鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

伊達入嗣問題1 交渉の経過とその背景

2023-10-28 12:17:08 | 長尾為景
長尾為景は上条定兼(定憲)との抗争である天文の乱を切り抜け、敵対していた上田長尾房長とも天文6年中に講和したと推測される。政治的にも安定した天文7年に持ち上がった問題が、いわゆる伊達入嗣問題である。今回からその経過、背景について検討していく。今回は、特に入嗣計画の成立から決裂、計画の背景について考えていきたい。


1>経過
[史料1]『越佐史料』三巻、845頁
納自伊達御曹司様御上為御要脚上田段銭之事
 合二町三段二十五束苅者三カ年分
右為頸城郡夷守郷大槻村村山与七郎方沙汰所納如件
   天文七年戊戌十月廿四日        景直
                      頼家
                      秀忠

[史料1]は越後守護の後継として伊達氏から養子が迎えられる計画に関する初見である。伊達氏から「御曹司」が来国するための資金として段銭が徴収されている。「御曹司」が伊達稙宗三男時宗丸(後の実元)であることは他の文書から明らかである。天文7年10月時点では既に、為景と伊達稙宗の間で合意がなされていたことがわかる。

上杉玄繁(定実)書状(*1)は天文7年11月と推測される(*2)が、書状中に「去年小梁川左近上国」とあり、天文6年時に伊達氏から越後へ使者小梁川氏が派遣され入嗣計画が協議されていた可能性がある。天文7年に現れる史料では既に段銭を徴収するほど計画が進行しており、協議検討が天文6年に行われていたとしても不思議ではない。

また、岩城氏へ入嗣推進を伝える天文9年6月伊達稙宗書状(*3)に「先年平子豊後守為迎被越置候」、「去々年已来両使節差越、国中一統之調法候」とあり、天文7年に越後側から伊達氏へ平子豊後守ら「両使」が派遣されたことがわかる。『伊達正統世次考』に平子氏・直江氏の両使が派遣され「重代腰刀宇佐美長光・竹雀幕、且贈実一字」とあるように、贈呈品と共に入嗣の計画が進展したことが窺われる。ちなみに、同書状は「彼国之乱劇未落去候」「残徒色部一ケ所迄候」とあることから天文9年に比定される。

『伊達正統世次考』では越後からの使者派遣を天文11年とするが、天文11年6月に勃発した伊達稙宗・晴宗父子の抗争である伊達天文の大乱の開戦理由を入嗣問題に求めた後世の編纂物による誤解と考えられる。先述した伊達稙宗書状(*3)から平子氏の派遣は伊達天文の乱勃発の数年前であることが確実であるからである。『正統世次考』は伊達氏側の編纂物であり伊達氏のイベントを中心として記載されてしまう点に留意すべきであろう。実際に伊達天文の乱は伊達稙宗と晴宗父子の方針の違いや懸田氏ら有力な領主層との齟齬など伊達氏内部の矛盾により起きたものと考えられる。

これまで『伊達正統世次考』の記述を元に平子氏派遣と家宝などの贈呈は天文11年と考えられることもあったが、整合性に欠くことが理解される。江戸期編纂の史料であることを踏まえても、『次考』の記述を元に古文書の性格や年次比定を行っていくのはナンセンスであると思う。

[史料2]『越佐史料』三巻、852頁
時宗丸相続之儀、以平子豊後守承候、則雖可為相上候、若年之事候間、遅延候、当年必可為致上国覚悟候、雖勿論候、至于其時者、懇切之儀可為本望候、如何様従半途可申合候条、不能具候、恐々謹言
  五月十五日             稙宗
   下伊賀守殿

[史料2]は天文8年5月の書状と考えられる。段銭徴収前の天文7年5月では早く、小泉庄での抗争が勃発した後の天文9年5月で不自然と感じる。平子豊後守が登場していることから、彼が派遣された天文7年からそう遠くはないと考えられよう。天文7年に平子氏が派遣され養子入りに合意したが越後入国が遅れ、年が明けてしまったため「当年必可為致上国」ことを伝えているのであろう。宛名下氏は羽越国境に近い下関の領主で、稙宗が通過する地域の領主たちへ便宜を図っていたことがわかる。

