐らく、敵が同族であるため景元が景虎側から疑心を持たれる可能性を危惧し、自身の忠誠を誓うと共に、保証として景虎側からも誓書を発給してもらった、という流れであろう。

このように[史料2]の「善根」の地における抗争であり、毛利一族の関与を示唆することから、反乱主体は毛利善根氏であった可能性がある。従来、「御骨肉」は北条高広と捉えられる場合が多いが、「善根之一儀」と明言されており、善根氏との関係をより優先して考えるべきだろう。


[史料3]『新潟県史』資料編4、1569
就今度之一儀、従最前別而御加世儀、誠御頼敷本望不過之候、殊更在陣中種々御懇意、難謝之計候、此等之儀、何様態以使者可申宣候、其迄遅々無沙汰様候間、先以脚力令啓候、万々期来信候、恐々謹言
                         長尾入道
   二月十三日                     宗心
   毛利越中守殿御宿所

[史料3]は同月に、景虎から安田景元へ出された文書である。「在陣中種々御懇意」への謝意を「脚力」を以て伝えていることから、この時点で景虎は春日山城へ帰陣していたのではないか。よって、1月に勃発した反乱は2月初旬の内に鎮圧されたことがわかる。


2>善根氏に関する確実な史料
さて、善根の乱について善根氏の関与が濃厚であることを推測したが、反乱における具体的な動向は上記の史料からは読み取れない。天文24年前後の史料から、善根氏の動向を確認したい。


[史料4]『上越市史』別編1、291号
一、上田、越前守ニ依可返、上田之給人衆替地、蔵田刷之内刷すへき所三百貫ほと見はからい、しるし越可申事、
  付、ぜごん分の地も又いらさるけつ所同前ニしるし可越事
(中略)
  拾月十三日           (花押)
    萩原伊賀守殿
    蔵田五郎左衛門尉殿
    直江大和守殿

[史料4]は永禄4年に上杉政虎(長尾景虎)が発給した覚書である。上田の土地を長尾政景に返還することになり、その地の家臣たちへ宛がう替地を用意するように命じている。その替地は、蔵田氏の管理する三百貫に加え、「善根分の地」が挙げられている。善根氏の所領を意味することは疑いない。「要らざる闕所同前ニ記し」とあることから、この時善根氏の所領は没収されていたことが見て取れる。

さらに、これ以降善根氏は史料上所見されなくなる。

このことから、永禄4年までに善根氏が滅亡していたことが推測されるのである。善根氏が天文24年の反乱に関与し、その数年後には没落していることを踏まえると、やはり善根氏が反乱主体であり、その結果没落したと見るのが自然である。


[史料5]『新潟県史』資料編5、3279号
 かミへ御こうらんのかた
えちせん殿
かき崎平二郎殿
とゆたうミとのへ
一、せこん、やすた、しハ助二郎さいふさせへき事か、
一、小四郎にあせんえんかの事、

[史料5]は年不詳の条書である。一項目に「善根、安田、新発田助二郎在府させべき事か」とあり、善根氏らの在府が計画されている。

二項目にある長尾小四郎の縁組についての条項は、また別の年不詳条書(*1)と重複している。そちらの条書は北条高広、齋藤朝信、長尾藤景、柿崎景家の判形発給について言及されていることから、彼らが文書の発給を始める永禄初期前後のものと見られる。そのため、[史料5]も永禄初期のものである可能性がある。

すると、永禄初期頃まで善根氏が活動していたことが推測される。天文24年の反乱以降にも善根氏が存続した可能性がある。


確実なことは不明と言わざるを得ないが、私なりに解釈すれば、天文24年に反乱した善根氏は鎮圧後、永禄初期まで漸進的に解体されたと推測する。

その理由として、天文24年善根の乱時に景虎としても善根氏を武力で攻め滅ぼすまでに至らなかったことが挙げられる。善根氏は数千貫規模の伝統的領主であり、その拠点と想定される善根城も八石山の一角に位置する比高400m程の堅固な城郭である。後年の本庄繁長の乱でもわかるように、そういった領主層との武力抗争は簡単ではない。つまり、勃発から1ヶ月程度で鎮圧された善根の乱において、善根氏側も徹底抗戦を選ばず、景虎側の圧力によって降伏するに至ったのではないか。

その上で、天文24年以降も存続したものの、永禄初期までに解体されその所領が没収されたと見られる。解体がなされた背景には、当主の死去や政治的に不安定であった弘治年間における景虎権力への反抗といったことが考えられる。


