鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上条定憲の政治的立場

2024-04-07 18:32:50 | 越後上杉氏
上条定憲(天文期に定兼と改名、文中定憲で統一する)は享禄・天文の乱で長尾為景と抗争に及ぶなどその存在は越後史においても無視できないものがある。しかし、抗争前における長尾為景政権下での定憲の政治的立場は不明な点が多く、抗争以前に定憲と為景がどのような関係にあったのかはあまり検討されていなかったように思われる。今回はそういった点を中心に考察してみたい。

[史料1]「大般若波羅密多経奥書」
久知・宮浦城□二三年国マキナリケルカ、ヨクコラエテ已後開運云云、久知・羽茂対面、越後上条殿中媒ニテホサシ野トヤランニテ、馬上ニテタイメント申、越国一同ニ久知殿一人ニ御タイメントソ聞エケリ
   大永七天丁亥四月上旬比前代未聞之弓矢也

[史料2]「本願寺証如上人書札案」『石山本願寺日記』
一、       上杉播磨守 惣領
 上杉播磨守殿 進覧‐恐々謹言
二、       山本寺陸奥守殿 上杉殿一家
 山本寺陸奥守殿 床下‐恐々謹言
 本願寺 御同宿中  定種 恐々謹言


[史料1]、[史料2]は大永・天文期における上条定憲の史料である。森田真一氏の研究(*1)に詳しく、それによれば[史料1]において大永7年に佐渡の争乱を調停した「上条殿」は定憲と想定され、[史料2]における「上杉播磨守」は享禄・天文の乱の勃発において定憲が上杉氏惣領を名乗ったものと推測されている。

森田氏は定憲が享禄・天文の乱以前にも政治的影響力を行使できる立場にあったと推測している。さらに、守護定実を差し置いてその政治的求心力を高めていた定憲に越後国内の政治体制における矛盾を指摘している。つまり、大永期越後では上杉定実が守護の座にありながら定憲が影響力を強めていたことが示唆される。

このような体制は、永正後期において守護上杉定実を形骸化した上で長尾為景により事実上のトップとして上杉房安が擁立されていた事例と、類似しているように思える。上杉房安とその政治的背景については以前検討したように(上杉房安を考える - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)、長尾為景は幕府との交渉の都合もあり守護定実を排除できなかったが、実際に文書上に見えるのは房安であったように、為景がの上杉氏の二頭体制を画策していたことが推測される。上杉房安については所見が乏しく確実なことはわからないが、永正11年に定実が没落してから永正後期に活動したと想定されるが、それ以降には所見されない。すなわち、大永期に房安に代わって上杉氏代表として擁立された人物が定憲だったのではないか。

守護定実は永正後期から大永期においてその政治的な活動は所見されない。しかし、享禄・天文の乱において為景と定憲が抗争を開始してから再び定実の活動が所見される。定実を否定するために必要であった定憲という上杉氏の人物が失われたため守護定実の復権につながったとは考えられないだろうか。

[史料2]において定憲は上杉氏惣領を名乗り、記載からは上杉氏一族の山本寺定種もそれを認めていると考えられる。また、享禄3年11月長尾為景書状(*2)では「大熊備前守、上条播磨守・為景間種々申妨候」として享禄・天文の乱の勃発について触れている。森田氏は為景が定憲を自身の前に書き記していることに注目しており、定憲が為景の上位権力として位置していたことが窺われる。さらには両者の間を守護公銭方大熊政秀が妨害したとする記述より、定憲が越後の権力中枢と深く関わっていた可能性が想定される。やはり定憲は上杉氏の一庶流ではなく、守護定実に代わる権力として大永期に為景に推戴され活動していたと考えるべきであり、享禄・天文の乱はそのような政治的矛盾が顕在化した結果であると見ることもできよう。


ここまで、上条定憲の政治的立場について考察した。永正11年に定実が没落し、天文期に復権を果たすまでの間、為景は永正後期の上杉房安や大永期に上条定憲といった有力な上杉氏一族を推戴し国内政治を推し進めたことが推測される。その上杉氏二頭体制は政治的矛盾を内包し、それが享禄・天文の乱の一因となった可能性が想定される。そしてこのような政治体制が崩壊したことが、定実が再び表舞台に立つことの一因となったと想定されるのである。これらのことは長尾為景の治世において上杉氏が欠けることはなかったといえ、その関係は国内政治にも大きな影響を与えたことが想定される。為景による政治体制を考える上でも留意すべきことであろう。


*1) 森田真一氏「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」、「上杉家と享禄・天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版) 
*2)『新潟県史』資料編5、3756号

上杉定昌の政治的立場

2024-02-12 15:28:51 | 越後上杉氏
上杉定昌(五郎、左馬助、民部大輔)は越後守護上杉房定の息子の一人であり、その生年は『実隆公記』にある享年から逆算して享徳2年であり、3人の兄弟の中で最も早い。定昌は左馬助、民部大輔と父の名乗りを受け継いだことから房定の嫡子とされ、弟顕定とも同腹と推測されてきた(*1)。

