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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

政景の乱 編年史料集2

2025-03-16 13:17:09 | 長尾氏
前回(政景の乱 編年史料集1 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)に引き続き、上田長尾政景の乱に関する史料整理を続ける。天文18年5月から乱の終結とそれ以降の関連文書まで含めて見ていく。

天文18年
[史料16]『上越市史』別編1、51号
如仰、此間者不申達候、仍上田年内御無計相調之由、簡要存候、定可為御満足候、我等も御同前候、雖然、政景御舎弟被成出府之由、従御奉行衆示預候、内々我等も相待之候処、一向無其沙汰候、但、此上可有如何候哉、拙夫知行于今一ケ所も不被相渡候、かうゝの別ニ而入手候へハ、御無計之到候条、御批判も如何之間、兎角令遠慮候間、当地備大切迄候、同心・召仕いさミをうしなひ候、可尤御推量候、随而、多小本領之内、当知行義被仰越候、条々御使へ申宣候、先以被相談、当地備御本意尤存候、至事出来候者、可為御後悔歟、不可御分別候、委曲堀方へ申分候条、不能具候、恐々謹言
    五月十五日             宇駿 定満
    平子殿 □報

・天文18年3月末までに長尾政景は長尾景虎と和睦を結んだが、政景弟の出仕の約束がなかなか履行されなかった。
・当時、宇佐美氏は所領を政景方に横領され、家臣の士気も下がっていたという。
・また、多功氏の本領について定満と平子氏との間で相論となっていた。

[史料17]同上、61号
如仰、其以来者無差儀候条、不申達候、しかしなから、ふいん口惜次第ニ候、御書中のことく、ほり方しかといたしをかれ候へとも、へつしてはしりめくる事無之候、次ほり之内義、被仰越旨於□□□□従駿所被申達候、何様此間之ふさた共、以参城可申宣候、恐々謹言
    五月十五日         加地式部少輔 定次
    平子殿 参御報

・[史料16]にある宇佐美氏と平子氏の所領問題について加地定次という人物が言及。定次の詳細は不明である。

[史料18]同上、17号
重而示預候、具令披見候、上田御無計、若相違之様候者、上田可為大義候由、被仰越候、我等も其分存置候、乍去、於此上不可有斗切由存候、但人質不被為上、一所帯方不被相渡旨者、無其曲候歟、千万ニ一も事切候者、此口之義、畢竟、御加世義ニ相極候、我等一人ニ被差任候者、必可為御後悔候、其故者、拙者無力故、召仕の者共令退屈候事、従上田様々以計策当地被□候、そくたくを以可為付火之由、被相荷責候、従其方為聞候間、内々そのせんさくニおよひ候間、里被官ニ而、佐藤并重野与申者、下倉かひはつね候、如此ニ候間、爰元油断無之候、於様躰者、今泉方可被申候、随而、田河入之義らうせきなきやうニ涯分申付候、可御心易候、恐々謹言
    六月五日              宇駿 定満
    平子殿

・景虎と政景の「御無計」は成立せず、景虎方の定満は政景方が攻撃してきた時には平子氏へ加勢を求めるほど両者の緊張が高まっていた。
・「当地」=定満の拠点へも政景方の「佐藤」「重野」が放火を行った。
・文中に「当地」とは別に「下倉」と記されており、「田河」への乱暴狼藉を禁じること伝えているから、定満の拠点は下倉城ではないものの田河近辺の城郭、例えば堀之内城ではないだろうか。[史料24]には定満が庇護する多功氏の知行が堀之内だったとある。堀之内城であれば景虎方の最前線であり、政景方から放火などの攻撃を受けるのも自然である。
・[史料20]において定満居城への放火に言及があり、同書状内で上杉定実も登場することからこの事件が定実死去=天文19年2月以前のことであることが確実。内容より景虎の家督相続後であることは疑いないから、これらの文書群は天文18年に比定される。

[史料19]同上、18号
於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候、抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候、尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候、被懸御目候間、寄存処、其まゝ申宣候、金沢方兎角被申候付、無曲之由彼方へも申候キ、まことにすいさん至極ニ候へ共、無御甚心まゝ申候、具儀者小林へ申候、相替儀候者可申入候、恐々謹言
    六月廿日           庄新左衛門尉 実乃
   平孫 参御報

・景虎重臣本庄実乃も宇佐美定満へ攻撃を把握し、平子氏へも定満(=景虎方)へ味方することを要請。
・当文書の解釈については以前の記事を参照(仙洞院の婚姻時期 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。

[史料20]同上、19号
御懇書巨細被得□□□□、仍関東之 屋形様御音信之儀、御斟酌ニ候つる、乍去、御無調儀北々様も候歟、御名字之事、無其隠候故、かたき計をも可被成候哉、左様ニ候ハゝ、前々不被仰、今日景虎へ之被成御状候ハゝ、可然候者可有御披露候由、被認候ハゝ尤候、何も案書被申請候かたハ其分に候、但取子にて御判儀を可給候、若須合申候ハゝ上可申候、御珎儀畳々儀者、御不如意至極候条、御太刀・御折紙等ニ而可有御申候間、百疋ニいとまき御太刀其方ニ無御座候者、某ニて、於此上借用上申候、定而御出張之儀者、来月十日比之内ニ可被成候間、御出陣之儀、御心得簡要候、恐々謹言
    六月廿日           庄新左衛門尉 実乃
   平孫 参御報

・上野国平井城を拠点とする関東管領山内上杉憲当より景虎のもとに音信があった。当時憲当は小田原北条氏に圧迫されており、援軍として関東への出陣を求めてきたよう。この交渉には平子氏も関わっており、本庄実乃が形式的な点について指示与えている。
・景虎は要請を受けて7月10日頃の出陣を決定した。

[史料21]同上、20号
御屋形様へ為御音信被仰立候、則景虎披露被申候処、御悦喜候段被遣御書、御目出ニ存計候、景虎も一段喜悦候由候、一、宇駿於用害火付候義、先書御目被下候故、屈伏申宣候処、則御成敗候由被仰越候、可御心安候、一、関東御出陣之義、只人ニ不可限候間、乍御大義御用意専用ニ存候、一、景虎諸軍可被相待義候間、兎角御用害普請等被成之、可然存候、一、御捨弟孫八郎殿御進退之義、御袋様より被仰越、是又無御余義存候、雖只今義ニ無之候、御次以為御心得申入候、惣別、御先輩ニ御座候間、公家をも可被御覧、台飯式にても、景虎にてもさせ被申候者、可然存候、其故者、斎藤小三郎殿、御捨弟平七郎殿、又者千坂筑前御捨弟源七郎殿、何も台飯式ニ而御詰候間、御同前に候て、可然存候、為御心得申候、一、従御袋様為御音信被仰越、是又承存候、御心得迄可被下候、一、如斯義軽千万ニ候へとも、代々被懸御目ニ候間申入、雖被申迄、時分相急キ候、御近辺ニ者吉江中務踞候間、いかにも〱御懇切簡用存候、人如何ニ違候共、せう〱義御堪忍候而、御懇切尤候、目出重而、恐々謹言
    七月四日               庄新 実乃
    平子孫太郎殿 御宿所

・宇佐美氏拠点を放火して件については景虎の指示もあり、平子氏らにより「成敗」された。
・関東出陣が計画されており、大変だが十分用意するように平子氏へ命じている。

[史料22]同上、53号
就上田御行日限義、以脚力被啓之候、各被仰合、御出陣簡要存候、巨細者被申含候、不具候、恐々謹言
    七月七日            大熊備前守 朝秀
                  小林新右衛門尉 宗吉
                   庄新左衛門尉 実乃
    平子殿 人々御中

・長尾政景が景虎へ従わず、「上田御行」=政景の攻撃が決定された。「脚力」により速達されていたことからも、この決定はそう遡らない時期に決定されたことが推測される。
・景虎は関東管領上杉憲当を救援する関東出陣へ政景が従わないことを大義名分とし、そのために召集した軍勢をもって政景攻めを行ったのではないか。