以前、善根氏の系譜を検討した際に、善根氏は守護上杉氏に近い政治的立場にあったことを推定したが、これは天文末期から弘治年間の越後情勢と関係が深い。大熊朝秀の反乱に代表されるように、この頃は長尾景虎に近い勢力と旧上杉氏勢力の衝突が見られる。善根氏の反乱もこういった背景があったのではないか。



善根の乱と善根氏の動向を考えると、以上のように考えられる。

史料から明かな点もあるが、善根氏については特に推測の多い内容になってしまったかもしれない。ひとつの仮説として提示しておきたい。

次回は、この反乱と北条氏との関係を中心に検討する。


*1)『新潟県史』資料編5、3280号

毛利北条氏の系譜

2021-04-17 18:15:26 | 毛利氏
大江姓越後毛利北条氏は越後国刈羽郡佐橋庄北条を中心に発展した一族である。戦国期には北条高広や景広が顕著な活動を見せる。今回は、同氏の系譜関係を中心に整理してみたい。

北条氏は大江広元の孫にあたる毛利経光の子基親の系統である。基親の子は時元である。ここでは時元から数代を経て、戦国期を迎えた頃の当主である北条広栄から具体的に検討していきたい。


1>広栄
広栄は康正3年に前年火事で書類を紛失した専称寺へ北条広栄が改めて安堵している文書に所見される(*1)。

この文書には「広称院」「其阿弥陀仏」の話題が出てくるが、これは『専称寺過去帳』(以下『過去帳』)に依れば北条氏7代当主「重広」のことである。

重広と広栄の関係であるが、丸島和洋氏(*2)は通字「広」が上に来ることから庶子、もしくは庶流からの入嗣の可能性を想定する。


2>輔広
大永3年北条輔広書状(*3)に自らの前々代が「広称院」=重広であると記されているから、『過去帳』にも記載のある通り、重広-広栄-輔広、という系譜が確認できる。

広栄-輔広について、丸島氏は両者の活動時期が離れていることなどから父子関係を疑問視する。

その上で延徳3年成立『上杉房定一門・被官交名』(*4)に上杉氏有力被官として「毛利左近将監大江定広 善根」が見え、後に輔広も左近将監を名乗ることや、そこに並んで「毛利弥五郎大江輔広 北条」と記載される点から、輔広は善根毛利氏である定広の実子で北条氏へ入嗣した存在と捉える。そして、専称寺『当寺旧記本山書上控』にある北条高広の父を「大沢殿」とする記録も、大沢が善根近辺に位置することを考えると上記の推測を支持するものとする。

北条輔広の活動期間は長く、その所見の下限は天文3年1月(*5)である。輔広は仮名弥五郎の後、永正5年には左近大夫として見え(*6)、享禄2年越後修連判軍陣壁書写(*7)には「毛利安芸入道祖栄」とある。晩年には受領名安芸守を名乗ると共に入道し祖栄を名乗ったとわかる。


3>北条丹後守と毛利広春
輔広と同時期には毛利広春の活動が見られる。広春は従来『毛利安田系図』に「広春」と名前があることから毛利安田氏当主に見られ、さらに仮名が「五郎」であること、関連文書に現れる家臣団の姓が北条家中と共通であることなどから毛利北条氏の当主も兼任していたとされてきた。

しかし、丸島氏は安田氏として永正前期には毛利弥九郎/新左衛門尉が、その次代であろう景元が幼名「百」として永正12年に初見されることから広春の毛利安田氏当主説を否定する。

さらに、毛利北条氏にしても輔広の活動が明らかであることなどから毛利北条氏当主説を否定し、広春は毛利安田氏庶流から奉行人に抜擢された人物であるとみている。


また、年不詳長尾為景宛長尾顕景文書中(*8)の「毛利丹後守方死去之由承候」という部分は、黒田基樹氏により毛利丹後守=広春と比定され、『過去帳』における広春の没年=大永4年の文書とされてきた。これについて丸島氏は当該文書中に登場する長尾景誠の没年(*9)が、毛利広春寄進状(*10)の発給された享禄2年4月以前であることから、整合性を欠くことを指摘した。この広春寄進状は「五郎」の仮名で見え、この点も「丹後守」と矛盾する。

