前回に引き続き、長尾為景と上田長尾房長の抗争について文書の編年的整理を続ける。今回は、天文5年以降を見ていく。
天文5年
[史料15]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候、爰元も造意等申迫候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言
五月七日 譲恕 御朱印
林部右京殿
福王寺彦八郎殿
・福王寺氏らの籠る下倉城には房長から度々攻撃が加えられていたが、為景も上郡の鎮静化に追われ救援できずにいた。とはいえ当時、既に上条定兼は死去し天文の乱における為景の勝利は確定的であった(*1)。
・為景が下倉城を決して見捨てないことを伝え、堅固に守ることを指示した。
・為景の入道名で見える。署名「譲恕」とあるが正しくは張恕である。福王寺氏宛文書群をはじめ『歴代古案』所収文書は謄写であり細部に誤記が見られる。以下の文書においても同様である。
[史料16]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
五月八日 譲恕 御朱印
福王寺彦八郎殿
・下倉城の兵糧が不足しており、為景は中郡の味方に兵糧搬入を命じた。
[史料17]同上、806頁
先日飛脚委細申遣候、定可為到着候、仍栃尾事、連々子細も大略相調分ニ候、至于其儀は古志相談、一動被為之、其地堅固可相踏事専一ニ候、兵糧事は以前申付候、定而可入之候、謹言
五月十二日 譲恕
福王寺彦八郎殿
・栃尾に関しては大方の調略も進み古志上杉氏と相談し攻撃するので、福王寺氏は下倉城を防衛するように為景が指示。これ以前に房長によって栃尾が占領されていたことがわかる。占領の時期は恐らく[史料13]に見える天文4年9月の蔵王堂の戦いを始めとした房長の中郡攻撃ではないか。
・兵糧搬入は今後実行されることが伝えられた。
[史料18]同上、806頁
以前飛脚委細及返章候、定而可為到着候、其以後上田口敵之動如何、仍栃尾事連々ニ申越子細大概相調分ニ候、到于其儀は古志其他相談、一動も致之候者、自上田差行不可有之候、如何共其口可被相踏事専一ニ候、恐々謹言
五月十二日 譲恕 御朱印
下蔵山在城衆中
・[史料17]と同内容。
・栃尾の調略は進み、為景は古志上杉氏らと相談し同城への攻撃を計画していた。それに伴い、為景は諸将へ房長の攻撃を下倉城で防衛するように指示。
[史料19]同上、816頁
為音信樽到来喜入候、栃尾如何ニも堅固候、可心安候、謹言
七月三日 房長
清雲軒
・房長が家臣の古藤清雲軒へ栃尾の防衛を指示している。[史料17、18]に見える為景方による栃尾への圧迫に対応したものと考えられる。
[史料20]同上、817頁
就其地之備重注進、毎度如申遣依当口無手透其口行延来候、下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候、於此上も無沙汰候は、爰元見合可差越黒田和泉守候、委細多功肥後守方へ申届候、尚以中嶋内蔵助可有口上候、謹言
八月四日 譲恕 御朱印
福王寺彦八郎殿
・為景の出陣が遅れていることを伝え、同じく出陣が遅れている下郡諸将へは催促していることを伝えている。下郡諸将の出陣が実現できなければ為景の元から黒田秀忠を派遣するとのこと。
・この時までに天文の乱において敵対した下郡諸将=揚北衆を再び服属させたことがわかる。為景に敵対する勢力は房長のみとなり越後国内において孤立したことを意味する。
[史料21]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦得勝利、凶徒数多討捕候段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合、其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言
九月三日 譲恕 御朱印
福王寺彦八郎殿
・中郡より山吉政久らが下倉城へ来援し、房長の軍勢を撃破した。[史料22]よりこの戦いは8月28日にあったことがわかる。
