鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

永正10年上杉定実の挙兵とそれに前後する抗争の実態について3

2022-04-30 19:41:25 | 長尾氏
前回までに永正10年の乱について検討し、それが長尾為景と八条上杉氏らの抗争に上杉定実の動向が絡み合う複雑な構図を取っていたことを示した。

今回は、この反乱において八条上杉氏ら反抗勢力を支援したと推測される山内上杉憲房について注目していく。


1>憲房の関与を示す史料
まず、永正10年の乱において憲房が関与していた事実を示したい。

[史料1]
     憲長
永正十年十一月十日
  憲房
  色部弥三郎殿

[史料1]名字状は、反乱の最中である永正10年11月に憲房が揚北衆色部昌長の子弥三郎に対し一字を与えたものである。

色部氏は永正4・5年の為景・定実方と揚北衆の抗争や永正6・7年の山内上杉顕定(可諄)の越後侵攻において、一貫して反為景つまり山内上杉氏方に味方しており、永正10年時点でもその関係が続いていたと見られる。

永正10年11月といえば抗争の最中であり、山内上杉憲房の介入が示唆される。


[史料2]『越佐史料』三巻、619頁
大澤右京之御父子、去年於上田一戦之時討死、然処、名代可相続骨肉無之歟、因茲為近所故、孫子亀寿致彼遺跡、忠儀不断絶様ニと申候哉、殊彼骨肉親類中ニ無拠遺跡可令相続人体罷出申候者、其時者不及異義可相渡段、以書付申間、任其義候、彼後家・親類以下に無非法之義、順路ニ可成刷旨、能々可加意見候、謹言
  七月九日    憲房
   発智山城入道殿

[史料2]に所見される発智山城入道は、発智氏関連文書や系図類から長享2年に上杉定昌に殉死した発智山城守入道景儀を父に持つ人物で永正初期に活動が見られる発智六郎右衛門尉の後身と推測される。発智六郎右衛門尉は永正7年4月に確実な所見があり、[史料2]はそれ以降の発給であることがわかっている。

この「去年於上田一戦」がどの合戦を指すのかは確実ではないが、『広神村史』や『越佐史料』は永正11年1月六日町の戦いと推測し[史料2]の発給年を永正12年7月に比定している。

『越後以来穴澤先祖留書』にも、「国中取合」となり「八条殿石川飯沼」と上田長尾氏らが六日町で合戦に及んだことが記されており、この乱が「上田御陣」や「六日市合戦」と呼ばれたと伝えられている。[史料2]の「上田一戦」が永正10年の乱に伴う六日町合戦であった可能性は高い。

つまり[史料2]により、永正10年の乱に山内上杉憲房が指揮下の軍勢を参加させていたことが推測されるのである。

ちなみに、[史料2]「上田一戦」を山内上杉顕定が戦死した永正7年6月長森原合戦に比定する向きもあるが、『越佐史料』に載る長森原合戦関連の一次史料や軍記物には「上田庄」という文言は全く見られない。片桐昭彦氏(*1)によって山内上杉が作成主体と指摘される『上杉系図大概』にも可諄は「越州長森原合戦討死」とある。つまり、長森原合戦はあくまで「長森原」と認識され、「上田一戦」などと呼称されることはなかったと考えられる。

23/12/8 追記


また、『越後以来穴澤先祖留書』には、「此御陣ハ前屋形ノ衆ト当屋形ノ衆手ヲ合セ関東トモ合力アリ而、長尾ノ御一類根切ニナス可キ由ニ而御合戦アリ」との記載もある。「前屋形」=上杉房能、「当屋形」=上杉定実、「関東」=山内上杉憲房であるから、山内上杉氏の援助のもとに旧守護勢力と定実が協力して長尾為景に反抗したという意味になる。つまり、ここまで検討してきた永正10年の乱の構図が、穴澤氏という当事者の記録の中にも記されているのである。


以上、様々な史料において山内上杉憲房の関与が確認できることを示した。


2>憲房による軍事介入の背景
ここからは、越後への介入を図った山内上杉憲房の事情について見ていきたい。

まず、山内上杉憲房が義兄弟顕実との家督争いに勝利して家督と関東管領を継承した時期が永正9年6月である。

10年の乱の発生が永正10年7月であるから、憲房の権力掌握と関連している可能性は濃厚であろう。

永正7年8月上杉憲房書状(*2)において長尾為景の追討の支援を幕府へ要請するなど憲房の為景に対する敵愾心は明らかであり、以前から協力関係にある八条上杉氏ら旧守護勢力と結んで為景に対抗したと考えられよう。旧守護勢力としても、為景に対抗できる軍事力や政治的大義を得るためにも、憲房の後ろ盾は必須であったであったといえよう。