つまり、『過去帳』における広春の没年は誤りであり、さらに毛利丹後守と広春は別人であることが明らかにされたのである。


同氏は、この丹後守こそ輔広の次代であると推測している。対外的にも認知され、『過去帳』の記載「広春」が丹後守との混同であることを考えると、北条丹後守が輔広から家督を譲られていた可能性は高い。

また、広春の没年は、広春後室が広春の黒印を用いて文書(*11)を発給している享禄3年3月までのことと推測されている。


4>高広とその息子景広、勝広、高広
同年8月には北条高広が石井八幡宮に「如前々、八千苅之知行」を認めているから(*12)、この頃代替わりが行われたと見られる。

輔広と高広の関係は、弘治4年北条高広寄進状(*13)に「祖父左近大夫輔広」と記されることから明らかになる。天文23年北条高広寄進状(*14)には「祖父安芸守覚阿弥」とあるから、左近大夫輔広=安芸入道祖栄であることが確実である。


また、丸島氏は享禄2年軍陣壁書写(*7)において、輔広=祖栄の手前に署名のある「毛利松若丸」について北条高広の前身であることを指摘している。通説では『毛利安田系図』に安田景元の長男「景広」が「松若丸」とされることからこの人物とされていたが、同氏は景元存命中に幼い息子が署名することに違和感を覚えている。確かに、安田景元は永正12年に幼名「百」(*15)、天文2年に仮名「弥八郎」(*16)で見えるから、享禄2年時に署名できる程の息子が存在したこと自体疑わしい。「安田景広」という人物もその後文書に見えない。

輔広から既に家督を相続していた丹後守が大永年間に死去してしまったため、高齢の先代輔広と幼年当主松若丸=高広の二人が署名する事態になったのだろうか。


高広は、天文19年6月諏訪神社棟札写には「毛利丹後守高広」と見られる(*17)。一方、同年8月八幡宮棟札写(*18)に「北条弥五郎大江高広」と記される。どちらも写しであり、仮名と受領名が前後することからその名乗りは当時のものではないだろう。ただ、高広が弥五郎を名乗った可能性を示す。『専称寺過去帳』も高広の仮名を弥五郎としている。

天文23年9月の寄進状(*19)以降、安芸守入道芳林を名乗るまで受領名丹後守で見える。


高広の嫡男景広は永禄6年に「弥五郎」として初見される(*20)。文書上で度々二人は「父子」と表現されているから、その関係は明らかである。

永禄9年における北条高広の上杉氏からの離反に際して、景広は従わず上杉氏に残っている。栗原修氏(*21)は偏諱「景」から謙信と景広の強固な主従関係を想定し、それが景広への家督交代に繋がると指摘する。天正2年10月に専念寺へ景広が執達状(*22)を発給しており、これが代替わり証文と捉えられる。

天正2年3月北条高広書状(*23)が北条高広の「丹後守」としての確実な終見である。栗原氏は天正2年5月の上杉謙信書状(*24)中にある「丹後守父子」を丹後守高広の終見とするが、天正6年2月上杉謙信書状(*25)に「北条丹後守父子」と丹後守=景広の時点でもこのような表現がされる場合はあり、確実とは言えないと感じる。

同年11月上杉謙信書状(*26)において高広が「安芸守」、景広が「丹後守」として初見される。

さらに、上杉謙信死去の直後である天正6年3月から高広は「安芸入道芳林」として所見され(*27)、以後終見まで変わらない。

そして、景広は謙信死後に勃発した御館の乱において天正7年2月1日の府内周辺の合戦にて戦死した(*28)。そして、高広=芳林は上杉氏を離反し、小田原北条氏と共に上越国境で御館の乱を戦うも、天正7年8月に甲斐武田氏に服属する(*29)。天正10年6月武田氏滅亡後は織田氏の支配下となり、同年6月織田氏滅亡後は上杉氏に協力を求めて小田原北条氏に抵抗した。


栗原氏は景広戦死後、天正10年北条芳林寄進状に「高広・勝広父子武運長久」と見える北条勝広が高広=芳林の嫡子に繰り上がったとする(*30)。その実名は服属先の甲斐武田勝頼からの偏諱とされる。さらに同氏は『石川忠総留書』の記載と「丹後守」と署名残る天正11年6月知行宛行状写(*31)から勝広が受領名丹後守を名乗ったことを明らかにしている。


