長尾為景は上条定兼(定憲)との抗争である天文の乱を切り抜け、敵対していた上田長尾房長とも天文6年中に講和したと推測される。政治的にも安定した天文7年に持ち上がった問題が、いわゆる伊達入嗣問題である。今回からその経過、背景について検討していく。今回は、特に入嗣計画の成立から決裂、計画の背景について考えていきたい。
1>経過
[史料1]『越佐史料』三巻、845頁
納自伊達御曹司様御上為御要脚上田段銭之事
合二町三段二十五束苅者三カ年分
右為頸城郡夷守郷大槻村村山与七郎方沙汰所納如件
天文七年戊戌十月廿四日 景直
頼家
秀忠
[史料1]は越後守護の後継として伊達氏から養子が迎えられる計画に関する初見である。伊達氏から「御曹司」が来国するための資金として段銭が徴収されている。「御曹司」が伊達稙宗三男時宗丸(後の実元)であることは他の文書から明らかである。天文7年10月時点では既に、為景と伊達稙宗の間で合意がなされていたことがわかる。
上杉玄繁(定実)書状(*1)は天文7年11月と推測される(*2)が、書状中に「去年小梁川左近上国」とあり、天文6年時に伊達氏から越後へ使者小梁川氏が派遣され入嗣計画が協議されていた可能性がある。天文7年に現れる史料では既に段銭を徴収するほど計画が進行しており、協議検討が天文6年に行われていたとしても不思議ではない。
また、岩城氏へ入嗣推進を伝える天文9年6月伊達稙宗書状(*3)に「先年平子豊後守為迎被越置候」、「去々年已来両使節差越、国中一統之調法候」とあり、天文7年に越後側から伊達氏へ平子豊後守ら「両使」が派遣されたことがわかる。『伊達正統世次考』に平子氏・直江氏の両使が派遣され「重代腰刀宇佐美長光・竹雀幕、且贈実一字」とあるように、贈呈品と共に入嗣の計画が進展したことが窺われる。ちなみに、同書状は「彼国之乱劇未落去候」「残徒色部一ケ所迄候」とあることから天文9年に比定される。
『伊達正統世次考』では越後からの使者派遣を天文11年とするが、天文11年6月に勃発した伊達稙宗・晴宗父子の抗争である伊達天文の大乱の開戦理由を入嗣問題に求めた後世の編纂物による誤解と考えられる。先述した伊達稙宗書状(*3)から平子氏の派遣は伊達天文の乱勃発の数年前であることが確実であるからである。『正統世次考』は伊達氏側の編纂物であり伊達氏のイベントを中心として記載されてしまう点に留意すべきであろう。実際に伊達天文の乱は伊達稙宗と晴宗父子の方針の違いや懸田氏ら有力な領主層との齟齬など伊達氏内部の矛盾により起きたものと考えられる。
これまで『伊達正統世次考』の記述を元に平子氏派遣と家宝などの贈呈は天文11年と考えられることもあったが、整合性に欠くことが理解される。江戸期編纂の史料であることを踏まえても、『次考』の記述を元に古文書の性格や年次比定を行っていくのはナンセンスであると思う。
[史料2]『越佐史料』三巻、852頁
時宗丸相続之儀、以平子豊後守承候、則雖可為相上候、若年之事候間、遅延候、当年必可為致上国覚悟候、雖勿論候、至于其時者、懇切之儀可為本望候、如何様従半途可申合候条、不能具候、恐々謹言
五月十五日 稙宗
下伊賀守殿
[史料2]は天文8年5月の書状と考えられる。段銭徴収前の天文7年5月では早く、小泉庄での抗争が勃発した後の天文9年5月で不自然と感じる。平子豊後守が登場していることから、彼が派遣された天文7年からそう遠くはないと考えられよう。天文7年に平子氏が派遣され養子入りに合意したが越後入国が遅れ、年が明けてしまったため「当年必可為致上国」ことを伝えているのであろう。宛名下氏は羽越国境に近い下関の領主で、稙宗が通過する地域の領主たちへ便宜を図っていたことがわかる。
時宗丸の入嗣が遅れていたとされる天文8年であるが、史料に乏しく長尾氏・伊達氏間で実際どのような交渉が行われていたかは定かではない。しかし、天文9年6月伊達稙宗書状(*3)では「近日向彼口可致出馬候」、同6月大崎義直書状(*4)「伊達息時宗丸越後江上国、此度示定候、依之稙宗父子出馬之事以使者承候」とあるように、天文9年までに小泉庄を中心とした抗争が生じており長尾氏と伊達氏の対立は決定的である。天文8年11月には伊達稙宗が小泉庄を攻撃し本庄氏を没落させたと伝わるから、この時点までに両者間での政治交渉が決裂したことが推測される。[史料2]以降で小泉庄攻撃以前であることを踏まえると、決裂の時期は天文8年5月以降同年11月以前と推定される。