しかし、その背景は単に恨みや復讐といった感情的なものではない。


憲房の政治的立場について、森田真一氏(*3)は白井城を拠点とした上杉定昌の権力基盤を継承したと推測している。憲房が永正期に魚沼郡の所領問題について介入している点や、永正7年越後侵攻において憲房が帰城した先が白井城である点などをその根拠に挙げている。

上杉定昌は越後守護上杉房定の嫡子であり、上野国白井城を拠点に上野国北部及び越後国魚沼郡にかけて自身の権力を形成した存在であったが、長享2年に詳細不明の自死を遂げる。

六日町合戦において八条上杉氏の他、飯沼氏と石川氏が反乱方の大将として名前が挙げられているわけだが、この二氏の共通点として守護上杉氏の中でも特に上杉定昌の近臣であったという点がある。[史料2]で見た発智氏も定昌の近臣である。このように、家臣団からも森田氏の推測は肯定される。

つまり、定昌権力を継承した憲房は上野国北部及び越後国魚沼郡周辺に権力基盤持っており、永正7年の越後侵攻失敗によりその維持が危ぶまれる状況にあったのである。


これを踏まえると憲房が軍事介入に及んだ理由は、上野北部から越後魚沼郡にかけての自身の権力基盤を守るという実益の絡んだ現実的なものであったことがわかる。

10年の乱において六日町の戦いなど上田庄周辺において抗争が展開された理由も、この乱がそれらの権力基盤を巡る争いを含んでいたと考えれば納得がいく。


さらに、反抗勢力を上杉旧臣と表現してきたが、特に上杉定昌及び憲房権力に含まれた家臣団と言い換えることができる。彼らも主人である定昌や憲房と同様にその経済的基盤は上野国北部や魚沼郡周辺にあったのではないか。

上杉旧臣の中には齋藤氏や千坂氏など為景に味方した人物もいるが、彼らは定昌・憲房権力とは全く別の政治権力に属する存在であった。飯沼氏や石川氏と違い越後の権力中枢に近く、守護上杉氏が没落しても長尾氏に従うことで自らの権益を維持できると踏んだのであろう。

守護上杉氏旧臣が自身の帰属先に長尾為景を選ぶか、山内上杉氏を選ぶか、または上杉定実を選ぶかは、武将個人の好みや思想ではなく政治体制や権力基盤にあらかじめ規定されていたと言うことができよう。


以上ように永正10年の乱に関する多くの点に、憲房とその家臣団、さらには権力基盤を巡る争いが透けて見えるのである。

永正10年の乱が為景の勝利に終わり、憲房としても古河公方や扇谷上杉氏、伊勢氏といった関東の勢力への対応が急務となった結果、越後への介入を断念することとなったと見られる。



さて永正10年の乱についてまとめると、長尾為景と越後の権力中枢から排除された八条上杉氏、越後国内の権益を維持したい山内上杉憲房の対立が顕在化したものであり、そこに為景の傀儡となることを嫌った定実の離反が重なったものと見ることができる。


*1)片桐昭彦氏「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*2)『越佐史料』三巻、561頁
*3)森田真一氏『上杉顕定』(戒光祥出版)


永正10年上杉定実の挙兵とそれに前後する抗争の実態について2

2022-04-16 16:31:02 | 長尾氏
前回は永正10年前後に生じた上杉定実の挙兵とその前後の抗争について概観し、定実の反抗が長尾為景と八条上杉氏ら旧守護上杉氏勢力の対立に乗じたものであり、その背景には山内上杉憲房の存在があった可能性を提示した。今回は、特に越後国内の抗争の動向について、さらに具体的に見ていく。

国内情勢は為景、定実、旧守護上杉勢力の動向によって大きく三つフェーズに分けられる。それぞれの時期における対立構図を明確にしながら、その推移を追っていく。


1>長尾為景・上杉定実vs旧守護勢力
事態が動いたのは永正10年8月5日である。「井上、海野、島津、栗田其外信州衆相談自関口可乱入」が為景へと伝えられたという(*1)。

信濃勢力が為景に敵対し軍事行動に及んでいることから、同年に生じていた親為景派の高梨氏を中心とした抗争も、この年の越後情勢と相互に関連していると推測される。

それに対し、為景は中条藤資、黒川盛実へ上田庄に反乱軍が攻め込むことを想定しそれに対する出陣を要請している(*2)。さらに、同様の内容を守護年寄奉書の発給者として名が見える斉藤昌信、千坂景長が上田長尾房長へ伝えている。