しかし、同知行宛行状の翌7月には高広=芳林と並んで北条弥五郎が初見され(*32)、この弥五郎は実名「高広」であることが文書上明らかである(*33)。栗原氏は、6月から7月の間に勝広が廃嫡され『石川忠総留書』に見える勝広の弟「千連」が元服して弥五郎高広を名乗った可能性が強いとしている。天正11年は一年を通じて小田原北条氏の攻勢の強まっている時期であり、同年9月に厩橋城を明け渡すに至る。廃嫡が7月頃だとすると、勝広の戦死、或いは小田原北条氏への内通による廃嫡などが考えられようか。

その後、弥五郎高広は天正12年8月厩橋八幡宮へ代替わりに伴う安堵状(*34)を発給しており、厩橋城開城による大胡城への退去を契機に家督を相続したと推測されている。この書状中に「老父如判形拙者も証文進置候」とあり、同様の内容を持つ元亀2年北条高広安堵状(*35)と対応したものであるとわかる。つまり、芳林=高広と弥五郎高広が父子であることが確実となる。

その終見は天正15年7月北条高広安堵状(*36)であり、天正18年の小田原北条氏の滅亡と共に没落したと思われる。


米沢藩にも北条氏の名前が見えるが、これは北条氏一族「北条長門」の系統であると『先祖由緒帳』に記されている。


重広以降の北条氏の系譜は次の通りである。
重広-広栄=輔広/入道祖栄(弥五郎/左近大夫/安芸守)-(丹後守)
-高広/入道芳林(弥五郎/丹後守/安芸守)-景広(弥五郎/丹後守)
                                          -勝広(丹後守)
                                          -千連/高広(弥五郎)




*1)丸島和洋氏「上杉氏における国衆の譜代化」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)
*2)『新潟県史』資料編4、2293、2294号
*3) 同上、2298号
*4)「正智院文書」、(*1)に掲載
*5) 『新潟県史』資料編4、1461号
*6)同上、2296号
*7) 『新潟県史』資料編3、269号
*8)同上、95号
*9)黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『増補改訂戦国大名と外様国衆』)、同氏『長尾景春』に依れば、長尾景誠の没年は『双林寺伝記』では享禄元年とされ、『長林寺本長尾系図』に享禄2年1月24日とあるという。どちらの説にせよ、毛利広春寄進状が発給される以前のことである。
*10)『新潟県史』資料編4、2299号
*11)『新潟県史』資料編3、546~549号
*12) 『新潟県史』資料編4、2257
*13) 同上、2305号
*14) 同上、2303号
*15) 同上、1563号
*16)同上、1556号
*17) 『越佐史料』4巻、28頁
*18) 『新潟県史』資料編4、2280号
*19) 同上、2303号
*20) 『新潟県史』資料編5、3405号
*21) 「厩橋北条氏の族縁関係」「厩橋北条氏の家督交代をめぐって」「厩橋北条氏の存在形態」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)
*22)『新潟県史』資料編4、2310号
*23)『新潟県史』資料編5、3773号
*24)『群馬県史』2793号
*25)『新潟県史』資料編5、3573号
*26)同上、3959号
*27)『越佐史料』五巻、549頁
*28) 同上、639、641頁
*29) 黒田基樹氏「天正期の甲相関係」(『戦国大名と外様国衆』増補改訂、戒光祥出版)
*30) 『上越市史』別編2、2286号
*31) 『群馬県史』資料編7、3255号
*32)『新潟県史』資料編5、4108号
*33)同上、3809号
*34) 『群馬県史』資料編7、3313号
*35)同上、2637号
*36) 同上、3479号

毛利善根氏の系譜

2021-04-13 20:30:29 | 毛利氏
越後毛利氏の一族、善根氏は同族の北条氏、安田氏に比べて史料的に恵まれないことなどから、その存在は難解である。しかし、少ないと史料と諸研究を元に推測を重ねると成立から滅亡までの展開を素描することが可能である。ここで毛利善根氏について検討したい。


1>善根氏の成立
前回、毛利氏の分流について検討しそこで田村裕氏(*1)の研究を参考に毛利石曽根氏は毛利道幸の嫡子元豊から発祥したことを確認した。そして石曽根氏は丸島和洋氏(*2)によって、善根氏と同一であるという指摘がなされている。

同氏は、延徳3年(1491)上杉房定一門・被官交名(*3)に「善根 毛利左近将監大江定広」と「北条 毛利弥五郎輔広」が並び、左近の名乗りが輔広に継承されることなどから、輔広を毛利善根定広の実子で北条氏へ養子入りした存在と推測する。

