鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

房長の乱 編年史料集2

2024-10-16 20:10:07 | 長尾為景
前回に引き続き、長尾為景と上田長尾房長の抗争について文書の編年的整理を続ける。今回は、天文5年以降を見ていく。


天文5年
[史料15]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候、爰元も造意等申迫候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言
    五月七日                譲恕 御朱印
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏らの籠る下倉城には房長から度々攻撃が加えられていたが、為景も上郡の鎮静化に追われ救援できずにいた。とはいえ当時、既に上条定兼は死去し天文の乱における為景の勝利は確定的であった(*1)。
・為景が下倉城を決して見捨てないことを伝え、堅固に守ることを指示した。
・為景の入道名で見える。署名「譲恕」とあるが正しくは張恕である。福王寺氏宛文書群をはじめ『歴代古案』所収文書は謄写であり細部に誤記が見られる。以下の文書においても同様である。


[史料16]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日                譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・下倉城の兵糧が不足しており、為景は中郡の味方に兵糧搬入を命じた。


[史料17]同上、806頁
先日飛脚委細申遣候、定可為到着候、仍栃尾事、連々子細も大略相調分ニ候、至于其儀は古志相談、一動被為之、其地堅固可相踏事専一ニ候、兵糧事は以前申付候、定而可入之候、謹言
    五月十二日               譲恕
     福王寺彦八郎殿

・栃尾に関しては大方の調略も進み古志上杉氏と相談し攻撃するので、福王寺氏は下倉城を防衛するように為景が指示。これ以前に房長によって栃尾が占領されていたことがわかる。占領の時期は恐らく[史料13]に見える天文4年9月の蔵王堂の戦いを始めとした房長の中郡攻撃ではないか。
・兵糧搬入は今後実行されることが伝えられた。


[史料18]同上、806頁
以前飛脚委細及返章候、定而可為到着候、其以後上田口敵之動如何、仍栃尾事連々ニ申越子細大概相調分ニ候、到于其儀は古志其他相談、一動も致之候者、自上田差行不可有之候、如何共其口可被相踏事専一ニ候、恐々謹言
    五月十二日                譲恕 御朱印
     下蔵山在城衆中

・[史料17]と同内容。
・栃尾の調略は進み、為景は古志上杉氏らと相談し同城への攻撃を計画していた。それに伴い、為景は諸将へ房長の攻撃を下倉城で防衛するように指示。


[史料19]同上、816頁
為音信樽到来喜入候、栃尾如何ニも堅固候、可心安候、謹言
    七月三日                 房長
     清雲軒

・房長が家臣の古藤清雲軒へ栃尾の防衛を指示している。[史料17、18]に見える為景方による栃尾への圧迫に対応したものと考えられる。


[史料20]同上、817頁
就其地之備重注進、毎度如申遣依当口無手透其口行延来候、下郡衆着陣遅々断而遂催促候、定漸可動出候、於此上も無沙汰候は、爰元見合可差越黒田和泉守候、委細多功肥後守方へ申届候、尚以中嶋内蔵助可有口上候、謹言
    八月四日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・為景の出陣が遅れていることを伝え、同じく出陣が遅れている下郡諸将へは催促していることを伝えている。下郡諸将の出陣が実現できなければ為景の元から黒田秀忠を派遣するとのこと。
・この時までに天文の乱において敵対した下郡諸将=揚北衆を再び服属させたことがわかる。為景に敵対する勢力は房長のみとなり越後国内において孤立したことを意味する。


[史料21]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦得勝利、凶徒数多討捕候段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合、其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言
    九月三日                  譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・中郡より山吉政久らが下倉城へ来援し、房長の軍勢を撃破した。[史料22]よりこの戦いは8月28日にあったことがわかる。


[史料22]同上、822頁
去二十八日於上田口一戦之時、蒙疵被走廻之段、戦功無比類候、弥以可被抽忠信候、恐々謹言
    九月三日                  譲恕
     佐藤弥太郎殿

・8月28日の戦いにおける活躍を賞している。「上田口」とのみあり詳細な場所は不明だが、状況から下倉城周辺と考えてよいだろう。


[史料23]同上、825頁
於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候、得其意候、然は如申合忠信至于致候は、上田庄において彼者共相當之地可充行候、此段可申遣候、謹言
    十一月廿一日                譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・為景方の優勢に伴い房長方を離反し為景方へ帰属を意図する領主の名を福王寺氏が報告し、彼らに対し為景は相応の知行を宛行うことを伝えた。


[史料24] 『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
今度於其口露色 被復先忠之段、注進到来尤無比類候、然者下蔵地、堅固相踏、弥以可被抽忠信事簡要候、恐々謹言
    十二月廿一日                   譲恕
     江口藤五郎殿

・薮神の領主江口氏が為景方へ帰属。為景はそれを賞し下倉城を守るよう指示。


天文6年
[史料25]同上、800頁
依其口様体無聞差越上村小五郎・藤四郎候、如申付候、其地之各并傍輩共相談、下倉山堅固之刷専一ニ候、於備は以前発知大学助方下向之時申含候キ、謹而可出陣候、其間儀不可有油断候、委細之段彼両人可有口上候、謹言
    正月十三日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・引き続き下倉城を守るように指示。薮神の領主発知氏も為景方へ従属を遂げていることがわかり、薮神における為景の優勢が読み取れる。