[史料23]同上、54号
上田之一義、去春以来、無為之悃望候間、内々可任其意覚悟候処、落着之義、兎角延引、剩無首尾子細共候、此時者計策眼前ニ候哉、所詮、頓速可成動候、然者来朔日、雖可為御陣労候、彼口御動可為簡要候、委曲従各所可申入候、恐々謹言
    七月廿三日            長尾平三 景虎
    平子孫太郎殿

・「去春以来、無為之悃望」より、天文18年に比定される。よって、[史料21]などの政景攻めに関する一連の文書も天文18年に比定できる。
・「落着之義、兎角延引」とあり、人質の提出を渋るなど和睦条件を履行しない政景の様子を示している。
・出陣の日時は8月1日と通告している。当初の出陣予定より遅れているが、関東出陣から政景攻めへと攻撃目標が変わったこともその一因だろう。

[史料24]同上、96号
如仰、此間者久不申達候、御床敷存計候、以多劫小三郎方当知行堀内可被召置之由、被仰越候、夏以来、度々如及御辺斗候、本領与申、当知行与申、殊腹御味方最前被致討死候、惣別、押生・田河本領之義ニ候条、此度御侘言可申処、中比貴所御知行候間、是非不申相渡申候処、堀内訖可被召置由、令迷惑候、何ケ度も侘言可申候、相渡申候田河全部被押領候、比御加世義専一候、恐々謹言
    十月十日               宇駿 定満
    平子殿 御報

・「夏以来」とあり、[史料16]に見える相論に関する交渉が続いている様子がみえる。
・[史料25]よりこの頃までに政景が景虎方へ従属しており、政景の乱終結に伴い所領に関する交渉も加速していたのだろう。

[史料25]同上、21号
如示給未申通候処、御懇書令披閲候、乃宇加地之儀、被仰越、既春以来府内へ無為被申刻、所帯方以下互ニ被申定、其上今度正印被遂出府之上者、兎角承事覚外至極候、何ケ度承候共、此趣可及御返事候、恐々謹言
    拾月十四日       金子勘解由左衛門尉 尚綱
    平子孫太郎

・[史料22]にある景虎の出陣により政景は降伏し、「正印遂出府」=政景の出府が実行された。景虎の全面攻撃を前に、政景もこれ以上の抵抗は困難と判断したのだろう。
・宇賀地の領有について平子氏と金子氏の間で相論となっていた。

[史料26]同上、56号
去正月、従古志郡之動ニ、祖父入道并父清左衛門討死、忠信無比類候、然者、自相拘名田之内立来土貢二百疋、同佃、為給恩出置之候、其外之諸役無怠転相勤可走廻者也、仍如件
    十一月十日                 政景御判
        佐藤彦次郎殿

・乱が終結し、政景も傘下へ論功行賞を行った。
・天文18年1月に古志郡で景虎方と政景方で抗争があったことを示す。佐藤清左衛門らが戦死しており、軍事衝突があったことが明らかである。

[史料27]同上、100号
多劫方屋敷一所、平子殿相渡可申之由、重而被仰越候、殊被成御直書候条、不及違儀相渡可被申之由申届候、惣別、彼進退之義、夏以来数ケ度侘言申候処、終不被御申分候、畢竟、不被入御心故如斯候、令迷惑候、入廉以庄田方彼進退申上候処、彼聞召分之段、新左衛門尉殿・備前殿預御一札候条、拙夫ニ同心、剩被致討死候、幾度子細申分候モ、此上彼進退義、一途御申成奉頼候、恐々謹言
    極月十二日          宇佐美駿河守 定満
    大熊備前守殿
    直江神五郎殿
    庄新左衛門尉殿 御報

・宇佐美定満が多功氏の所領の維持を訴えている。多功氏は宇佐美氏と共に政景方と戦闘に及び、戦死したという。
・「夏」(=4~6月)以来何回か訴えていると述べており、実際[史料16]にあるように同年5月から定満の訴えが見える。

天文20年
[史料28]同上、49号
先年不慮之鉾楯在之節、被抽忠信条無比類候、因乃、当寺為開基之験般若院分并法用寺分之事、宛行之畢、永代不可有他妨者也、仍如件
  天文廿辛亥 
    三月二日                  景虎
    常安寺

・「先年不慮之鉾楯」が天文17年から18年にかけての政景の乱を指す。常安寺がある栃尾にもその影響が大きかったことは見てきたとおりである。

天文23年
[史料29]同上、115号
態令啓上候、仍下平江拙者申結子細、 殿様可被成御隠居之由、被仰出候間、諸公事被為停止之由、貴殿直ニ承候而、下平も拙夫も可罷下由、従大熊捻を給候間、内々可致帰宅覚悟ニ候得共、下平覚悟渕底存之義候間、先以令滞留候処ニ、如案当月廿日ニ上田堵与申地へ、高橋と申者を為入部与差越申之由、飛脚当来仕候、時宜如何、口惜迄候、道七様御在世之時分、終為致違乱義無之候、其以後黒田方走廻之時分、一両年致押領候、 殿様当地へ御移之刻、大備内意之由申、以針生刷を返置候、御両所も無御落居処ニ、如斯之刷、慮外無是非迄候、所詮於無御存知、被任前々之御法ニ、其御策配専一存候、巨細先度露一書申候条、不能具候、恐々謹言、
    三月廿三日              家成
「(礼紙ウハ書)本庄新左衛門尉殿 参御宿所   上野源六 家成」

・天文23年に上野氏と下平氏に相論が生じており、その際の文書。「其以後黒田方走廻之時分、一両年致押領候」とあり、[史料3]でみた天文18年における上野氏周辺における抗争を契機とした所領争いと考えられる。

政景の乱 編年史料集1

2025-02-22 12:56:12 | 長尾氏
長尾景虎と上田長尾政景の抗争について前回再検討を行い、諸文書の年次比定を改めた上でその経過について再構成を試みた。ここではそれら諸文書を編年的に総集する。政景の乱の詳細や年次比定の根拠等については前回の記事(上田長尾政景の乱 再考 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)を参照してほしい。今回は天文18年4月までの文書を扱い、天文18年5月以降の文書は次回で紹介する。


天文17年
[史料1]『上越市史』別編1、237号
栃尾之地へ早々相移候事、挊共無是非候、其元各有談合無相違刷簡心候、無道以下堅可申付候、委細之段至届可申候、謹言
  傍輩共之辛労由可申候
    九月九日                 景虎
      小越平左衛門尉殿
      庄田惣左衛門尉殿

・黒田秀忠の乱鎮圧のため長尾景虎が上郡へ出陣したことに伴い、栖吉長尾氏家臣庄田氏、小越氏が栃尾城の守備を任された。[史料2]では景虎は下倉城の守備も指示していることから、この時既に長尾政景との抗争も生じていたと見られる。
・宛名の書札礼から景虎の家督相続前と推測され、天文17年9月と推測。

[史料2]同上、36号
急度令啓候、仍其地在城御辛労御心尽、不及是非候、至于今日も、其元無凶事候事、畢竟旁々御挊故与令満足候、此上之義、雖申談候、吉江・庄田有談合、可然様備簡心候、尤拙者義可納馬覚悟候処、当郡之様躰大切候間、先以可令越年分候、其元珍義候者可示給候、又可申越候、恐々謹言
  尚々、其地各有談合、無恙様ニ、備相頼入計候
    九月廿三日               平三景虎
       大沢殿
       江口殿
       福王寺殿

・景虎は栃尾への帰陣も考えていたが情勢から上郡での在陣が年を越しそうであることを伝え、自らの家臣庄田氏、吉江氏と連携し下倉城を守備するよう福王寺氏らに指示した。
・宛名の書札礼から景虎の家督相続前と推測され、天文17年9月と推測。

[参考1]同上、3号
兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候、何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言
    十月十二日               平三景虎
    村山与七郎殿