※追記 23/6/20
前嶋敏氏「越後永正の内乱と信濃」(『長尾為景』戒光祥出版)、阿部洋輔氏「長尾為景の花押と編年」(同)より、永正10年と比定していた8月5日斎藤昌信・千坂景長連署状及び8月8日桃渓庵宗弘書状は永正6年8月と指摘されている。上記の信濃勢力の軍事行動は永正10年ではなく、永正6年のことであったと推測される。永正10年の乱と信濃勢力の関連は明らかではない。訂正したい。


9月下旬には宇佐美房忠による白川庄での軍事行動も確認され、[史料1]はその際の書状である。

[史料1]『新潟県史』資料編4、1709号
一昨日者雨故、其地迄御取除、無是非候、然者中条殿被仰合、七松要害際急度御着陣奉待候、今日者向白川庄成働、今明日中ニ安田但馬守を可仕居候、早々有御相談、七松際へ御動奉待候、恐々謹言、
「永正十」
  九月廿九日              宇佐美弥七郎
                         房忠
黒川弾正左衛門尉殿 御宿所

永正10年と記す押紙は当時の物とされる。ここから、房忠が白川庄に進軍し安田但馬守を攻めていること、さらに黒川盛実、中条藤資も宇佐美氏と連携を取って軍事行動に及んでいることがわかる。また、これとは別に宇佐美房忠書状封紙(*3)も残っており、この頃のものと見られる。

この時の大見安田氏は反為景派安田但馬守と親為景派安田実秀の両派に分裂しており、これについては以前に検討している。
過去記事

また、[史料1]封紙には「自新発田」とあり、房忠が新発田に着陣していたことがわかる。

新発田は当時新発田能敦の拠点であり、能敦は10月17日書状(*4)で中条藤資と進退を共にすることを望んでいるから、能敦も親為景派とみて良いだろう。


つまりこの時点において、反為景派安田但馬守を攻め、親為景派である能敦と同陣していた宇佐美房忠も親為景派と見ることができる。

房忠はこの後春日山城に籠城した上杉定実に従い、その結果為景に滅ぼされる人物である。永正10年10月下旬には交戦が確認される房忠と為景が、9月時点では同陣営にいることになる。

ここから推測されるのは、永正10年9月時点ではまだ定実と為景は決裂していなかったということである。8月時点で両者が同陣営にあり八条上杉氏らと対立していたことは前回確認しており、それは9月においても維持されていたと考えられる。

よって、宇佐美氏を含む定実勢力は、為景と旧守護勢力の抗争が開始されたのちも為景と決裂には至らず、為景の意向によって白川庄などでの軍事活動に及んでいたとわかる。


さらに、場所が白川庄というのもポイントである。『越後過去名簿』の記載より八条氏の拠点の一つが白川庄にあったことが明らかであり、9月の抗争が為景方による八条上杉氏支配地域の制圧と見ることができる。つまり、為景の敵はやはり八条上杉氏ら旧守護勢力と推測できるのである。


永正10年7月から9月にかけて八条氏等の旧守護勢力と為景が対立し、定実は為景に従っていたという構図が理解されるであろう。

2>長尾為景vs上杉定実
さて、定実と為景決裂は10月23日長尾為景書状(*5)に「去十三日上様春日山御登城申候、則帰府、十九日及進陣、廿二日御刷上様御出城無相違致御供、今日為景堀内江奉移」とあることから、永正10年10月上旬に決定的になったことがわかる。

10月13日に為景が府内を留守にした時を狙い、定実が春日山城に籠城、為景はそれを聞いて府中へ反転し、19日に春日山城へ着陣したという。そして、22日には定実を降した、という。その10月23日の時点で定実は敗北し、為景の拠点「堀内」へ移送されていることがわかる。

翌年上条憲定が「長尾弾正左衛門尉慮外之刷、前代未聞、依之宇佐美弥七郎忠露信候」(*6)と述べているが、これの「慮外之刷」は為景が定実を攻め、降伏させたことを指すだろう。


定実と為景の軍事的対立が10月13日になって突然生じたことは、10月17日新発田能敦書状(*4)に「今時分加様之事出来」、10月23日長尾為景書状(*7)「爰元之儀去十三以不思議之子細、上様春日山へ御登城候」とあることからもわかる。