時宗丸の入嗣が遅れていたとされる天文8年であるが、史料に乏しく長尾氏・伊達氏間で実際どのような交渉が行われていたかは定かではない。しかし、天文9年6月伊達稙宗書状(*3)では「近日向彼口可致出馬候」、同6月大崎義直書状(*4)「伊達息時宗丸越後江上国、此度示定候、依之稙宗父子出馬之事以使者承候」とあるように、天文9年までに小泉庄を中心とした抗争が生じており長尾氏と伊達氏の対立は決定的である。天文8年11月には伊達稙宗が小泉庄を攻撃し本庄氏を没落させたと伝わるから、この時点までに両者間での政治交渉が決裂したことが推測される。[史料2]以降で小泉庄攻撃以前であることを踏まえると、決裂の時期は天文8年5月以降同年11月以前と推定される。


2>背景
そもそもこの時宗丸を守護上杉氏の後継者にしようという計画の背景には、誰の、どのような思惑があったのだろうか。

まず、これまで形骸化していた越後守護上杉定実がこの前後で久しぶりに表舞台に現れるわけだが定実が政治的復権を果たしたわけではない。守護権力に基づく公的な発給文書がないことがその証拠である。つまり守護定実として主体的な決定ができたとは考えられず、時宗丸入嗣は傀儡守護を牛耳る長尾為景の意向あってのものである。つまり、為景は傀儡として守護存続を望んだが、定実が守護でいる限り自らや晴景の障害となることを予想し、守護交代を目論んだと推測できる。永正期から為景は一貫して定実を否定して代替守護を擁立する意思があったことは以前検討している通りである(*5)。

そこで浮上したのが伊達時宗丸だったわけだが、その背景には時宗丸の祖母、つまり伊達尚宗の妻が越後上杉氏出身という血筋がある。『伊達正統世次考』には「尚宗公者娶上杉氏」などの記事があり、大石直正氏(*6)はその関係性より伊達稙宗は上杉様の花押を用いたと指摘する。長谷川伸氏(*7)は上杉氏の女性が伊達氏へ嫁ぐことが記された中条朝資書状(*8)を文明18年に比定し、その女性こそ伊達尚宗妻=伊達稙宗母であったと推測している。

ただ、『正統世次考』が伝えるような「上杉定実娘」という説は年齢的にあり得ないだろう。例えば同時代を生きた長尾為景の生年が文明18年であるから、定実の姉妹とするにも無理がある。とはいえ、為景・定実と守護上杉房能や山内上杉可諄との抗争において伊達尚宗は為景・定実方へ味方していることを考えると、やはり尚宗妻は定実の家系=古志上条氏に連なる人物である可能性を考えるべきだろう。単純に年齢的に考えれば叔母といったところではないかと思われ、具体的には古志上杉房実娘=上杉定俊姉妹ではなかろうか(*9)。

入嗣計画を進める上で為景にとって誤算だったのが伊達稙宗の介入だろう。稙宗の勢力拡大への野心は強く、息子を守護にしたのちに越後への影響力を強めるべく動いた。そもそも稙宗は、相馬氏や葛西氏、大崎氏を始めとする周辺勢力に一族を入嗣させることで影響力を拡大してきた。越後守護への入嗣を利用しない手はないと思ったに違いない。

為景が忌避したであろう稙宗の行動が所伝からうかがえる。『伊達正統世次考』では、稙宗が時宗丸の上杉氏入りに際して多くの精鋭をつける方針に対して、晴宗は伊達家自身の弱体につながる反発して伊達天文の乱が始まったと伝える。先述のように江戸期の編纂物であるから細部の整合性は置いておくとして、この精鋭を派遣する計画は伊達稙宗が守護上杉氏を乗っ取ろうと考えていたとすると興味深い。守護上杉氏に強力な軍隊が付属することになり、守護代長尾氏の支配に影響を及ぼすことは間違いない。長年にかけて形骸化した守護上杉氏が伊達氏の軍事力を背景に実力を持って復権する可能性があるわけで、為景にとっては入嗣を認めるわけにいかなかったであろう。

推測するに、天文7年に平子豊後守らが派遣され大筋合意に至り、国内で段銭徴収などの準備も開始されたが、為景と稙宗の方針の違いで細部の交渉が難航、時宗丸入国が遅れる事態となったのだろう。そして、天文8年後半頃に交渉は決裂し、軍事衝突に至ったと考えられる。もちろん軍事衝突は偶発的なものではなく、時宗丸が守護後継者であるという名目のもと稙宗が越後へ影響力を強めるべく計画したとみて間違いない。


次回、天文8年以降における抗争の詳細について検討をすすめていきたい。


*1) 『新潟県史』資料編5、3211号
*2) 前嶋敏氏は天文8年とするが、8年11月時点では既に奥郡では抗争が勃発しており不自然である。よって、天文7年11月と考えられる。
*3)『越佐史料』三巻、853頁
*4)同上、854頁
*6)大石直正氏「戦国期伊達氏の花押について-伊達稙宗を中心に」(『戦国大名伊達氏』戒光祥出版)
*7)長谷川伸氏「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」(『長尾為景』戒光祥出版)
*8)『新潟県史』資料編4、1900号