その上で専称寺『当寺旧記本山書上控』に北条高広の父を「大沢殿」とする所伝に注目、関久氏が地理的関係から「大沢殿」=石曽根氏と推測したことを参考に、輔広が石曽根氏出身であると推定し、石曽根氏=善根氏である、と導いている。


これらの点については、[史料1]からも示唆される。

[史料1]『新潟県史』資料編4、2280号
奉造立八幡宮
夫当社神霊者□□□□八幡大菩薩□□□大江朝臣広元公、辱建立宝殿、安置神霊矣、其後永和年中、毛利宮内少輔沙弥道幸、敬神守祖、再修造之畢、然有時而既及大破、広元公以降、屈指考之三百年也、予亦其苗裔、而不可不加修理、因茲抽丹精、仰冥慮、謹奉造宮者也、
 北条十一代孫葉毛利弥五郎大江高広判
天文十九年龍集庚戌八月五日
   造宮奉行  武藤源右衛門尉
         大工三郎兵衛尉


[史料1]は毛利北条高広が北条八幡宮を再建したことを伝える棟札写である。この中で、毛利道幸が以前修造したことに触れている点が注目である。道幸の長男は毛利善根氏、二男は毛利安田氏の祖である。従って、発給者北条高広の毛利北条氏とは関係がない。

しかし、丸島氏の高広の父北条輔広が毛利善根氏の出身であるとする推論を踏まえると高広自身は毛利善根氏との血縁関係を有しており、道幸との関係性が表出する。

よって、輔広が善根氏から北条氏へ入嗣した蓋然性は高く、善根氏は毛利道幸を祖とする系統であったことが示されるのである。


2>善根浄広と周広
関久氏(*4)は所伝や浄広寺、周広院なる寺院の存在から善根毛利氏として「浄広」、「周広」の存在を推測している。浄広寺、周広院の由緒を元にして、関氏は浄広が文明期、周広が天文期に活動したと推測する。ただ寺社の由緒は正確性に欠くことが多く、浄広と周広なる人物の存在は示唆されるものの、所伝から活動時期を判断することはできない。

彼らの所伝の主体は北条氏に攻め滅ぼされる内容であるから、後述する文安期の抗争との関連が濃厚であり、文安以前の人物と推測される。

善根毛利氏の祖である元豊の活動時期から文安3年までは半世紀程度の間があり、元豊の後代として文安期までに浄広、周広の二代が存在したことは十分考えられる。


3>文安3年「佐橋之刑部少輔退治」と善根氏
前述したように、善根氏が北条氏によって攻め滅ぼされたという所伝が存在する。所伝の信頼度は高くはないものの、複数において示唆されるようならば見過ごせない。

丸島氏も、北条氏が善根氏を滅ぼし一門を入部させることにより北条氏系善根氏が形成され、善根氏から北条氏への入嗣も可能になったと推測している。関氏は『刈羽郡旧蹟誌』にある清瀧寺縁起に「佐橋氏周広」が永享年間に敗亡したとあることを踏まえ、『専称寺過去帳』には同時期の北条氏当主、長広が「鯖石殿」と記されており、善根氏がこの頃に北条氏に包摂されたことを示唆するものであるという。


これらの主張を踏まえた上で、享徳3年に和田中条房資入道秀叟が記した中条秀叟記録(*5)を見てみたい。その一項には「上杉民部少輔房朝文安三年丙寅下国而、佐橋之刑部少輔退治」と記されており、文安3年に毛利一族の人物が成敗されたことがわかる。

この「佐橋刑部少輔」こそが、上記で推測された滅ぼされた系統であり、「退治」されたことにより北条氏の流れを汲む人物が跡を継承したのではないか。

善根氏の呼び名として度々「鯖石殿」といった表現が見られており、現在は「サバイシ」と読むようだが、当時は「サバシ」と読んでいたと思われる(*6)。すると、『江氏家譜』において「佐橋ハ、今ノ鯖石タルヘキトノ儀、文字替リタルニテ可有之乎」と述べられているように、鯖石は佐橋の転訛であり、二つは同義であることが推測される。

文安という時期も所伝にある永享に近く、その他の点も矛盾はない。佐橋庄から遠く離れた奥山庄の中条氏まで記録する出来事であったから「佐橋刑部少輔」の成敗は当時の越後において一大事件であったことが窺える。善根氏程度の大領主であればそれも頷ける。