・景虎が上郡まで出陣し鎮圧に動いている状況が記されている(=第一次黒田の乱)。
・黒田の乱については以前の記事(黒田秀忠の乱と景虎の家督相続 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で紹介したように天文17年から18年にかけて生じたことが確定的である。

天文18年
[参考2]同上、10号
当地春日山へ相移之段、被得聞召示給候、祝着至極候、然者、御口上之旨具承、是又満足存候、猶巨細者庄新左衛門尉可申入候間、閣筆候、恐々謹言
    正月四日                景虎 御居判
     上野源六殿

・景虎が家督を相続した。

[史料3]同上、11号
態御飛脚、則御書中之旨令披露候処、一段快然之由、披成直報候、仍如仰 屋形様御掟を以、御無事相調、旧冬晦日、当地鉢嶺へ御移候、定目出ニ可思召候、然者、従去秋御理之段、条々申旧候、畢竟、其元御かせ義簡要ニ存計候、此方御取合之儀者、可有御心安候、毛頭不可有如在候、目出重而可申入候、恐々謹言
    正月四日                庄新左衛門
    上野源六殿

・景虎の家督相続を伝達。
・「此方御取合」=黒田秀忠との抗争、「其元御かせ義」=長尾政景との抗争であると考えられる。
・家督相続の件より天文18年1月の書状であることが確実。前年「冬」(=10~12月)の間に降伏した秀忠は、翌年1月初頭には再び蜂起していたと考えられる(=第二次黒田の乱)。

[史料4]同上、40号
今度其地被成在城、御加世義無是非次第候、敵引除之間、金子勘解由今夜中相移由、令注進候、其仕合如何候哉、此上備弥以堅固之御談合可為簡要候、猶口上申含候、恐々謹言
    正月十五日               六郎政景
     発智右馬允殿

・政景方発智長芳が在城する拠点を景虎方が攻める。景虎方は退いたが、政景方は金子尚綱を援軍として派遣する対応をとった。景虎自身は上郡にいるため、景虎方の軍勢は下倉城将らを始めとする現地の武将で構成されていたと考えられる。
・[史料3]で波多岐庄上野氏へ軍事行動を命じているのも、このような政景方の動きがあったためと考えられる。一連の魚沼を巡る抗争を天文18年と推測。

[史料5]同上、41号
今度其地御在城、御加世義誠以無比類存候、敵昨日戌剋引除申之上、金勘丑剋自板木其地へ罷移由、申越候、仕合如何、承度計候、如何様自政景方以使御粉骨之趣可被申候、此上敵手刷如何、何篇ニも其地於御備者、心易存候、恐々謹言
    正月十五日               栗長経重
    発右
    原丹 御宿所

・[史料4]とほぼ同内容。発智氏、原氏の元へ金子尚綱が援軍として到着したことがわかる。
・政景とその重臣栗林経重ともに拠点の防衛と景虎方の動向の把握を指示しており、発智氏らの在城する拠点が政景方の最前線であった可能性が高い。原氏の居城は破間川を挟んで下倉城と向かい合う新保館と伝えられており、当該拠点がここであれば矛盾はなく、可能性の一つとして提示しておく。政景の有力家臣が最前線へ集結していた様子が窺える。

[史料6]同上、42号
今度宇佐美駿河守替覚悟之処、雖不始義候、各加世義之由申候、感之候、弥以忠信此時候、猶自栗林長門守所可申遣候、謹言
    正月十六日                政景
      穴澤新右衛門尉殿

・宇佐美定満の離反が発覚し、政景が傘下の領主を激励。この頃も入広瀬の領主穴澤氏は政景方として活動していた。
・天文18年5月には定満が景虎方として見えるから、それ以前の文書と思われ天文18年1月と推測。

[史料7]同上、43号
今度御老母・御足弱并息達、敵へ引取候、誠以無是非、口惜次第候、猶使口上申付候、如何共不及了簡義候条、被守先忠加世義簡要候、恐々謹言
    正月十八日                六郎政景
     発智右馬允殿

・発智氏の家族が敵に捕らわれる。発智氏の拠点が落とされたことに起因すると思われるが具体的な場所は不明である。ただ、発智氏の拠点が板木城と伝わり、[史料4,5]から板木城の防御が手薄であった様子が窺われることから、発智氏や金子氏らが他拠点を守っている隙を衝いて板木城が落とされたのではなかろうか。発智長芳自身は無事にもかかわらず家族が捕らわれたのも、本拠板木城から自身が離れている際の出来事であったからであろう。

[史料8]同上、44号
今度宇佐美駿河守替覚悟之所、雖不始義候、各加世義之由申候、感之候、弥以忠信此時候、猶自栗林長門守所可申遣候、謹言
    正月十八日                政景
      小平尾小屋中

・現魚沼市小平尾は当時政景の傘下であった。

[史料9]同上、45号
今度宇佐美駿河守替覚悟之所、雖不始義候、各加世義之由申候、感之候、弥以忠信此時候、猶自栗林長門守所可申遣候、謹言
    正月十八日                政景
      須加小屋中

・現魚沼市須川は当時政景の傘下であった。入広瀬の穴澤氏と合わせ、薮神においては一定の政景勢力が活動していた。

[史料10]同上、46号
一昨日如令啓、今度老母様・御内儀并御息、悉敵方へ引取申候事、誠以無念口惜次第候、御心底ニ相替存計候、然共不及御了簡候間、被任筋目御忠信簡要至極候、依之、直被展候、猶石井雅楽助可申分候、恐々謹言
    正月十八日                栗長経重
    発右 御宿所

・捕らわれた発智長芳の家族は、母、妻、息子であったことがわかる。文中にある通り、悉く捕縛されており発智氏の拠点=板木城が落とされた結果とみてよいだろう。

[史料11]同上、47号
今度村松要害攻落刻、上屋被討捕之段、神妙至候、弥以可励粉骨候也
    正月二十六日               景虎 御居判
         小越平左衛門とのへ

・小越氏が村松城を攻略。現長岡市村松に残る城郭と想定される。政景に応じて古志郡においても反抗勢力が存在したことを窺わせる。
・書札礼より天文18年以降であることが確実。検討したように政景の乱は天文18年で終結したと思われるから、中郡で抗争が生じたとすれば天文18年しかないだろう。天文18年1月と推測。
・討取られた「上屋」は不明だが、文明期作の『越後検地帳』には高波保に「紙屋平四郎」の存在が見えるから、その系譜に連なる紙屋氏の人物ではないか。

[史料12]同上、231号
為真板倉へ助相移、然与其地在城之由、陣労感之入候、其元備等堅固之様、弥其挊簡要候、謹言
    二月廿一日                景虎
      庄田惣左衛門尉殿

・庄田定賢が下倉城に程近い真板倉城へ移る。[史料11]にあるように古志郡の反攻勢力が制圧されたことにより景虎は重臣である定賢を魚沼郡に派遣することが可能となったと考えらえる。

[史料13]同上、48号
去廿一日、其地上田衆執懸候処、及一戦、為宗者共数多被討捕之段、神妙之至候、無是非候、弥以無油断可被相荷責事、簡要候、恐々謹言
    二月廿四日                 景虎 御居判
     中条玄蕃允殿

・政景軍が波多岐庄へ侵攻したが、2月21日に中条氏が撃退した。「其地」は中条氏の居城であろう。中条氏の拠点は現十日町市中条の大井田城と伝わっている。

[参考3]同上、5号
対晴景、黒田和泉守年来慮外外之刷連続之間、去秋此口へ打越、可加成敗分候之処、其身以異像之体、可遁他国之由、累歎之候間、任其旨、旧冬当地へ相移候処、無幾程逆心之企現形之条、即以御屋形様御意、黒田一類悉愈󠄀為生害候、依之、本庄方へ被成御書候、爰元之儀、定可為御満足候、恐々謹言
    二月二十八日              長尾平三景虎
     小川右衛門佐殿