[史料26]同上、801頁
去十八日、従上田号大源地江相動押破為始大源伊豆守数十人討死候由、無是非次第候、取出之動無用之段、兼日申越候き、雖然其地堅固簡要候、各相談、弥以無越度様其刷専一候、出陣之儀も可相急候、謹言
    正月廿四日                 譲恕
     福王寺彦八郎殿

・房長が出陣し、「大源」=大沢が攻められ為景方の大沢伊豆守らが戦死した。大沢氏は[史料21]にある房長から離反した領主の一人と思われ、房長の報復と捉えられる。大沢氏の居城は現魚沼市大沢に残る鉢巻山城と伝わる。
・為景は不用意に反撃せず下倉城の守りを固めるよう指示し、自らの出陣を急ぐことを伝えた。


[史料27]同上、803頁
十一日敵相動候処出人数得利、各被疵由粉骨之至候、努々不可取出由申届候、雖然無越度上は無是非候、弥以其地堅固備簡要候、謹言
    二月十六日                     譲恕
     福王寺彦八郎殿

・2月11日に福王寺氏らが下倉城から出撃し房長軍を破った。為景は籠城の指示を守らなかったことに言及したが、成功したために不問とし、今後は固く防衛に努めるよう指示した。


[史料28]同上、803頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、同心被官人粉骨候旨、神妙至候、仍其地之備無油断、各相談簡要候、上田の実説重而注進候、謹言
    二月廿七日                 譲恕 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・2月21日に広瀬の戦いで福王寺氏ら再び房長軍を撃破した。為景はこれを賞し、引き続き下倉城防衛と房長の動向について注進するよう指示した。


[史料29]同上、804頁
去廿一日於廣瀬一戦之時、被抽粉骨候、無比類候、何様一段可感之候、恐々謹言
    二月廿七日                絞竹庵譲恕
     江口藤五郎殿

・広瀬の戦いでは江口氏ら為景に帰属した薮神の領主の活躍があったことがわかる。
・これ以降房長との軍事抗争を伝える史料はない。広瀬の戦いなどで劣勢に立たされた房長は、国内情勢を鎮静化した為景に屈し、和睦するに至ったと推測される。


*1)上条定兼の死去は『越後過去名簿』(山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」新潟県立歴史博物館研究紀要第9号)より天文5年4月であることが明らかである。


房長の乱 編年史料集1

2024-10-04 21:36:51 | 長尾為景
長尾為景と上田長尾房長の抗争は多数の史料が残っていがらこれまで十分な検討がされていない。前回まで、両者の抗争を中心にその実態について考察してきた。それを踏まえて、さらに文書の内容についても網羅的に検討し、それらを編年的に総集することで同抗争の理解を深める一助としたい。各文書の年次比定等の考察は以前の記事を参照してほしい(長尾房長の乱について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。今回は天文2年から同4年までの範囲をみていく。


天文2年
[史料1]『越佐史料』三巻、794頁
敬白願書、抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不恐神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意之上、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件、
    天文二年十月廿四日         信濃守為景
     居多神主

・上条播磨守定兼、長尾越前守房長、中条越前守藤資らと長尾為景の抗争が開始。


[史料2]同上、795頁
敬白願書
抑今度凶徒乱入、当社悉以放火、併不思神罰悪行非一、依之当敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類、速退治事、神慮無私可令守護事、不可有疑、然者今年三カ年之内ニ、味方得吉事、怨敵忽滅却国中静謐所希也、今般之弓箭、早速属本意候者、則社頭如元造営、可励信心者也、仍如件
    天文二年十月廿六日         信濃守為景
     鵜川八幡神主

・天文3年における房長の動向を示す文書は他に残っていない。


天文4年
[史料3]同上、807頁
宇佐美前々造意連続、至于近日は方々江色々計策共々候、愚老事も雑説等雖申廻候、断而嶋津入道方意見之旨、不可有同心旨被仰切候故失手候、於事切も不可有差儀候、従何其要害用心不可有油断候、仍上田・妻有衆・薮神衆・宇佐美駿河守・大熊以下悉上条江相集候、然者水旱候間、指越案内者河東可打散候、下平方へ申越候、令談合如何共可相挊候、謹言
    五月廿九日             為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・房長が軍勢を率いて鵜川庄上条まで出陣。
・定兼方宇佐美氏の調略により信濃島津貞忠との関係も予断を許さない状況にあったようで、為景不利との雑説が巡っていたよう。貞忠は宇佐美氏に同心しなかった模様。ちなみに、島津貞忠は天文5年11月に死去する(*1)。
・為景は福王寺氏、下平氏へ「河東」地域=妻有庄・波多岐庄周辺地域への攻撃を指示。