よって、「佐橋刑部少輔」は「鯖石殿」と呼ばれる善根氏の系統である可能性が高い。そして、文安3年善根氏征伐によって刑部少輔が滅ぼされ、それを期に北条氏の流れを汲む善根氏が成立したと言える。


4>毛利一族と越後の政治権力との関係
さらに文安3年の善根氏征伐について掘り下げて考えると、守護上杉氏の介入が気になる点である。

刑部少輔が滅ぼされた3年後、宝徳2年に守護上杉房定と守護代長尾邦景・実景父子と対立し、房定が父子を没落させている。すなわち、守護上杉氏陣営と守護代長尾氏陣営での対立が想定されるのである。

上杉氏が善根毛利刑部少輔を滅ぼしたわけであるから、北条氏出身の人物が跡を継承することも上杉氏の意向に添うものであったことは間違いない。つまり、本来の毛利善根氏は反上杉派であり、毛利北条氏は親上杉派に分けられることとなる。

ここで、善根毛利氏に親しい系統の毛利安田氏は守護代長尾氏の庇護の元に勢力を拡大していたことを思い出したい。つまり、親守護代長尾派と呼べよう。安田氏と近い系統である善根氏もその陣営であったことが推測され、反上杉派=親守護代長尾派であることがわかる。


つまり、守護代長尾氏をバックに勢力を維持してきた毛利善根氏、安田氏と、守護上杉氏と結んだ毛利北条氏に二極化していたと言える。庶流である善根・安田氏が在国することで影響力を高めた長尾氏に与し、庶流の勃興を抑制したい惣領北条氏が正統な権力者である上杉氏に付くことは自然な流れではある。

そして、守護上杉氏の権力強化の結果、善根氏の刑部少輔が滅ぼされ、北条氏に包摂されたことで親上杉氏陣営へ取り込まれたとみられる。


この文安期からの安田=守護代長尾氏、善根・北条=守護上杉氏という構図は、重要である。というのも、この構図は様々な変遷がありながらも長尾景虎の登場する天文期まで維持されたと思われるからである。

永正期において長尾為景は守護権力と対立するに至る。永正5年長尾為景書状(*7)に「北条事、今明日中可為落居候」と為景が北条城を攻めていることが見えるから、北条氏が守護代長尾氏と守護上杉氏の対立に及び上杉氏についた可能性がある。一方同じ頃安田氏は、「毛利新左衛門尉」が長尾方として奥郡まで進軍して色部氏と交戦している(*8)。


また、「善根之一儀」(*9)と呼ばれた天文24年の反乱は善根氏が反乱主体と推測され、この構図で説明がつく。つまり、この抗争においても守護代長尾氏派の安田氏に対して守護上杉氏派の善根氏に分かれるのである。北条氏の動向は必ずしも鮮明ではないが、安田氏のように長尾氏に対する積極的な動きは見えない。

そして、善根氏は永禄4年上杉政虎条目(*10)に給人たちへの替地として蔵田五郎左衛門尉の管理する300貫、不要な闕所、そして「善根分」が挙げられており、善根氏の所領が没収されていることがわかる。この後、善根氏の所見がないことからもこの時までに滅亡した可能性が高い。その契機は、やはり天文24年の反乱ではないか。

天文24年の反乱を経て、永禄初期から北条高広が文書の署判者として見えるようになる。つまり、守護代長尾氏権力に取り込まれたことを意味する。越後毛利氏にとって、この反乱は大きな転換点であったと考えられる。


この反乱と善根氏の滅亡については、北条氏と安田氏の動向も含めながらまた別に検討してみたい。


*1) 田村裕氏「鎌倉後期・南北朝期における越後毛利氏と安芸毛利氏-毛利安田氏の成立を中心として-」『新潟史学』57号
*2)丸島和洋氏「上杉氏における国衆の譜代化」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)
*3) 「正智院文書」、(*1)に掲載あり
*4) 関久氏『大江・毛利の一族』
*5) 『新潟県史』資料編4、1316号
*6)『江氏家譜』中において、「鯖石」に「サバシ」という読みが付されている。
*7)『新潟県史』資料編4、1492号
*8)同上、1426号。「毛利新左衛門尉」は系図類にその名を見ないが、丸島氏(*1)によって毛利安田氏に比定された人物である。
*9)同上、1571号
*10)『上越市史』別編1、291号