・第一次・第二次黒田の乱の経過について奥郡小川長資へ伝達。黒田秀忠は殺害された。

[史料14]同上、50号
今度上田之人数、上野之地成動候処、得勝利、地利堅固被相拘由、無比類候、弥以忠信簡要候、然者、本領事無相違様、涯分可申調候、恐々謹言
  尚々、其庄ニ候本地事、不可有相違候、弥可被相挊候
    三月十三日                 長尾景虎
     中条玄蕃允殿

・政景軍は波多岐庄上野を攻めるも、中条氏らによって撃退された。[史料3]に見える上野氏も参戦していたであろう。
・中条氏は波多岐庄の本領を景虎から安堵された。
・[史料23](次回掲載)で景虎が「去春以来、無為之悃望」(「春」=1~3月)と述べており、黒田秀忠の乱が鎮圧され、波多岐庄の攻略も失敗した政景は3月末までに景虎との和睦を決断としたと思われる。

[史料15]同上、14号
就御領地宇賀地之義、御切紙令披見候、彼地之事、別而自余へ申合義無之候、如前々御知行簡要候、恐々謹言
 天文十八
    卯月十九日                 長尾平三景虎
    平子孫太郎殿

・平子氏へ宇賀地を安堵した。
・天文18年春に政景の乱が一段落したことによる論功行賞であろう。

上田長尾政景の乱 再考

2025-02-08 16:51:00 | 長尾氏
越後上田庄を拠点とする上田長尾政景は天文後期、家督相続直後の長尾景虎に従わず反攻姿勢を明らかにする。いわゆる長尾政景の乱(以下政景の乱)である。政景が後の上杉景勝の実父であることも相俟ってか、政景の乱があったという事実については広く知られている。しかし、その年次比定や詳細な乱の経過などについての研究は不十分であり、検討の余地がある。これまで通説では天文18年中に景虎・政景の対立が生じ、天文20年初頭に軍事衝突に及んだ結果同年3月に和睦を結び、その後再び関係が悪化するも同年中に和睦が完成したとされる。

私は以前に政景の乱を検討し、天文17年中に政景は長尾晴景・景虎方との対立し、天文18年初頭に軍事的な抗争が生じたのち同年春に和睦、その後天文19年から20年にかけて関係が悪化し、20年秋までに最終的な和睦が完成したと推測した(*1)。しかし、天文19年から20年にかけての対立については通説に拠るところが大きく、今になって文書群をよく検討すると整合性を欠く部分があることに気が付いた。結論から言えば、文書群の検討の結果、天文17年に生じた対立は天文18年初頭の軍事衝突を経て春に和睦を結び、その後再び関係の悪化が見られるも同年7月の景虎による軍事的圧力により同年10月までに政景が事実上の従属を遂げたと推定される。

今回は、通説や以前の私の検討における誤りを訂正したい。その上で次回以降、政景の乱の経過について再構築していきたい。

1>天文17年における政景の乱
まずは通説では指摘されていないものの、晴景・景虎と政景の対立、敵対関係が既に天文17年中において生じていた点についてみる。

同時期の背景を確認したい。天文17年10月以前に「弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外」(*2)なる事態が勃発、守護代長尾晴景へ重臣黒田秀忠が反攻、いわゆる第一次黒田秀忠の乱引き起こした。当乱の年次比定については、前嶋敏氏(*3)が天文17年であることを指摘しており、以前の記事(*4)で詳解している。この状況に当時栃尾城に在城していたと推定される長尾景虎は「遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候」(*2)、つまり栃尾から晴景と秀忠の抗争の中心である上郡へ参陣し重臣桃井氏と相談の上で「和泉守」=秀忠を制圧すると述べている。天文17年秋(7~9月)に景虎が上郡へ出陣したことは天文18年2月長尾景虎書状(*5)においても「去秋此口へ打越」とあることからも確実である。さらに同書状には秀忠について「可加成敗分候之処、其身以異像之体、可遁他国之由、累嘆之候間、任其旨、旧冬当地へ相移候」とあり、「旧冬」=天文17年年末までに景虎が秀忠を降伏させたことが明らかである。同書状にはさらに「無幾程逆心之企現形之条、即以御屋形様御意、黒田一類悉愈為生害候」とあり、秀忠は再び「逆心」=第二次黒田秀忠の乱を引き起こし、天文18年2月末までに長尾景虎によって殺害されたことがわかる。そして、この間天文17年12月末に景虎が晴景から家督を継承していることが天文18年1月本庄実乃書状(*6)からわかっている。つまり、天文17年9月までに景虎は当時の拠点栃尾城より出陣し、上郡において軍事行動や家督相続に多忙であったことがわかる。

それでは天文17年における政景の乱との関連文書だが、某年9月長尾景虎書状(*7)、某年9月長尾景虎書状(*8)がある。双方年不詳とされるが、宛名の書札礼から年次比定が可能である。前者(*7)は小越平左衛門尉が「殿」敬称で宛名されているが、同人宛の他書状では全て「との」敬称なのである。「殿」と「との」には明確な差異があり、広井造氏(*9)によると「との」は陪臣に対して使われたとされる。小越氏は栖吉長尾氏家臣であるから同氏を継いでいた栃尾城主時代の景虎とは直接の家臣であったが、景虎が晴景の跡を継いで守護代長尾氏となった後は陪臣に位置付けられる。つまり、「殿」敬称の同書状(*7)は景虎が栃尾城在城時期に発給されたと言えるのである。ちなみに、景虎が栖吉長尾氏を継いでいた点については以前の記事(*10)で検討済みである。次に、後者(*8)では薮神周辺の領主らが「大沢殿」、「江口殿」、「福王寺殿」と記される。この書状において「名字+官途・受領名+殿」ではなく、「名字+殿」と記載されより丁寧な表現となっている。家督相続後の景虎は「福王寺兵部少輔殿」(*11)や「江口式部丞殿」(*12)のように彼らを薄礼の書式で記している。そのため、より丁寧な書式で記載された同文書も発給された時期は景虎の政治的地位が低い時期、すなわち家督相続前であったことが推測される。そして、景虎の家督相続前に栃尾城より離れた地域に出陣したという明らかな記録は天文17年の黒田秀忠の乱の他にないため、両文書が天文17年9月に比定される。秀忠の乱が生じた月日とも合致しており、この比定の蓋然性は高いと思われる。

両文書を見ると、前者は栖吉長尾氏家臣庄田氏、小越氏に栃尾城の守備を命じるものであり、後者は福王寺氏など薮神の領主らに下倉城の守備を命じている。後者において景虎は「当郡之様躰大切候間、先以可令越年分候」と述べており、秀忠の乱や家督相続など諸問題で多忙のため上郡で越年せざるを得ない様子が明らかである。

これらの文書では景虎が諸城郭の守備を命じているがそもそも敵は誰なのであろうか。その勢力こそ、栃尾城、下倉城の領域に勢力圏を接する上田長尾政景であったと考えられる。留守中の警備を指示にしては「至于今日も、其元無凶事候事」などと内容が差し迫っており、福王寺氏、大沢氏、江口氏ら薮神の諸領主が領域の主要拠点=下倉城に集結して守備している点も当時軍事的緊張が高まっていたことを示すと思われる。

さらに、天文18年本庄実乃書状(*13)において景虎方より上野氏に対して「御かせ義簡要」=軍事行動が期待されている。後年、天文23年上野家成書状(*14)「其以後黒田方走廻之時分、一両年致押領候」とあり、この時上野氏が実際に軍事行動に及んでいたことが確実である。上郡における秀忠の乱だけでは上野氏の拠る波多岐庄における紛争を説明することは難しいと思われ、波多岐庄に接する上田庄の長尾政景が上郡の秀忠に呼応するように反乱を起こしたことに対する対応であったと考えられば納得がいく。

このように文書的根拠より天文17年9月までに長尾政景は晴景・景虎に敵対していたことが明らかである。秀忠は政景との協力関係を築いた上で反乱に及んだと考えるので自然であろう。

天文17年9月までに越後上郡において長尾晴景と黒田秀忠の抗争が勃発、秀忠へ与した長尾政景も敵対姿勢を明らかにする。同年9月までに晴景救援のため長尾景虎は栃尾城より上郡へ出陣、留守中の政景への対応を諸将に指示していた。ここまで以上のことが推測できる。