しかし、森田真一氏(*2)は顕定母(青蔭庵月山妙皓)の七回忌に関する史料である『玉隠和尚語録』に「月山第一子藤家棟梁顕定公」とあり、山内上杉顕定はその母の第一子であったことが指摘されている。また、顕定は享徳3年の誕生であることが明らかであり(*3)、定昌とは年子の関係になる。朝倉直美氏(*4)は福田千鶴氏の研究などを踏まえて戦国期の女性が年子で出産する可能性が高くないと推測した上で「母体の回復のために戦国大名家正妻が年子で出産することはないとみた方が良い」と結論づけており、この指摘は年子である定昌と顕定が別腹であるとする論説を補強するものとなる。つまり、定昌と顕定が異母兄弟であったことは確実であるといえよう。

これは定昌の動向と、兄弟関係を考える上で画期となる事実であり、これを踏まえた上でその関係性を見直してみたい。ちなみに、定昌の初名は「定方」(読みは同じサダマサ)であり、文明5年4月から翌年4月までの間に「定昌」に改名しているが、煩雑なため定昌で統一する。

1>定昌と顕定はどちらが嫡出か
最も大きな問題はそれぞれのどちらが嫡出かという点である。定昌と顕定が異母兄弟である以上、どちらかが正妻の子=嫡出、妾の子=庶出ということになる。そして、そのヒントが顕定の幼名にある。

応仁2年に発給された2通の感状(*5)の署名より顕定の幼名「龍若」が明らかである。森田真一氏(*2)は龍若の名は越後での出生時よりものとした上で、歴代の越後守護、山内上杉家の人物と同様に「龍」を冠しており、「越後守護家にふさわしい幼名を名付けられる環境にあったことがうかがえる」とする。嫡男の後に生まれた庶出の次男にそのような立場が与えられるはずもないから、顕定は嫡出であったと考えるべきである。顕定は生まれながらにして越後守護家を継承すべくその幼名がつけられたということになる。そして、定昌は妾より出生した庶兄であったと推定され、当初において家督相続などは想定されていない存在であったと考えられる。

そして、越後上杉氏から山内上杉氏へ顕定が入嗣した点も、房定が庶子を送り込んだという見方ではなく、家督継承予定者であった嫡男顕定が山内上杉氏を継承し庶兄定昌がそれに代わって越後上杉氏の後継に位置付けられたと考えるべきであろう。顕定が山内上杉氏を継いだのは元服前13歳の文正元年であり、この時庶兄定昌は14歳である。これ以降、越後上杉氏にふさわしい左馬助・民部大輔の名乗りが定昌へ与えられていったと推測できる。

ちなみに、定昌と顕定の関係は良好であったと思われる。両者の関係悪化や何らかのトラブルを伝える史料もなく、文明6年には太田道灌が家宰職と武蔵守護代についての意見を定昌を介して顕定へと伝えようとするなど周囲からもその関係性が認められていた。また、五十子陣においてが「山内(=顕定)・典厩(=定昌)・河越(=扇谷上杉定正)」(*6)が三大将と並び称されている。定昌、顕定に関して、山内上杉氏・越後上杉氏間での家督変更は、その後において大きな齟齬なく機能していたといえる。

2>定昌の活動
越後上杉氏として定昌の活動が所見され始めるのは、享徳の乱の対応のための関東出兵である。文明5年4月には関東に在陣し文書を発給しているが、その具体的な場所は森田真一氏(*7)により武蔵五十子陣であったと比定されている。こういった所見から、この頃より関東での軍事行動は定昌へ任せられたと山田邦明氏(*8)は推測している。そしてその後も関東在陣を続けた定昌であったが、転機となったのが文明8年6月の長尾景春の反乱である。文明9年1月に景春の攻撃を受け、五十子陣が崩壊、定昌はその拠点を上野白井城へと移したと推測される。

その後、古河公方足利成氏と抗争も包含し混戦となった関東情勢であったが、結局上杉房定の仲介もあって文明14年に将軍足利義政と成氏の和睦=都鄙合体が実現、結果から見ると一時的なものだったが関東へ和平が訪れることになった。このような中で、房定は文明18年に従四位下相模守に任官し、肩書の上では鎌倉期の執権と同等の地位という破格の待遇を得た。この年の9月には定昌が上野白井城に在城しつつ民部大輔の名乗りで所見されている(*9)。片桐昭彦氏(*1)はさらに翌長享元年10月までに房定が出家し常泰を名乗ることから、この頃に房定から定昌への家督移譲が行われたとする。定昌の家督相続を明確に示す文書はないが、上述の推測に加え、越後上杉氏家臣団に定昌の偏諱である「昌」を冠した人物が多数所見されること、後世の系図(*10)においても房定と房能の間に定昌が家督を相続していたとする認識があったことなどからも、定昌が家督を継承していた蓋然性は高いと考えられる。また一方で、定昌は越後守護ではなかったとされる(*2)。房定も越後府中において健在であり、その権力は依然として房定が掌握していた部分は大きかったと考えるべきであろう。