長尾為景から晴景への権力移行を考える

2023-10-10 21:54:53 | 長尾為景
前回前嶋敏氏の論稿(*1)を参考にして長尾為景から晴景への家督相続が天文9年8月であったこと検討した。今回はそれを踏まえた上で為景から晴景への権力移行の様子を見ていきたい。さて、為景その死去まで権力を維持し晴景の活動は確認されないわけだが、為景は晴景への権力移行をどの程度考えていたのだろうか。結論から言えば、計画的に息子への権力移譲を考えていたと私は考えている。そのことは古文書からも読み取れる。以下検討していく。


晴景は為景の没後まで発給文書が確認されない一方、幼名道一の時点から幕府・朝廷とのやり取りにおいて受給文書(*2)が確認される。これは為景が自身の死去直前まで自身に権力を集中させていた一方、早い段階から幕府朝廷へ晴景を露出させていたことが窺える。為景は意図的に晴景へ権威付けを行っていたと思うのである。これはもちろん為景の見栄や名誉欲ではなく、戦国といえども足利幕府体制が残る当時、守護代としてあくまで守護上杉氏の下位に位置する長尾氏の戦略である。幕府・朝廷の権威は当時も十分に効果のあるものであった。

享禄元年12月に長尾道一は将軍足利義晴より「弥六郎」の名乗りと「晴」字を与えられ、長尾弥六郎晴景を名乗る(*3)。将軍の偏諱はそれ自体が栄典であり、権威であった。木下昌規氏(*4)は偏諱の授与が「随分の者」、「先例」を基準とし、他家の被官=陪臣の立場では不可であったことを示している。守護代長尾氏においてこれまで将軍の偏諱を受けたものはいなかったから、これが異例であったことがわかる。つまり、これをもって単なる守護上杉氏被官ではなく将軍家と直接つながりを持つ存在であることが明確に示されたといえる。一字拝領が越後長尾氏にとって家格向上、晴景の権威上昇に繋がったことが理解される。

為景自身もこの時「白傘袋・毛氈鞍覆」の使用許可を受けており、その権威上昇を図っている(*5)。ちなみに木下氏によると白傘袋・毛氈鞍覆は陪臣層にも授与が確認される栄典であり、偏諱の方がより厳しい身分基準の元で授与の判断がなされていたという。

さらに享禄3年2月に足利義晴から小袖が下賜されるが、これも「長尾信濃守・同弥六郎対両人、小袖遣之候」(*6)とあり、為景は晴景と共に交渉に臨んだようだ。御礼品の献上についても書状類が多数残るが、為景名義と晴景名義でそれぞれ献上していたと推定される。越後国内において為景が晴景と連署した例や、同様の内容で書状を出している例はないことから、幕府工作では意図的に晴景を強調していたと考えられる。晴景と幕府関係者のパイプを構築する意味もあったのだろう。次世代へ向けて、権威付けだけでなく事務的な人脈の構築まで手助けしたことが推測される。現代とは異なり、交通・通信が発達していない時代である。遠方の勢力は自ら働きかけなければ幕府・朝廷にその存在すら知られることはなく、それ相応の人脈を持たなければ交渉を有利に進めることはできなかったのである。

さらに、為景は義晴の小袖のみならず佐子上臈の唐織物獲得も目指す。佐子上臈は義晴乳人で女房衆筆頭、義晴の後見を行うほどの有力者である。結果的に唐織物は下賜される(長尾為景・晴景と佐子上臈局「唐織物」をめぐる動向 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。ここで注目したい点は、唐織物が「晴景母」へ与えられるとされている点であろう(*7)。やはり晴景の名が登場し、結果として唐織物下賜は晴景の権威上昇に繋がる。為景が闇雲に権威を乱獲していたわけではなく、しっかりと次世代まで見据えた計画の元に進めていたように思える。

その後天文の乱が勃発し、為景は上条定兼ら反抗勢力との抗争を余儀なくされる。為景はこれに際して、朝廷へ天文4年に「御旗」獲得、天文5年に「治罰綸旨」を求めいずれも認められている。しかし、この時は為景が交渉の中心であり晴景の名前は出てこない。これが目下の抗争と関連し「御旗」や「綸旨」は偏諱や小袖より高度な政治性があったことが理由だろう。つまり、これは為景の越後支配のための一手であり、晴景への権威付けとは関係ないといえる。