2>天文18年秋における終結
ここで政景の乱の終結を天文18年秋とする根拠を示したい。通説では天文20年秋とされるが事実ではないと考える。以下、便宜的にこの最終的な和睦を“秋の和睦”とし、それ以前の春に行われた一時的な和睦を“春の和睦”とする。

政景の事実上従属=政景の乱の終結を示す文書として年不詳10月14日金子尚綱書状(*15)がある。ここには「今度正印被遂出府之上」とあり、一般に主人・主君を示す用語である「正印」が政景を指し、景虎に屈服した政景の出府を表していることと理解できる(*16)。黒田基樹氏(*17)によると統制従属関係を明示する政治的行為として本拠地への出仕、人質の提出などが挙げられており、10月頃政景が出仕し景虎への服属が決定的となったことが理解される。某年5月宇佐美定満書状(*18)に「政景御舎弟被成出府」とあることから、「正印」=政景弟と捉えられがちだが語意に注目すれば誤りであるということがわかる。

よって、金子氏書状(*15)の年次比定がすなわち政景の乱終結の年を示すといえる。同書状では「既春以来府内へ無為被申刻」とあり、既に政景方から景虎方へ和睦の申し入れがなされていたと記されている。「春」とのみあることから和睦は書状と同年の春と考えて良いだろう。つまり、同書状より景虎・政景の“春の和睦”と“秋の和睦”は同年であったことが示されるのである。この点以前の私の検討では認識が不足していた。

では、“春の和睦”はいつであろうか。先にも触れた某年5月宇佐美定満書状(*18)にその根拠がある。同書状は政景方から定満拠点への放火された件について言及されているが、この放火事件は某年7月本庄実乃書状(*19)でも言及がある。この本庄氏書状には天文19年2月に死去する上杉定実が登場することから天文18年7月の書状であったことが確実であり、放火事件も天文18年のこととわかり上記宇佐美氏書状(*18)も天文18年5月であることが確かである。同書状において「上田年内御無計相調之由」、「政景御舎弟被成出府之由」が伝えられており、天文18年5月までに景虎と政景の間で「御無計」=和睦が成立し、政景弟の出府が決定していたことがわかる。これらから、“春の和睦”は天文18年春であったことが確定する。よって、“秋の和睦”が天文18年秋であったことも明らかとなる。

天文20年3月長尾景虎判物(*20)に「先年不慮之鉾楯在之節、被抽忠信条無比類候」とある。この「不慮之鉾楯」を通説のように天文19年末から20年秋にかけての抗争とすると「先年」という表現は不自然であり、上述した天文17年末から天文18年秋にかけての抗争を指すと考えられるのである。

さてこのように “秋の和睦”についても天文18年秋であったことを示すことができた。政景の乱の終結が天文18年秋であれば、その関連文書についてもその多くが天文18年秋以前であると考えられ、通説の大きな見直しが必要であると思われる。以下、政景の乱の主要な出来事について触れていきたい。

3>抗争の経過
発智右馬允が在城する城郭を巡る攻防について言及される某年1月15日長尾政景書状(*21)を初見として、同時期に魚沼郡を中心とした景虎方、政景方の軍事活動を示す文書が多数存在する。通説では天文20年1月とされていたが、上記の推論を踏まえると景虎の家督相続後かつ“秋の和睦”以前であるから、天文18年1月であることが確実といえる。

某年1月長尾景虎書状(*22)では栖吉長尾氏家臣小越氏が「村松要害」を攻略したことが記される。同要害は現長岡市村松に位置したと想定される。立地としては景虎勢力の内部に位置していることから政景の乱が終結し安定しつつある中での出来事とは考えにくく、政景の乱に関連した抗争と推測される。通説では天文20年とされてきたが、上述の経過を踏まえると、これも天文18年1月とみるのが妥当であろう。某年11月長尾政景判物(*23)を見ると「去正月、従古志郡之動ニ、祖父入道并父清左衛門討死」とあるが、同文書も同様に天文18年11月に比定することが妥当と考えられ、天文18年1月において景虎方と政景方において古志郡においても抗争があったと推測できる。

某年2月長尾景虎書状(*24)を始めとして、2月に政景方が波多岐庄を攻撃している様子が文書から読み取れる。これも上記と同様の考え方で天文18年2月と考えられる。先述のように天文18年1月本庄実乃書状(*13)において波多岐庄上野氏に軍事活動が期待されていたが、実際に翌月に波多岐庄が攻撃されており、当時の波多岐庄が軍事的に緊迫していたことが推測される。

政景が波多岐庄へ攻勢をかけた理由はなんだろうか。当時、景虎方の拠点である越後府中と上田長尾氏への前線の下倉城はいくつかの動線で結ばれていたと思われるが、恐らく最短かつ最重要であったものが府中から松之山を抜けて妻有庄・波多岐庄へ抜ける安塚街道や松之山街道と呼ばれる経路であったと考えられる。府中から関東へ抜けるルートとしての重要性は以前の記事(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で検討したことがあるが、十日町、魚沼方面へ抜けるルートとしても有用であったことは間違いない。もし波多岐庄が政景方の手に落ちれば景虎は主要な街道を失うことで下倉城や俎板倉城といった前線拠点への支援が難しくなり、戦況は一変する可能性を秘めていた。そういった意味で波多岐庄の戦いが天文18年初頭における景虎・政景の抗争のクライマックスとなったことは地政学的にも首肯できるといえよう。

4>“春の和睦”
先述の天文18年5月宇佐美定満書状(*18)、10月金子尚綱書状(*15)などより天分18年「春」=1~3月に和睦があったことが確実であり、上記で見たように2月末までは抗争が続いていたから、“春の和睦”は天文18年3月のことであったと推定できる。

その契機としては、魚沼郡、波多岐庄での敗戦はもちろんあったと思われる。さらに天文18年2月に長尾景虎書状で黒田秀忠の死亡が伝えられており、政景としても重要な協力者である秀忠が制圧されていしまったことは大きな痛手であったと考えらえる。政景としても単独で越後守護代である晴景・景虎勢力に対抗できるとは思っていなかったであろう。景虎としても家督相続後に無用な混乱は避けたいだろうから、和睦で済むなら拒否する理由はなかっただろう。

条件としては、天文18年5月宇佐美定満書状(*18)にあるように政景弟の出府があり、10月金子尚綱書状(*15)には「所帯方以下互ニ被申定」とあり土地の領有権についても一定の指針が定められたようである。天文18年4月長尾景虎書状(*25)では平子氏へ宇賀地の領有が認められており、このような“春の和睦”を受けた論功行賞の一環と見ることができる。

5>関係の悪化と“秋の和睦”
“春の和睦”は講和条件が履行されなかったことが5月宇佐美定満書状(*18)からわかっており、さらには同月までには定満の拠点へ放火を行うなど明らかな敵対行動に及んでいた。政景としては“春の和睦”は秀忠の死亡による劣勢を受けての一時的な方便であり、秀忠のような反景虎勢力結集し抵抗を続けるつもりであったと考えられる。家督相続後の間もない景虎が広い越後に存在する多数の独立的な領主たちをまとめ上げるには時間がかかるという見込みもあったであろう。

しかし、実際には天文18年7月大熊朝秀等三名連署状 (*27)において「上田御行」=上田庄攻めの決定が伝えられ、同月長尾景虎書状(*28)においても「落着之義、兎角延引」を理由に政景が攻めることが伝えられている。これらの以後は政景の従属を示す10月金子尚綱書状(*15)まで抗争の経過を示す文書はないことから、景虎の全面攻撃を目前にして自身の不利を悟り“秋の和睦”=事実上の降伏に至ったと推測できる。“春の和睦”では弟の出府だった条件が、“秋の和睦”では政景自身の出府がなされていることを見ても和睦における力関係が景虎有利に傾いたことがわかる。