2>背景
そもそもこの時宗丸を守護上杉氏の後継者にしようという計画の背景には、誰の、どのような思惑があったのだろうか。
まず、これまで形骸化していた越後守護上杉定実がこの前後で久しぶりに表舞台に現れるわけだが定実が政治的復権を果たしたわけではない。守護権力に基づく公的な発給文書がないことがその証拠である。つまり守護定実として主体的な決定ができたとは考えられず、時宗丸入嗣は傀儡守護を牛耳る長尾為景の意向あってのものである。つまり、為景は傀儡として守護存続を望んだが、定実が守護でいる限り自らや晴景の障害となることを予想し、守護交代を目論んだと推測できる。永正期から為景は一貫して定実を否定して代替守護を擁立する意思があったことは以前検討している通りである(*5)。
そこで浮上したのが伊達時宗丸だったわけだが、その背景には時宗丸の祖母、つまり伊達尚宗の妻が越後上杉氏出身という血筋がある。『伊達正統世次考』には「尚宗公者娶上杉氏」などの記事があり、大石直正氏(*6)はその関係性より伊達稙宗は上杉様の花押を用いたと指摘する。長谷川伸氏(*7)は上杉氏の女性が伊達氏へ嫁ぐことが記された中条朝資書状(*8)を文明18年に比定し、その女性こそ伊達尚宗妻=伊達稙宗母であったと推測している。
ただ、『正統世次考』が伝えるような「上杉定実娘」という説は年齢的にあり得ないだろう。例えば同時代を生きた長尾為景の生年が文明18年であるから、定実の姉妹とするにも無理がある。とはいえ、為景・定実と守護上杉房能や山内上杉可諄との抗争において伊達尚宗は為景・定実方へ味方していることを考えると、やはり尚宗妻は定実の家系=古志上条氏に連なる人物である可能性を考えるべきだろう。単純に年齢的に考えれば叔母といったところではないかと思われ、具体的には古志上杉房実娘=上杉定俊姉妹ではなかろうか(*9)。
入嗣計画を進める上で為景にとって誤算だったのが伊達稙宗の介入だろう。稙宗の勢力拡大への野心は強く、息子を守護にしたのちに越後への影響力を強めるべく動いた。そもそも稙宗は、相馬氏や葛西氏、大崎氏を始めとする周辺勢力に一族を入嗣させることで影響力を拡大してきた。越後守護への入嗣を利用しない手はないと思ったに違いない。
為景が忌避したであろう稙宗の行動が所伝からうかがえる。『伊達正統世次考』では、稙宗が時宗丸の上杉氏入りに際して多くの精鋭をつける方針に対して、晴宗は伊達家自身の弱体につながる反発して伊達天文の乱が始まったと伝える。先述のように江戸期の編纂物であるから細部の整合性は置いておくとして、この精鋭を派遣する計画は伊達稙宗が守護上杉氏を乗っ取ろうと考えていたとすると興味深い。守護上杉氏に強力な軍隊が付属することになり、守護代長尾氏の支配に影響を及ぼすことは間違いない。長年にかけて形骸化した守護上杉氏が伊達氏の軍事力を背景に実力を持って復権する可能性があるわけで、為景にとっては入嗣を認めるわけにいかなかったであろう。
推測するに、天文7年に平子豊後守らが派遣され大筋合意に至り、国内で段銭徴収などの準備も開始されたが、為景と稙宗の方針の違いで細部の交渉が難航、時宗丸入国が遅れる事態となったのだろう。そして、天文8年後半頃に交渉は決裂し、軍事衝突に至ったと考えられる。もちろん軍事衝突は偶発的なものではなく、時宗丸が守護後継者であるという名目のもと稙宗が越後へ影響力を強めるべく計画したとみて間違いない。
次回、天文8年以降における抗争の詳細について検討をすすめていきたい。
*1) 『新潟県史』資料編5、3211号
*2) 前嶋敏氏は天文8年とするが、8年11月時点では既に奥郡では抗争が勃発しており不自然である。よって、天文7年11月と考えられる。
*3)『越佐史料』三巻、853頁
*4)同上、854頁
*6)大石直正氏「戦国期伊達氏の花押について-伊達稙宗を中心に」(『戦国大名伊達氏』戒光祥出版)
*7)長谷川伸氏「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」(『長尾為景』戒光祥出版)
*8)『新潟県史』資料編4、1900号