そして、天文9年8月に家督を継いだ晴景が文書に現れるのが伊達入嗣問題の決裂、揚北衆中条氏の離反に伴う伊達稙宗の越後侵攻に対応した天文9年「私敵治罰綸旨」の獲得である。朝廷への政治工作が為景を中心に行われていることは多額の献金を献上していることから明らかであるが、同年9月27日長尾晴景宛広橋兼秀書状(*8)に「私敵治罰綸旨事、所望由候条、申調進入之候」ように肝心の綸旨については晴景が申請し受け取る形で交渉が成立している。同年9月27日長尾為景宛高橋宗頼書状(*9)にも「弥六郎殿御申綸旨」とあり、為景ではなく晴景個人へしっかり認識された上の綸旨であることは確かである。この綸旨も進行中の抗争を収める目的で申請しているが、先の綸旨と異なり晴景が綸旨を受け取ったことになる。晴景への家督相続が転機であったと考えられる。つまり、この時既に家督を晴景に譲っていた為景は晴景宛に綸旨を受け取り、晴景による越後支配を進めていく考えがあったと見て間違いないだろう。天文9年8月における家督相続により晴景が越後の国内政治の表舞台に立ったと評価することが可能であろう。


ここまで、為景の晴景に関する幕府・朝廷工作について見てきた。まとめると、家督を譲る前から晴景への権威付けを行い、家督相続後は後見を行いつつ晴景を中心として治罰の綸旨を獲得するなど、為景が計画的に晴景への権力移譲を行っていたことが理解される。

その後の長尾晴景は、天文13年4月後奈良天皇綸旨(*10)を得て越後国内の支配を進めるなど、為景時代から引き継いだであろう朝廷とのパイプを駆使しながら越後一国を失うことなく次世代へ繋いでいる。守護代長尾晴景は父、弟と比較され劣っていたとされることが多いが、歴史的価値の低い軍記物などに依拠していた部位が多い。長尾景虎への権力移行は晴景自身の病気が原因であり、晴景無能説や兄弟相克説が眉唾であることは言うまでもない。また、晴景と景虎は年齢の離れた兄弟であり、晴景は年齢相応に病没としたと見るべきで、病弱で求心力の低い当主という見方も適切ではないだろう。

残存する史料の少なさから正当な評価がなされていないと感じる晴景であるが、今後客観的な観点からの再評価が求められる。

追記:2024/2/4
[史料1]『新潟県史』資料編5,2716号
就 若君様御元服之儀、所被申無余儀候、雖然漸候間、相急被走廻候者、可為快悦候、巨砕各可申遣候、謹言
   九月十一日          憲当
     長尾六郎殿

[史料1]は佐藤博信氏(「足利藤氏元服次第のこと」『中世東国の支配構造』)によって天文17年9月における古河公方足利晴氏嫡子足利幸千代王丸=藤氏の元服に関する書状であることが明らかにされている。つまり、将軍足利義藤から古河公方足利藤氏への偏諱が山内上杉憲当(後の憲政、光徹)を通して行われ、憲当は交渉ルートとして越後の「長尾六郎」=長尾弥六郎晴景を選んだことがわかる。これについて佐藤氏は享禄元年における足利満千代王丸=晴氏の元服・偏諱の山内上杉氏から長尾為景を通して幕府への交渉を進めた手順と同様であるとの評価を下している。このことは長尾晴景は前代為景の政治的パイプを引き継ぎ、維持できていたという証拠になろう。関東と京の交渉を仲介できるほどの政治的な安定も実現できていたことが推測され、長尾晴景による越後支配が一定の水準にあったことがうかがわれる。

ただ、[史料1]の直後天文17年10月から重臣黒田秀忠が反乱し再び越後に混乱が生じていくことになる。簡単に言えば、晴景の治世は相続直後で不安定な初期、安定していた中期、黒田氏の反乱が生じ景虎への家督交代へとつながる不安定な末期と大きく三つに分けられると言えよう。


*1)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』2015年9月号)
*2)『新潟県史』資料編3、119号、120号
*3)『新潟県史』資料編3、116号、117号、118号
*4)木下昌規氏『足利義晴と畿内動乱』197頁~、(戒光祥出版)
*5)『新潟県史』資料編3、63号
*6)『新潟県史』資料編3、294号
*7)『新潟県史』資料編3、295号
*8)『新潟県史』資料編3、998号
*9)『新潟県史』資料編3、999号
*10)『新潟県史』資料編3、776号