家督相続後まもない景虎が国内の反抗分子を抑えて政景攻撃に専念できた理由は何かあるのだろうか。私は天文18年における山内上杉憲政(当時は憲当)の関東出陣要請が関係していると考えている。天文18年6月本庄実乃書状(*29)において「関東之屋形様御音信」があり、翌7月本庄実乃書状(*19)で「関東出陣」が決定され諸将へ指示がなされた様子が確認できる。その直後、景虎は目的を関東出陣から上田庄の長尾政景攻めへと切り替え、“秋の和睦”へとつなげたのである。ちなみにこれら関東出陣計画が天文18年である点は、先述のように本庄実乃書状(*19)が天文18年の文書であることが確実であるから間違いない。

同年5月の時点で政景は宇佐美氏拠点へ放火するなど反抗姿勢を明らかにしていたから、実際には政景の拠点上田庄を通過する必要がある関東出陣は難しかっただろう。その中で景虎が関東出陣を宣言した理由は、対政景政策において関東管領山内上杉氏の威光を利用するためだったのではないか。家督相続後の若い景虎に従う者は多くなかったかもしれないが、当時小田原北条氏に圧迫され苦境に立っていたとはいえ関東管領山内上杉氏の権威を健在であり、それを大義名分として景虎は諸将へ出陣の命令を下したのではないか。つまり、これにより政景も大人しく関東出陣へ加わればそれでよし、反抗すれば関東出陣の進路を阻む政景は景虎だけではなく関東管領の敵となる。日和見の諸将もこれだけの大義名分の上で景虎か政景かの選択を迫られれば、景虎の元に参陣し政景攻撃に参加する他なかったであろう。

景虎は上記書状(*28)で上田庄への出陣を8月1日としたが、軍事衝突を示す文書はなく、同年10月金子氏書状において“春の和睦”を根拠に所領問題が論じられていることを見ても、大きな衝突はなく政景は“秋の和睦”=事実上の従属に応じたと推測される。政景としても関東管領を奉じた景虎が越後の諸将を纏めた上で攻めてくれば勝ち目のないことは承知していたのであろう。そして、やはり景虎の目的は政景の制圧だったと思われ、同年中の関東出陣は立ち消えとなる。結局関東出陣の実現は天文21年を待つことになる。

これ以降政景は、景虎権力へ取り込まれ弘治期以降重臣としての役割を果たしていくこととなる。その背景に“秋の和睦”を契機とした景虎の姉仙洞院との婚姻があったことは前回検討した(*30)。


ここまで、政景の乱に関する再検討を行った。その後重臣として活躍する政景との抗争は、景虎の治世のいわば出発点でもあり、より詳細な検討が必要であろう。今後も継続的に関連文書等の検討を行っていきたい。


*2)『上越市史』別編1、3号
*3)前嶋敏氏 「景虎の権力形成と晴景」(『上杉謙信』高志書院)
*5)『上越市史』別編1、5号
*6)同上、11号
*7)同上、237号
*8)同上、36号
*9)広井造氏「謙信と家臣団」(『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院)
*11)『上越市史』別編1、151号
*12)同上、222号
*13)同上、11号
*14)同上、115号
*15) 同上、21号
*16)鈴木正人編『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
*17)黒田基樹氏 「戦国期外様国衆論」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*18)同上、51号
*19)同上、20号
*20)同上、49号
*21)同上、40号
*22)同上、47号
*23)同上、56号
*24)同上、48号
*25)同上、14号
*27)同上、53号
*28)同上、54号
*29)同上、19号

仙洞院の婚姻時期

2025-01-28 19:51:57 | 長尾氏
仙洞院は長尾為景の娘のひとりであり、天文後期に上田長尾政景に嫁ぎ上杉景勝の母となったことで有名である。しかし、その婚姻時期について確実な史料はない。これまで私は天文6年頃を想定してきたが、再度検討してみたところ天文18年末から天文19年のことであったと考え直すに至った。その理由としては、天文18年以前の婚姻の根拠となっていた下掲[史料1]の解釈が誤っていたと考えられるからである。今回は、[史料1]の解釈と仙洞院の婚姻時期について再検討したい。

1>天文18年6月本庄実乃書状「御新造」の正体
[史料1]『上越市史』、別編1、18号
於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候、抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候、尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候、被懸御目候間、寄存処、其まゝ申宣候、金沢方兎角被申候付、無曲之由彼方へも申候キ、まことにすいさん至極ニ候へ共、無御甚心まゝ申候、具儀者小林へ申候、相替儀候者可申入候、恐々謹言
    六月廿日         庄新左衛門尉実乃
   平孫 参御報

仙洞院の婚姻時期を考える上で、これまで私は[史料1]「たとへ御新造様之近御身るいにて候とも」を参考にしてきた。つまりこれを「上田長尾政景の妻は御親類であるが」と読み、長尾景虎の御親類=仙洞院が既に政景の元へ嫁いでいたと思っていた。当該文書は天文18年6月のものであるから婚姻もそれ以前と思い、景虎主導ではなく長尾為景・晴景期における政策と考えていた。具体的には天文6年の長尾為景と上田長尾房長の講和を契機としたと推定した。しかし、後述のように[史料1]を改めてよく読むと「御親類」は仙洞院を示しているわけではなく、この文書は政景と仙洞院の婚姻とは無関係であったことがわかる。よって、上記の推論も成立しないことを意味する。私の以前の検討における誤謬を訂正したい。

[史料1]の一文をよく読んでいく。同文書は長尾景虎と上田長尾政景の対立が深まっていた時期であり、特に政景方の被官が景虎方宇佐美定満の拠点を放火するなどの攻撃を行ったことが問題となっていた。[史料1]はそのような状況において、景虎方の中枢に位置する本庄実乃が定満拠点の近隣領主平子氏へ宛てた文書である。

「於宇駿要害ニ火付之事、被仰越候、以前宇駿へ被差越候御書中披見御申候間、無曲存候」
→宇佐美駿河守(定満)の拠点に放火があったことについて伝えられた。以前、(平子氏が)宇佐美へ送った書中を読んだが、納得できない。

「抑実儀ニ候ハゝ、たとへ御新造様之近御身るいにて候とも、一日も味方中之要害・たて火付候ハゝ、可為御方之御沙汰候」
→事実であれば、(上田長尾氏が)たとえ妻の近い御親類であろうとも、一日でも味方の拠点が放火されたのであれば、そちら(平子氏)も対応すべきである。

「尤以其身無過候者、宇駿之縄付同前ニ当地へ可被差越候、於此方景虎可被其刷及候故、友照向後ニおゐても過めいはくニ御座候由、其御刷可然候」
→もっともその身柄に誤りがなければ、宇佐美の罪人と同じようにこちらへ引き渡すべきである。こちらでは景虎がその裁定を行うので、友照向後においても明白にあるよう、その裁定はあるべきこと。

上記のように、[史料1]は宇佐美拠点放火事件に関する対応を本庄実乃が平子氏へ指示する文書であることがわかる。平子氏は宇佐美氏の近隣領主として放火事件の鎮圧に動いたと見られ、「宇駿之縄付同前」からはこの時、定満と平子氏はそれぞれ放火の犯人を確保していたと見られる。定満は犯人を景虎へ引き渡したが、平子氏はその対応に迷いがあったのであろう。そのために本庄実乃は「御新造様之近御身るいにて候とも」と、平子孫太郎の妻が上田長尾氏の近親だとしても景虎に味方するように釘を刺したと考えられる。このように文脈からは、「御新造」は平子孫太郎の妻であり、上田長尾氏の一族であったと考えられる。

同年7月本庄実乃書状(*1)では「宇駿於用害火付候義、先書御目被下候故、屈伏申宣候処、則御成敗候由被仰越候、可御心安候」、平子孫太郎は放火の犯人を「成敗」したとあるから、平子孫太郎は景虎方の指示に従ったことがわかる。