その後の為景の動向は、22日に定実に従う宇佐美房忠の籠もる頸城郡小野城への進軍を予定し(*8)、28日までには小野城を周辺に着陣したことがわかっている(*9)。


ちなみに、房忠と同じく上杉氏重臣をルーツとする斉藤昌信、千坂景長は大永元年の無碍光宗禁止の掟書(*10)に署名があるから、これ以後も為景政権の中枢を担っていたと思われ、定実には味方せず、為景に味方したことがわかる。


定実と八条氏等旧守護勢力の連携は文書等から読み取ることはできないが、為景と八条氏の抗争が激化し為景自身も出陣したタイミングから見て、両者が共闘を意図していたことは十分に考えられる。

為景の対応が早く数日で鎮圧されために、現在の研究等においても定実の単独行動と見られ、八条上杉氏らとの繋がりが看過されたのではないか。


3>長尾為景vs旧守護勢力
10年の乱は10年10月定実の敗北の後、翌11年1月六日町の戦いにて為景方の中条藤資、上田長尾房長により反乱主体であった八条左衛門尉(*11)、石川氏、飯沼氏らが討捕られ、為景方の勝利に終わる。


[史料2]『新潟県史』資料編3、162号
去年至于上田庄、当国諸牢人乱入処、向彼口御張陣、書夜御加世義、就中、去十六日、於同庄六日市、遂一戦得大利、為始八条左衛門佑殿、石川、飯沼以下千余人被討捕留由示給候、殊其方御手へ七十余人討捕験註文越給候、誠御粉骨無比類、至于末代御忠信不可如之候、併御武略故、成根切段、満足大慶此事候、御同心御家中動、一段感之候、何も進切紙候、被御覧分可頂御届候、旁御出府上、以面拝可申承候、恐々謹言、
    正月十六日         為景
     長尾弥四郎殿

[史料2]はこの合戦の動向が具体的に説明されている貴重な史料である。

旧守護勢力は「当国諸牢人」と表現されており、その多くがこの合戦において討捕られたという。


そして、抵抗を続けていた宇佐美房忠も永正11年5月26日に籠もっていた頸城郡岩手城を落とされ自害する(*12)。これを以て軍事抗争は終息し、10年の乱の終結といえるだろう。



今回は越後国内の動向に注目し、為景と旧守護勢力の抗争と為景と定実の対立が絡み合う様子を概観した。次回は、山内上杉氏がこの抗争にどのように関係していたか見ていきたい。


*1) 『越佐史料』三巻、598頁
*2) 同上、598頁
*3) 『新潟県史』資料編4、1709号
*4) 『越佐史料』三巻、596頁
*5) 『新潟県史』資料編3、157号
*6) 『越佐史料』三巻、609頁
*7) 同上、599頁
*8) 同上、601頁
*9) 同上、600頁
*10) 同上、678頁
*11)[史料2]に記される八条上杉氏「八条左衛門佑」は、同年1月16日築地修理亮入道宛長尾為景書状における「八条左衛門尉」と同一人物である。どちらかが誤記と捉えられる。当ブログでは『越佐史料』に従い八条左衛門尉の表記で統一している。
*12) 『越佐史料』三巻、609頁


永正10年上杉定実の挙兵とそれに前後する抗争の実態について1

2022-04-10 14:03:47 | 長尾氏
越後守護代長尾為景は永正10~11年にかけて越後国内の反乱を鎮圧した後、守護上杉定実を政治の中枢から排除しその支配体制をさらに強固にする。

この反乱は主に上杉定実と長尾為景の対立を中心に語られ、一般に”上杉定実の反乱”といった見方がされがちである。事実、定実は春日山城に籠城しており、二人の軍事的対立は明らかである。しかし過程や経緯から推測すると二人の敵対は一連の抗争の一面にすぎず、根本には永正初期からの八条氏、越後上杉氏に近しい諸領主、さらには山内上杉氏と長尾為景の対立があったと考えられる。

つまり、為景に敵対した主体は八条上杉氏、旧守護上杉氏家臣団とそれを支援する山内上杉氏であり、定実の挙兵は為景を排除するためその対立に便乗したものと考えられる。

従来、為景と定実の対立が注目され、山内上杉氏との関係は見過ごされていたように思われる。実際、山内上杉氏は上杉可諄の戦死後、家督争いなどもあって越後への影響力の低下は確実である。しかし、越後に隣接する巨大勢力であることは疑いなく、その影響力を軽視することはできない。

今回から数回にかけて定実だけではなく、八条上杉氏や山内上杉氏といった視点でこの抗争の実態について検討していきたい。この反乱の呼称であるが”定実の乱”や”八条氏の乱”では余計なバイアスが掛かってしまうため、ここでは便宜的に永正10年及び11年に起きた乱という意味で”永正10年の乱”と呼びたい。