※21/5/9 安田=守護代長尾氏、善根・北条=守護上杉氏という構図は、結果的に天文期にも見られるものと推測したが、安田氏の立場も様々な変転を経ている可能性もあり、本文中の断定的な表現を変更した。特に、上杉房定期には『新撰菟玖波集』に安田重広が守護近臣上杉房実、市川憲輔らと共にその名が見えることから、むしろ守護上杉氏と近い関係にあったと推定できる。房定期には安田氏内部で反抗的な毛利宮内少輔を討伐するなど安田氏の上杉氏への接近が顕著であり、その後長尾為景の後ろ盾を得た庶流安田景元が継承するに至り再び長尾氏との関係を強くしたと推測されよう。

越後毛利氏の系譜

2021-04-10 21:19:13 | 毛利氏
越後毛利氏は鎌倉期から越後に所領を維持し、北条氏、安田氏、善根氏、南条氏に分岐、それぞれ戦国期にかけて活動が所見される。さらには、安芸国の毛利氏も同族である。しかし、その系譜関係は分かりにくい。今回は、その祖大江広元からどのように分岐していったかに焦点を当て、系譜関係を整理していきたい。


大江広元の子息は、出羽国寒河江氏の長男親広、武蔵国長井氏の二男時広、上野国那波氏の三男宗光、越後国毛利氏の四男経光らが有名である。

田村裕氏(*1)は、毛利安田氏の系譜を伝える越佐史料所収『毛利系図』が毛利安田氏の祖を那波氏に結びつけるものの実際は那波氏とは別系統の四男経光であり、その所伝を慶長5年に那波氏から安田氏へ養子俊広が入ったことによる誤伝であると指摘している。この他『毛利系図』は、安田景元が那波氏に寄寓したとする不自然な所伝を載せることを始め信頼性に欠ける部分が多々あり、注意が必要である。

大江広元の四男季光が相模国毛利庄を領有したことから毛利氏を名乗り、その初祖となる。季光とその一族の多くが宝治元年(1247)三浦の乱に与して没落するが、子息の一人経光のみ関与を免れて毛利氏所領の内、越後国佐橋庄と安芸国吉田庄の領有を許された。

文永7年(1270)7月毛利寂仏(経光)譲状(*2)によって、佐橋庄南条と安芸国吉田庄が毛利経光入道寂仏から息子四郎時親に譲与されている。河合正治氏(*3)は、妻が御内人長崎氏の娘であるために時親は庶子でありながら優遇されたと考察し、佐橋庄北条と惣領職は嫡男の基親に継承されたと推測している。

ここに基親の系統である惣領毛利北条氏が分岐する。弟時親の系統からはこの後善根、安田、南条、そして安芸毛利氏が分岐する。


1>毛利北条氏
北条を領有した基親の子が時元である。応安4年(1371)毛利宝乗(親衡)書状(*4)に「惣領毛利丹後守入道慈阿」と時元が表現されており、北条氏が惣領であることがわかる。

時元は応長元年(1311)に北条氏菩提寺専称寺を建立したことが文書(*5)にも残っている。

時元以降の系統が北条氏として続いていく。


2>安芸毛利氏、毛利南条氏
佐橋庄南条を領有した毛利時親以降の系統は、安芸国吉田庄も領していたことから、越後国と安芸国の双方で活動が見られる。既に時親において吉田庄への下向がなされていたようで、時親-貞親-親衡-元春と安芸吉田庄を中心に存続する。この吉田庄を拠点とする系統は後に戦国大名毛利元就を輩出する安芸毛利氏である。


では、佐橋庄南条に注目したい。毛利時親の次代において氏族が分かれていく過程が毛利元春事書案(*6)に詳しい。それによると、了禅=時親が一族へ南条を分割して譲与したという。具体的に言うと、時親の嫡孫親衡、その弟宮内少輔入道道幸、時親の庶子四郎親元、五郎広顕、毛利北条氏庶流で時親の甥経親の5人と推測されている。

康正3年には南条駿河守広信のものとされる専称寺宛寄進状(*7)が残っていることから、南条を分割譲与された者の内や、親衡の子でありながら嫡子元春とは別行動を取った弟匡時の系統といった所のいずれかが南条氏として活動していたと推測される。