2>仙洞院の婚姻時期
このように[史料1]は仙洞院の婚姻時期を示す史料とはいえないことがわかった。しかし、他に仙洞院の婚姻時期を示す文書はない。実際のところは、当時の状況から推定する他ないと考えられる。

では、仙洞院の婚姻はいつだったのだろうか。仙洞院の所生は、上杉景虎妻、上条義春妻、上杉景勝が挙げられる。米沢藩に伝わるところでは、景勝は弘治元年出生、上杉景虎妻が天文20年出生(*2)とされる。天文6年婚姻とすると婚姻から時差があり、天文末期頃の婚姻とすれば自然である。景虎に敵対していた上田長尾政景が天文末期を転換点として景虎の重臣として活動していることも、仙洞院との婚姻を契機としたものと考えてよいだろう。『上杉御年譜』、『平姓長尾氏系図』に伝わる没年、享年から逆算すると、大永4年生まれとされる。これに従えば天文20年に仙洞院は28歳となり、婚姻出生において高齢であるという印象は拭えない。以前の私は年齢的な問題が天文期の早い時期の婚姻を支持していると考えてしまっていた。この点については所伝の正確性を踏まえ、より検討する必要があろう。ちなみに、『羽前米沢上杉家譜』によれば長尾政景は大永6年生まれであり、天文20年には26歳となる。年齢に誤差はあったとしても、仙洞院と婚姻を結ぶ前に前妻がいた可能性は十分考えられる。上杉景勝の兄に「義景」がいたとする所伝もあるが、例えば前妻との間に子供がいた可能性も考慮するべきではなかろうか。

ここまで改めて仙洞院について検討したが、以上のように当時の状況から考えると天文後期における長尾景虎と上田長尾政景の講和を契機にしたもの推測される。景虎と政景の講和は通説において天文20年とされるが、私は天文18年10月までになされたと考えており、仙洞院の婚姻も同年末から翌年頃に行われたと考えられよう。そして、天文20年に上杉景虎妻を出産したと推測できる。景虎と政景の対立については次回、詳しく検討する。



*1)『上越市史』別編1、20号
*2)『外姻略譜』



上田長尾房長の乱に関する検討

2024-08-24 16:55:06 | 長尾氏
長尾房長は永正期から天文期にかけて活動した上田長尾氏の人物である。越後守護代長尾為景とは当初良好な関係を築いていたが、天文の乱において上条定兼、中条藤資らと共に反旗を翻す。天文期における房長と為景の抗争については多数の文書が残る一方で、年次推定など細かな検討は進んでおらずその全貌は掴みづらい印象がある。今回、天文の乱に端を発した長尾為景と上田長尾房長の抗争を主眼におき、文書群をもとにその経過について検討していきたい。一連の抗争は後年の長尾政景の乱と対比し、長尾房長の乱と呼んでおきたい。

1>天文期以前の両者の関係
永正6年7月に山内上杉可諄が越後へ進軍し、長尾為景らを越中へ敗走させる。この抗争において、房長の叔父で先代にあたる上田長尾顕吉は山内上杉氏方として見える(*1)。しかし、為景らの反攻により可諄は永正7年6月に戦死する。この際に上田長尾氏が寝返り退路を断ったとの俗説があるが、それを示す史料はなく以前検討したように前後の状況からも史実とは考えられない(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。永正7年11月に顕吉が後継者房長を越後府中へ出仕させており、同時期に為景へ帰属したことが推測される(*2) 。これ以降は越後国内の情勢は安定しており、顕吉から代替わりした房長も為景方として活動している。

2>天文の乱における抗争
比較的安定した為景の治世のなかで、房長が反抗するに至るのは上条上杉定兼(定憲)が挙兵した天文の乱においてである。当乱において、両者の交戦は天文2年9月より所見される(*3)。同年10月居多神社宛長尾為景書状(*4)に「當敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類速退治」とあることから、房長が揚北衆中条氏らと共に定兼へ与しその旗幟を鮮明としたことは明らかである。この房長の行動は国内の所領や利権の都合もあるだろうが、房長の母が上条氏出身と考えられるためその血縁関係が定兼との共闘に関係した可能性がある(上田長尾氏の系譜1 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。

天文2年9月以降、天文3年中においても為景と定兼の抗争は続き史料上は頸城郡を中心にその軍事的衝突が認められる(*5)。天文4年5月になり定兼方の勢力が結集し、妻有衆、薮神衆や宇佐美氏、大熊氏と共に上田長尾氏の軍勢が定兼の本拠鵜川庄上条へ参陣したこと同月長尾為景書状(*6)からわかる。後述するが同年7月坂戸城近辺で生じた五十澤口の戦いについて房長は「注進到来」(*7)として把握しているから、房長自身が坂戸城を留守にして上条へ出陣していたと考えられる。敵が上条に集結した事態に際し、為景は下倉城福王寺彦八郎、波多岐庄下平氏に「河東」への攻撃を命じている(*6)。「河東」とは信濃川右岸、現在の十日町市の信濃川以東の地域を指すと推測されている(*9)。これらから推測される点は、上田長尾方の勢力圏が自身の拠点上田庄と妻有、薮神で構成されていたということである。為景方の前線は福王寺氏の下倉城、下平氏らの十日町であり、地図に当てはめれば両者の前線は噛み合うこととなる。山内上杉氏の影響下にあった妻有、薮神と上田長尾氏の関係は天文期まで続いたといえる。

さて、この後為景は同年6月に治罰の綸旨を獲得し(*10)し、政治的な対応もこなした上で揚北衆も従えた上条定兼軍の進行を迎え撃つ準備に追われていたと考えられる。その中で上述の為景方と房長方の境界も緊迫度を増す。

天文4年7月17日までには「五十澤口」にて両勢力が衝突し古藤清雲軒ら房長方が勝利し為景方下平次郎太郎が戦死している(*11)。五十澤という地は坂戸城の麓にありこの時は為景方の下平氏らが攻勢に出たところを房長方の古藤氏らが迎撃したという構図が想定される。そして、この勝利を受けて同月房長は穴澤新右兵衛尉に下倉城を攻めることを命じている(*12)。同書状には「上条之者共令同心」とあるが、これは上条上杉氏ではなく穴澤氏の近隣の広瀬上条の地侍=「広瀬契約中」を指すと思われ、房長が薮神の在地勢力を味方につけていたことがわかる。

同年8月には上条定兼が平子弥三郎を味方に誘い、房長、中条藤資ら揚北衆からも同様の内容の書状が送っている(*13)。また、房長は同年9月22日までに古志郡蔵王堂周辺を攻撃したことが同日長尾張恕書状(*14)からわかる。上条定兼や揚北衆と連携しながら、中郡の為景方の勢力へ圧力をかけていたことが想定される。また、同書状で為景は福王寺氏へ敵は出陣中で留守となっているだろうから「妻有・河東」を焼くように、と命じている。同書状は従来天文5年とされてきたが、後述のように天文5年9月では房長は下倉城周辺において劣勢となっており中郡蔵王堂まで進軍することは困難であったと思われ、天文4年9月のものと考えられる。

しかし、同年9月に揚北衆の首魁中条藤資が病気となりそのまま死去し、定兼の軍勢は維持が困難となったと思われる (中条藤資の動向3 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。房長も定兼方の軍事力が低下したことを見て、自領へ帰還したことが推測される。翌年4月に定兼が死去したことが『越後過去名簿』に記載されていることから定兼は戦没した可能性が高く、これを以て天文の乱は為景の勝利で終結したと考えられる。

ここまで、房長は上条定兼らと共に為景に反抗し、上田庄から出陣し上条や蔵王堂など上郡から中郡にかけて軍事行動を展開しながらも、内部事情も絡んで上条方が不利となったために上田庄への退陣を余儀なくされたと考えられる。また、五十澤の戦いなど房長の留守中における上田庄を巡る戦闘も確認できた。