1>永正10年の乱前後の政治的状況
まず、反乱前後における守護上杉定実と守護代長尾為景の権力体制について確認する。

木村康裕氏(*1)は永正10年2月斉藤昌信・千坂景長書状(*2)を守護勢力が守護の意向を受けて発給した守護年寄奉書の終見であるとし、「この年、守護代長尾為景は、守護上杉定実を幽閉するなど、守護勢力を一掃し、守護権力内部の実質的主導権を掌握するに至った。」とする。ここでいう永正10年の乱のことである。

実際、上杉定実個人の発給文書を見ても永正10年3月長尾為景安堵状(*3)に定実の袖判が見られるのを最後に、為景が死去する天文10年12月に至るまで知行宛行や安堵など政治的な文書は一切ない。

またこの乱の後、永正12年閏2月の長尾為景が毛利安田氏に知行を安堵するが(*4)、末尾に「御屋形様御定上、追而御判可申成者也」と述べられ、為景は守護の交代までも企図していたことがわかる。ただ、永正12年12月に幕府が上杉定実に対し京都高倉の地を安堵している(*5)。この高倉の地については文明9年11月に当時の守護上杉房定が幕府から安堵された所であるから(*6)、永正10年の乱後においても幕府からは定実が守護と認められたと考えられる。以後も定実の他に守護は確認されないため、為景の新守護擁立は失敗に終わったようである。

ちなみに、永正期における為景の新守護擁立については上杉房安という人物中心に以前検討している。
以前の記事はこちら


ここまでを総合すれば、永正10年の乱前まで上杉定実は実務の伴う守護であったが、乱後は守護という肩書きだけは維持するもののそこに活動実態はなくなった、といえる。守護の形骸化である。

よって、この乱が守護上杉定実の動向に大きく関わり、結果として長尾為景の権力強化に繋がったことは疑いようがない。

これが永正10年の乱が為景と定実の抗争と見られる一因であり、実際に両者の関係を一変させたことは間違いない。


2>反乱の推移
永正10年の乱において最も早く確認できる対立の記録は永正10年7月である。同年7月24日長尾為景宛島津貞忠書状(*7)に「当国其御国まで、色々不思議成□之由申候、御進退何篇にも御用心簡要候」とある。

当時北信濃の領主高梨澄頼と、没落していた中野氏の残党が村上氏の支援を受けて抗争に及んでおり、同じく北信濃の領主である島津氏が長尾為景へ状況を報告した書状である。内容から、「当国」=信濃とさらには「其御国」=越後までが「色々不思議」=思いがけない状況になっていたことがわかる。

信濃において高梨氏と中野氏残党が抗争すると同時に、この時点で越後国内でも長尾為景と敵対勢力が対立していたと推測される。


この7月の対立は翌8月における諸将の動向からも窺われる。

8月1日上杉定実書状(*8)において、定実は栖吉長尾房景へ「進退雑意申回候哉、無是非候、誠讒人等欲申妨候歟」と伝えている。つまり、定実の「進退」に関わる程の政治的対立が生じていたことがわかる。ここで留意すべき点は、定実は雑説について「讒人」の妨げであると説明しており、為景と定実は同陣営として活動している。

また、同日に中条藤資が為景に対して起請文(*9)を提出し、それに対して同月19日には反対に為景が藤資へ「不可有御等閑旨」について起請文(*10)を発給している。これも越後国内の動揺が原因であろう。


ここまでをまとめると、永正10年7月に長尾為景と何らかの勢力が対立し、上杉定実が対立勢力に与するとの憶測が流れた上で、定実は為景陣営に留まっていた、ということがわかる。為景と定実の政治的対立も顕在化しながらも、それとは別の第三勢力との対立が生じていたということだ。


そしてその第三勢力こそ、永正11年1月六日町の戦いにおいて敵の大将首として名前が挙げられる八条左衛門尉や石川氏、飯沼氏といった旧守護上杉氏家臣とそれを支援する山内上杉氏ではないか。


次回以降引き続き、永正10年の乱の推移を詳しく検討し長尾為景、上杉定実、旧守護勢力という三つの勢力の動向を明らかにし、抗争の実態を見ていきたい。




*1) 木村康裕氏「守護上杉氏発給分文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*2) 『新潟県史』資料編5、2796号
*3) 『新潟県史』資料編4、2253号
*4) 同上、1563号
*5) 『越佐史料』三巻、620頁
*6)同上、215頁
*7)『新潟県史』資料編3、151号
*8)同上、172号
*9) 『越佐史料』三巻、592頁
*10) 同上、593頁