そして、定昌は家督相続後まもなく長享2年3月24日に上野白井において自殺を遂げる。『蔭涼軒日録』では「上杉民部大輔殿三月廿四日自害」したという一報が4月6日に届いたとあり、『実隆公記』には「上杉相模入道子息民部大輔生年卅六歳、於関東去月廿四日頓死云々、若切腹歟云々」とあり、定昌の自殺は確かである。

3>自殺の原因
自殺の原因について、確実なことは記録になく不明である。

片桐昭彦氏(*1)は、文明18年7月太田道灌暗殺に端を発する長享の乱における山内上杉氏・越後上杉氏と扇谷上杉氏の抗争に関連した、扇谷上杉氏方による謀殺であったとする。ただ、具体的な根拠に乏しく、個人的には懐疑的である。同氏はさらに、「定昌」の実名も扇谷上杉氏一族朝昌の一字拝領の可能性を提起し、失敗に終ったものの朝昌との関係を深め定昌が扇谷上杉氏を継承する計画があったとする。しかし、定昌へ改名した文明5~6 年頃には越後上杉氏を継承可能な人物は定昌のみであり、そのような中で扇谷上杉氏への養子計画などは不自然であろう。

山田邦明氏(*8)は、定昌が自殺後半年で房能が元服している点に注目し、兄弟間での家督争いがあり、房能を擁立する一派により自殺に追い込まれたと推測する。そして、その一派の中心人物は、元服に際して房能へ「能」を与えた長尾能景であった可能性を指摘している。森田氏(*2)も定昌自殺の原因は越後守護家の家督継承問題にあったのではないか、としている。房能は文明6年に誕生し、長禄2年15歳で元服する。兄たちとは約20歳離れた弟であった。結果的に、明応3年房定の死をもって房能が越後上杉氏の家督と越後守護を継承することになる。

私も山田氏らの主張するように、定昌の死は越後上杉氏の内部問題に起因すると考える。房定、定昌、房能の個人的な感情や思惑もあっただろうが、最も大きな問題は家臣団の権力争いではなかったか。定昌は長期間にわたり関東に在陣していたため、後述のようにその権力基盤も上野北部から越後魚沼にかけて形成された。すると定昌が房定から越後上杉氏権力を継承したのちに、権力中枢にはそういった地域出身のものが少なからず入ってくることになる。この事態は従来の権力中枢を構成する越後諸将にとって望ましくないことだったのではないか。越後府中を中心とした房定政権から上野白井を中心とした定昌権力への転換により、従来の重臣層は自らの地位の低下を危惧し、定昌が越後へその支配を強める前に弟房能を擁立し抵抗を見せたのではないか。その結果が、定昌の自殺、房能の元服と後継者化であったと考えられよう。

さらに、定昌が庶出であったことも不利に働いたのではないか。正嫡であればその支配の正統性に疑いはないが、庶子である定昌はやや弱い立場であった可能性がある。房能の母は詳細不明であり、定昌、顕定との年齢差からは両者の母らとも別人であると思われるから房能が嫡出を理由に家督奪取を目指したとも考えづらいが、こういった血縁的な要因は反定昌派の付け込む隙となったことは十分に推測できるであろう。

4>定昌と白井
定昌について考えるべきはその活動拠点が一貫して関東にある点である。特に上野国白井は定昌の本拠地として確立されていた。これは定昌の死について発智景儀が言及する際に、定昌を「白井之殿様」と表現していることからもわかる。

森田真一氏(*2)は文明15年夏には連歌師宗祇が「上杉典厩(=定昌)の亭」で和歌を詠み、文明18年9月には歌僧尭恵が白井に宿泊し定昌主宰の歌会に参加していることを踏まえ、定昌が白井において恒常的に活動していたことを指摘する。さらに、その家臣団に発智氏など越後魚沼郡を拠点とする者がいることから、影響力は魚沼郡にまで及んでいたと推測する。その期間は少なくとも文明5年から長享2年までの15年間にわたるとされ、定昌が白井を中心に上野国北部から越後魚沼郡にかけて政治的基盤を築いていたことが理解される。

この権力圏は定昌死後、山内上杉憲房が継承している。憲房は定昌と同じく仮名五郎を名乗っており、定昌権力の後継者と位置付けられている。憲房については次回に検討する。


以上、上杉定昌について検討した。その出生から関東における動向と越後上杉氏における位置づけ、そして自殺に至るまで検討すべき課題は多い。次回は、定昌権力の後継とされる山内上杉憲房を検討していきたい。


*1) 片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*2) 森田真一氏『上杉顕定-古河公方の対立と関東の大乱-』(戒光祥出版)
*3)「上杉房定一門・被官交名」(『正智院文書集一』82)
*4) 「北条氏規と家臣」『小田原北条氏一門と家臣』
*5) 『戦国期山内上杉氏文書集』18、19号(黒田基樹氏『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*6) 『松陰私語』
*7) 森田真一氏「上杉定昌と飯沼次郎左衛門尉」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*8)山田邦明氏 「上杉房定」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*9)『上越市史』資料編3、388
*10)『上杉系図』(『続群書類従』第六輯下、87頁)、房能を定昌弟と注釈を付けながら房定-定昌-房能とする系譜を作成している。