[史料22]同上、822頁
去二十八日於上田口一戦之時、蒙疵被走廻之段、戦功無比類候、弥以可被抽忠信候、恐々謹言
九月三日 譲恕
佐藤弥太郎殿
・8月28日の戦いにおける活躍を賞している。「上田口」とのみあり詳細な場所は不明だが、状況から下倉城周辺と考えてよいだろう。
[史料23]同上、825頁
於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候、得其意候、然は如申合忠信至于致候は、上田庄において彼者共相當之地可充行候、此段可申遣候、謹言
十一月廿一日 譲恕 御朱印
福王寺彦八郎殿
・為景方の優勢に伴い房長方を離反し為景方へ帰属を意図する領主の名を福王寺氏が報告し、彼らに対し為景は相応の知行を宛行うことを伝えた。
[史料24] 『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
今度於其口露色 被復先忠之段、注進到来尤無比類候、然者下蔵地、堅固相踏、弥以可被抽忠信事簡要候、恐々謹言
十二月廿一日 譲恕
江口藤五郎殿
・薮神の領主江口氏が為景方へ帰属。為景はそれを賞し下倉城を守るよう指示。
天文6年
[史料25]同上、800頁
依其口様体無聞差越上村小五郎・藤四郎候、如申付候、其地之各并傍輩共相談、下倉山堅固之刷専一ニ候、於備は以前発知大学助方下向之時申含候キ、謹而可出陣候、其間儀不可有油断候、委細之段彼両人可有口上候、謹言
正月十三日 譲恕 御朱印
福王寺彦八郎殿
・引き続き下倉城を守るように指示。薮神の領主発知氏も為景方へ従属を遂げていることがわかり、薮神における為景の優勢が読み取れる。
[史料26]同上、801頁
去十八日、従上田号大源地江相動押破為始大源伊豆守数十人討死候由、無是非次第候、取出之動無用之段、兼日申越候き、雖然其地堅固簡要候、各相談、弥以無越度様其刷専一候、出陣之儀も可相急候、謹言
正月廿四日 譲恕
福王寺彦八郎殿
・房長が出陣し、「大源」=大沢が攻められ為景方の大沢伊豆守らが戦死した。大沢氏は[史料21]にある房長から離反した領主の一人と思われ、房長の報復と捉えられる。大沢氏の居城は現魚沼市大沢に残る鉢巻山城と伝わる。
・為景は不用意に反撃せず下倉城の守りを固めるよう指示し、自らの出陣を急ぐことを伝えた。
[史料27]同上、803頁
十一日敵相動候処出人数得利、各被疵由粉骨之至候、努々不可取出由申届候、雖然無越度上は無是非候、弥以其地堅固備簡要候、謹言
二月十六日 譲恕
福王寺彦八郎殿
・2月11日に福王寺氏らが下倉城から出撃し房長軍を破った。為景は籠城の指示を守らなかったことに言及したが、成功したために不問とし、今後は固く防衛に努めるよう指示した。
[史料28]同上、803頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、同心被官人粉骨候旨、神妙至候、仍其地之備無油断、各相談簡要候、上田の実説重而注進候、謹言
二月廿七日 譲恕 御朱印
福王寺彦八郎殿
・2月21日に広瀬の戦いで福王寺氏ら再び房長軍を撃破した。為景はこれを賞し、引き続き下倉城防衛と房長の動向について注進するよう指示した。
[史料29]同上、804頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、被抽粉骨候、無比類候、何様一段可感之候、恐々謹言
二月廿七日 絞竹庵譲恕
江口藤五郎殿
・広瀬の戦いでは江口氏ら為景に帰属した薮神の領主の活躍があったことがわかる。
・これ以降房長との軍事抗争を伝える史料はない。広瀬の戦いなどで劣勢に立たされた房長は、国内情勢を鎮静化した為景に屈し、和睦するに至ったと推測される。
*1)上条定兼の死去は『越後過去名簿』(山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」新潟県立歴史博物館研究紀要第9号)より天文5年4月であることが明らかである。