『文禄三年定納員数目録』、『御家中諸士略系譜』などにおいて南条氏の人物が確認されることから戦国期から米沢藩に至るまで、南条氏として存続したことが確認される。


3>毛利安田氏
毛利南条氏と分岐し、戦国期へ発展を遂げるのが南条を分割譲与された一人である宮内少輔入道道幸の系統である。道幸は時親から継承した南条の石曽根を拠点に、鵜川庄安田条へ進出する。安田との関係性は永和4年(1378)足利義満御教書(*8)から判明する。この御教書は安田条の領有を巡り八条上杉満朝が幕府へ提訴したことが発端となったものであり、道幸の安田領有が実力=武力を行使してのものであったことが指摘されている(*1)。


道幸の子息として、嫡子元豊と庶子憲朝が検出される。安田道幸譲状(*9)と足利義満安堵状(*10)から、「憲朝」は「朝広」の改名後であることがわかっている(*1)。

応永14年(1407)毛利常全(憲朝/朝広)譲状(*11)において安田条を末子亀一丸(後の入道道元)に譲っている。よって、安田を領有したのは庶子憲朝の系統であったことがわかる。道幸は自らの所領の内、元豊に石曽根条を、憲朝に安田条をそれぞれ継承させたようだ。

この毛利道幸の庶子憲朝の系統が毛利安田氏として続いていく。


ちなみに、毛利安田氏の所領を巡る係争は文明期にも見られ、八条上杉氏の関与も認められる(*12)。入部当初の実力による安田条領有という前提が根本にあった可能性もあろう。さらに言えば、永正期における長尾為景の台頭は当時越後で影響力を増していた八条上杉氏との対立が原因であるから、毛利安田氏が一貫して守護代長尾氏に味方した理由として八条上杉氏など周辺領主との所領を巡る対立が基礎にあったとも見られよう。

また、上述の永和年間の係争において守護代長尾氏が毛利安田氏を擁護しており、毛利安田氏の成立時点で既に守護代長尾氏との関係が強化されていたとも言えよう。元々庶流であった毛利安田氏が守護代長尾氏の権力を背景に発展する様子が垣間見えよう。これは、庶流の領主が発展していく様子として貴重な一例であり、またその発達を庇護することで守護代長尾氏が守護上杉氏不在の国内で影響力を増していく流れもわかりやすく示してくれるといえる。


4>毛利善根氏(毛利石曽根氏)
道幸の嫡子元豊の系統を見ていく。

上述の毛利道幸譲状(*9)には「惣領」として「憲広」という人物が登場するが、田村氏(*1)はこれを元豊の前身と見る。すなわち、道幸の嫡子憲広=元豊が「惣領」として存在したことが明らかになる。この系統は毛利常全置文(*14)において「石曽根殿」と表現されていることから石曽根を拠点としたことが分かるという。

つまり、毛利氏の庶流道幸の嫡子元豊が毛利石曽根氏を形成したと言うことができる。

毛利常全文書(*14)にある「惣領」「石曽根殿」から石曽根氏が越後毛利氏惣領として捉えられることもあるが、惣領北条毛利氏が別系統として存在しており、あくまで道幸系毛利氏の惣領を指すと考えられる。毛利道幸の系統は戦国期に向けて発展したため誤解されがちであるが、道幸自身は毛利庶流であり石曽根氏、安田氏も毛利氏の惣領とは成り得ないことに留意が必要である。


そして、毛利石曽根氏については丸島和洋氏(*15)により毛利善根氏と同一であるという指摘がなされている。戦国期に所見される善根氏のルーツが明らかになると言えよう。

善根氏については系譜関係や天文末期の反乱など検討するべき点が多いため、また別に検討してみたいと思う。



以上、北条氏、安田氏、善根氏、南条氏、安芸毛利氏の分岐を中心にその系譜関係を整理した。


*1) 田村裕氏「鎌倉後期・南北朝期における越後毛利氏と安芸毛利氏-毛利安田氏の成立を中心として-」『新潟史学』57号
*2) 『越佐史料』2巻、19頁
*3) 河合正治氏『安芸毛利一族』吉川弘文館
*4)『大日本古文書』毛利家文書一、17頁
*5) 『新潟県史』資料編4、2291号
*6) 『越佐史料』2巻、321号
*7) 『新潟県史』資料編4、2295号
*8) 『新潟県史』資料編3、1009号
*9)『新潟県史』資料編4、1530号
*10)同上、1531号
*11)同上、1536号
*12)同上、1550-1551号
*13)同上、1537号
*14)丸島和洋氏「上杉氏における国衆の譜代化」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)


21/4/16「守護代長尾景春」という表現を「守護代長尾氏」に改めた。