天文24年1月から2月にかけて越後国刈羽郡善根において生じた善根の乱について、前回毛利善根氏との関連に注目して検討した。今回は、同族の毛利北条氏に視点を移して見ていきたい。
1>武田信玄書状の検討
まず、善根の乱が北条高広の反乱主体であったと誤解される場合があり、それについて確認する。
[史料1]『新潟県史』資料編5、3410号
雖未申通候、令啓候、抑先日承候旨、至真実者、大慶満足候、向後者、異于他可致入魂候、同意可為本意候、猶甘利左衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月五日 (武田信玄花押)
北条丹後守殿
[史料1]は武田信玄から北条高広に宛てられた書状であり従来天文23年12月に比定され、翌24年の反乱は北条高広が武田氏に内通した結果生じたものと解釈されてきた。
ただ、近年は黒田基樹氏(*1)や栗原修氏(*2)の研究から、永禄9年に高広が上杉氏を離反し甲斐武田氏、小田原北条氏へ通じた際のものであると明かにされている。
理由は文中に登場する「甘利左衛門尉」=甘利昌忠/信忠の名乗りの変遷にある。黒田氏によると弘治年間の文書まで彼は仮名藤三で所見されるから、官途名左衛門尉と見える[史料2]が弘治年間以前である可能性はない。
さらには、「甘利左衛門尉可申候」とある通り甘利左衛門尉信忠書状(*3)が[史料2]の翌年4月の日付で発給されている。甘利信忠の実名は永禄7年に昌忠から改めたものであることが黒田氏により指摘されているため、その甘利信忠書状は永禄7年以降である。
よって、甘利信忠書状の前年に発給された[史料2]は永禄6年以降に武田信玄が高広と接触した永禄9年離反時に限られるのである。
[史料1]と天文24年の反乱は全くの無関係であると言える。
2>上杉輝虎書状の検討
続いて、後年の長尾景虎/上杉謙信との関係性を書状から探り、高広の動向を推測してみたい。
高広は永禄2年から公的文書の署判者として所見される。さらに、永禄初期の某覚書(*4)には次の様な一文がある。
「そうまかないりう所ともに小四郎しんたいもたれへき大小事ともニ、きたてう方たのミうちまかせへき事」
景虎の一族である長尾小四郎(景直)について、進退に関する大小事を北条高広に頼み任せるというのである。永禄初期においてこの様な立場にいる人物が、その数年前に反乱を起こしていたのだろうか。
さらに、永禄9年に高広が上杉氏から離反した際の文書を見てみたい。
永禄9年12月13日上杉輝虎書状(*5)より
「道七以来之芳志与云、関東ニ輝虎為代差置候事、無其隠候、如此之仕合、天魔之所行ニ候」
永禄9年日付不明上杉輝虎書状(*6)より
「既丹後守者、其身擬与云、巧者与云、年老与申、殊譜代之芳志を黙止、妻子ヲ捨、南甲へ一味、争左様ニ可有之候哉」
どちらにおいても、長尾為景以来譜代の家臣として活動してきたことが読み取れる。高広自身が以前にも反乱したことは全く記されていない。
その離反後、高広は越相同盟と共に帰参するが、その後は息子景広への家督交代を強制されるなど離反前と立場は一変している。他国との交渉も、景広中心の体制に改められている。やはり、離反後にはそれなりの処遇がなされている。
このような点からも、天文24年に反乱した主体が高広であったとは考えにくい。
ちなみに、安田氏と北条氏が対立関係にあったという俗説もこの反乱が北条高広によるものとした結果であり、事実ではない。安田景元は天文の乱において北条城に在城し高広の祖父北条輔広と共に長尾為景に味方しており、友好的な関係であることが明らかである。また、景元の妻は輔広の娘であった可能性が『毛利系図』から示唆される。
3>北条高広と反乱の関与を示す史料
北条高広が反乱主体とは考えられない点は示したが、ここから実際に反乱についてどのような立場であったかを見ていく。
『越後平定以下太刀祝儀次第写』を見ると「毛利丹後守」=高広が明かに後方に記載される。これはいわゆる席次の降格を表わすのでないか、と推測される。記載が後方の人物は「糸牧」の太刀を進上しているが、高広のみ上位の人物に多く見られる「金覆輪」の太刀を進上している。明らかに格の違いがあり、この席次は本来のものではないだと思われるからだ。
ただ、後方に記される人物は正確性が疑われる者も多い。高広の席次降格を示唆する史料ではあるが、これだけでは判断し難い。
[史料2]『新潟県史』資料編5、3282号
覚
一、北条之事
一、今度出馬之上、無二無三可被走廻事
一、働之上さしつ次第馳走之事
一、向後可請意見之間、内儀次第上府事
一、誓詞之事
以上
[史料2]は年不詳某条書である。しかし、発給主体の出陣とその元で奮戦するべき事、誓詞についての事など、[史料1]に見える安田景元の動向と一致する。「北条」は北条高広のことだろう。
よって、[史料3]は天文24年に比定でき、長尾景虎側から安田景元への宛てられたものであろう。出陣後の奮戦を命じており、誓詞についての記載から安田景元起請文発給前と思われ、具体的には天文24年1月頃であると推測される。
「北条」が小田原北条氏を表わすと解釈すると越相同盟交渉の文書との可能性もあるが、越相同盟関連の文書を見ると小田原北条氏は「南」や「南方」もしくは「氏政」「氏康」と表記されている。従って、[史料2]は越相同盟に伴う文書ではなく、上記の推測が成り立つと言える。
年次比定が正しければ、[史料2]における「北条之事」が善根の乱における北条高広の動向を示すものとなる。ただ、「北条之事」のみで具体性に欠ける。
そのため、総合的に推測していくしかない。反乱主体は善根氏と想定されること、北条氏の席次が低下した可能性があること、景虎が安田氏に「北条之事」を相談していること、を踏まえると、北条氏の微妙な立場が類推される。
以前それぞれの系譜を検討する上で確認したように北条氏は善根氏と深い血縁関係があり、その反乱において善根氏と長尾景虎側の圧力との間で板挟みになっていたことが想像できる。
席次の低下も事実であれば同族の反乱の鎮圧にあたり、消極的な姿勢をみせたことによる引責というところではないだろうか。
安田氏と北条氏の関係は友好的であったことは先述したが、その関係を基に景虎も北条高広に働きかけ、高広側もそれに応じたと推測される。
以上が、北条高広と天文24年善根の乱に関する検討である。前回の善根氏と同様に推測に頼る部分が多いく、後考に期待したいところである。
*1)黒田基樹氏 「武田氏の西上野経略と甘利氏」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)
*2)栗原修氏「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉氏武田氏の上野支配』岩田書院)
*3)『新潟県史』資料編5、2543号
*4)『新潟県史』資料編5、3280号
*5) 『上越市史』別編1、543号
*6) 『新潟県史』資料編5、2423号