3>天文5、6年における抗争
上条定兼と長尾為景の抗争=天文の乱が終結した後も、房長と為景の対立は継続する。天文5、6年における両者の抗争を示す史料は多数残るがまずそれら文書の年次比定が必要であり、ポイントは署名となる。入道以前の「為景」としての終見は天文5年3月長尾信濃守宛柳原資定書状(*15)である。従来天文5年8月に為景から晴景に家督が相続され同時に入道したと考えられてきたが、前嶋敏氏の研究(*16)などにより正しくは天文9年8月であったことが指摘され必ずしも入道が天文5年8月というわけではなくなったが、私は入道の契機は天文5年4月頃上条定兼の死去にあったと以前に推測した(長尾為景から晴景への家督相続について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。そうであれば「為景」なら天文5年4月以前、「入道絞竹庵張恕」であれば天文5年月以降となる。このような現状を把握した上で当抗争に関する文書群をみていくと概ね矛盾なく成立するため、以下で具体的に整理していく。

まず、通説を確認する。『増補改訂版上杉氏年表』(*9)では、天文5年8月に福王寺氏、山吉氏らが上田長尾氏と戦い、9月には上田長尾氏が古志蔵王堂まで進攻したとする。翌年1月には大沢を上田長尾氏が攻撃したため、翌月福王寺氏らが広瀬で合戦に及んでいる。広瀬合戦では前年12月には為景方の調略により内応した江口氏も活躍した。5月には上田長尾氏が下倉城を包囲したが為景は中郡の諸将によって兵糧運搬を試みる。8月になっても状況は好転しなかったが、為景が娘仙洞院を上田長尾政景に嫁がせることで講和したとする。以上が通説であるが、房長有利の情勢で講和に至ったという印象である。これは為景の入道を天文5年8月以降とした結果であり、天文5年4月以降とした上で抗争の経過を再構成してみたい。つまり天文6年4月~8月とされていた文書が天文5年4~8月であった可能性があり、実際には上記通説とは異なる経過であったと思われる。

[史料1]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動、重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候爰元も造意等申追候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合、其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言、
    五月七日              張恕
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

[史料2]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候之間、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日              張恕
     福王寺彦八郎殿

[史料3]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦、得勝利凶徒数多討捕段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言、
    九月三日              張恕
     福王寺彦八郎殿


まず、[史料1][史料2]に見える天文6年5月とされる房長による下倉城包囲を天文5年5月と推測する。文中からは兵糧も逼迫するほど房長方の攻勢は激しく、この後間もなく講和するような戦況だろうか。天文5年5月であれば天文の乱直後でもあり、房長の攻勢が活発である一方、為景が頸城郡の鎮静化に追われ下倉城への援助が行き届かない状況も理解できる。年不詳5月12日福王寺彦八郎宛長尾張恕書状(*17)には「兵糧以前申付候」とあることから[史料2]で兵糧搬入計画を伝えた直後と想定される。同内容の5月12日下倉山在城衆宛長尾張恕書状(*18)も同日に比定される。8月4日長尾張如書状(*16)では以前「当口無手透、其口行延来計」と自身の出陣が叶わないことを、遅くなっているが下郡諸将へ援軍を要請していること、下郡諸将が動かない場合は黒田秀忠を派遣することを述べている。すなわち、これらの文書は天文5年5月から8月にかけての文書であったと推定される。

上述の5月12日張恕書状(*17、18)では「栃尾事連々ニ申越子細」とあり、年不詳7月長尾房長書状(*19)では栃尾城を古藤清雲軒が守備していることが明らかであるから、天文5年5月頃に房長は下倉城に圧力をかけながらさらには栃尾城を攻略していたことがわかる。上記張恕書状(*17、18)からは為景が古志上杉氏と相談して栃尾地域の奪還を目指していた様子がわかる。

続いて、 [史料3]をみると山吉政久らが下倉城へ派遣され同城を攻める房長方と交戦し撃退している様子が見える。三条の山吉氏らこそが[史料2]で伝えられていた中郡からの援軍ではないか。つまり、[史料1][史料2]を受けて為景が山吉氏ら援軍を派遣し[史料3]にある下倉城救援を行ったと考えられ、同文書は天文5年9月と推測できる。従来、この頃とされてきた房長の蔵王堂攻撃はこのような下倉城での敗戦を考えれば難しいと考えられ、先述のように天文4年9月のことと想定される。

天文5年11月には為景から福王寺氏へ「於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候」、「上田庄において彼者共相當之地可宛行候」(*20)と述べられ、為景方から房長の味方へ調略が仕掛けられていたことがわかる。同年12月21日長尾張恕書状(*21)にて江口藤五郎が「今度於其口露色被復先忠」と調略に応じ下倉城の防衛を為景から命じられており、天文6年1月13日長尾張恕書状(*22)には発智大学助が味方として見えるから、為景方の反攻に伴い薮神の領主の中に為景へ帰属する者がいたことが明らかである。

天文6年1月18日には下薮神の大沢城が房長方により攻略され、大沢伊豆守が戦死する(*23)。『越後入広瀬村編年史』は大沢氏も江口氏と同様に為景の調略に応じて房長方から為景方へ転じた領主と推測している。つまり、この房長の攻撃は相次いで離反する領主らへの報復であり、薮神での影響力低下を打開するためのものだったと考えられる。これに対し為景方の福王寺氏、江口氏らが反撃し、2月21日広瀬の戦いにおいて房長方を破っている(*24)。

これまでの年次推定を踏まえると、これ以降は抗争に関する所見はない。薮神における為景方の勝利が決め手となり、まもなく為景と房長の間で講和が結ばれたと見てよいだろう。史料はないがその後も状況から栃尾を始めとする古志郡における房長の占領地も奪還もしくは返還されたと推測される。

まとめると、天文の乱終結後も為景と房長の抗争は継続し、天文5年5月から7月にかけて房長が活発な軍事行動を見せ栃尾城を落とし下倉城も包囲するが、9月に山吉氏らの援軍が派遣され為景方が反撃を見せ、年末頃には江口氏など薮神の領主も味方につけるなど為景方が有利な状況へと展開していった。天文6年2月の広瀬の戦いにおいて挽回を目指した房長と為景方の決戦となり、それに為景方が勝利したことで講和へと至ったと考えられる。

史料が不足しているため、講和条件については不明である。

為景と房長の抗争は古志郡や下倉など薮神を中心とし、上田庄や妻有庄へは依然として房長の影響力が色濃く残ったと思われる。為景は天文の乱直後で国内の鎮静化が最優先であったと思われ、この講和は房長を完全に屈服させたわけではなかった。よって、為景の優勢を以て講和に至ったと考えられるが、上田長尾氏の勢力は維持され、それがのちの長尾景虎と上田長尾政景の抗争へとつながっていくと考えられる。



*1)『新潟県史』資料編4、1630号
*3)『新潟県史』資料編4、1556~1558号
*4)『越佐史料』三巻、794頁
*5)同上、 796~799頁
*6)同上、807頁
*7)同上、813頁
*9)『増補改訂版上杉年表』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*10)『越佐史料』三巻、808・809頁
*11)同上、813頁
*12)同上、814頁
*13)同上、818~820頁
*14)同上、824頁
*15)同上、828頁
*16)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』第808号)
*17)同上、806頁
*18)同上、806頁
*19)同上、816頁
*20)同上、825頁
*21)『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
*22)『越佐史料』三巻、800頁
*23)同上、801頁
*24)同上、803~804頁
*25)『上越市史』別編1、18号

※24/8/30 追記  25/1/18リンクを追加
年不詳7月22日長尾房長書状(越佐史料3-816)に見える古藤清雲軒の「新山」攻略を天文5年7月に比定していたが、その後検討した結果天文4年7月であるという考えに至った。そのため、天文5年7月の「新山」攻略についての記述を削除し栃尾城を巡る状況についての記述を一部変更した。「新山」攻略の詳細については、下記の[史料7]で提示している。

※25/1/28 追記
上田長尾政景と長尾為景の娘仙洞院の婚姻を天文6年の講和を契機としたものと推測していたが、その後検討した結果天文18年10月から翌年にかけてのことであったという考えに至った。そのため、仙洞院に関する記述を削除した。