[史料4]同上、807頁
自上田口其地へ可及行候哉、各致談合堅固可相抱事肝要候、万一敵陣取候は、自此口可成動候、謹言
    六月廿日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏へ下倉城周辺の敵の動向を問い合わせ、同上の防衛を指示している。
・内容が具体的ではなく年次比定は難しいが、「為景」署名とされることから天文4年6月と推測した。


[史料5]同上、808頁
河東江及行、方々放火之由神妙至候、弥以可相挊候、然は其地用心事各申合不可有油断候、謹言
    六月廿七日              為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・福王寺氏は指示通り河東地域への攻撃を成功さ、引き続き下倉城の防衛に努める。


[史料6]同上、813頁
向五十澤口相動之上、秋谷之者共取手之外見合、及一戦得勝利、為始下平次郎太郎、数百人討捕之由、自金子勘解由左衛門所注進到来、粉骨之至、誠無是非心地能候、永々其口為押張陣之由、爰元無手透故、以切紙不申越候、別而相加世具段其聞候、感入候、謹言
    七月十七日              房長
     古藤清雲軒

・波多岐庄下平氏ら為景方が上田庄を攻撃するも五十澤の戦いで房長家臣古藤氏らに敗れ、下平氏は戦死した。
・房長は「爰元」に出陣中で上田庄を留守にしていた。[史料7]にある琵琶嶋の戦いと思われ、下平氏らの攻撃は留守中を狙ったものと推測される。


[史料7]同上、816頁
新山落居之砌、次郎太郎走廻候、定可為満足候、謹言
    七月廿ニ日              房長
     清雲軒

・古藤氏が新山城を落とした際の活躍を房長が賞している。「新山」は詳細不明だが、アラヤマと読み現南魚沼市荒山を指している可能性がある。地理的には五十澤と下倉城の間にあり、五十澤の戦いに勝利した古藤氏が荒山の拠点を攻略し、[史料7]に見える下倉城攻撃へ向かったと推測される。
・この文書については根拠に乏しく確定的な結論は難しいが、総合的に考えて上記推測が最も蓋然性が高いと判断した。


[史料8]同上、814頁
国分方へ之切紙披見、不始其口加せ儀、尤無是非候、上条之者共令同心下倉山へ相重候由、是又肝要ニ候、如何共各令談合、物裏之動、敵之往復、自由不致得之様に其刷専一ニ候、爰元備可御心安候、具自両人方可申届候、謹言
    七月廿五日              房長
     穴澤新右衛門尉殿

・房長方が為景方下倉城を攻撃。穴沢氏が出陣中の房長へ国分氏を通じて報告し、房長はそれを賞している。


[史料9]同上、817頁
河東江凶徒等相集、琵琶島へ及行候間、馬廻者共為助之候、然者其地人数相談、河東江為忍足軽可為放火候、将亦其地無油断可用心候、謹言
    八月二日               為景 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・琵琶嶋の戦い。房長軍が河東地域を拠点に為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点琵琶嶋を攻撃し、為景馬廻衆が救援へ向かった。
・[史料5、6]で房長の出陣が確認されており、琵琶嶋を攻撃した上田長尾軍は房長が率いていた可能性が高い。
・[史料3]に上条へ房長、宇佐美氏、大熊氏、薮神・妻有衆が集結していることが見え、上条定兼のもとに房長らが結集して琵琶嶋へ攻勢をかけたことが推測される。


[史料10]同上、820頁
於時宜者、始中終承旧申断候、然は如御望奥衆一筆相調進之候、至于上は任御兼約、早速可被顕其色候、以前之御思惟者彼書中存候歟、尤無拠存候、御動有御遅延者、弥愚拙可失面目候、委曲石勘可被申分候、恐々謹言
    八月十四日              長尾越前守房長
     平子弥三郎殿

・房長が平子氏へ味方に属するよう求める。
・軍事行動へ遅れないようにと念押ししており、定兼陣営への参陣を求めたと推測される。

[参考1]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信由候哉、尤以簡要之至候、然者、西古志郡内皆以可被抱候事、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言
    八月十七日              定兼
     平子弥三郎殿

・上条定兼も平子氏を味方へ誘う文書を発給しており、定兼-房長ラインともいうべき政治体制が構築されつつあったことが推測される。


[史料11]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
    八月十九日              黄博
     福王寺彦八郎殿

・「黄博」=為景は、福王寺氏らが「松苧山」=松之山を忍び取ったことを賞賛している。[史料8]において為景が福王寺氏へ指示した河東地域への攻撃が実行された結果と捉えられる。
・「黄博」の初見であり、為景が天文4年8月に入道したことがわかる。
・黄博の法名については以前の記事で検討している(長尾為景と「黄博」 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。


[史料12]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
    八月廿八日              黄博 御朱印
     福王寺彦八郎殿

・松之山から柏崎方面へ進むと高柳という地名が現在も残る。松之山を攻撃した福王寺氏は琵琶嶋の戦いを援護するためそこから柏崎方面へ進軍していたことがわかる。


[史料13]『越佐史料』三巻、824頁
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
    九月廿二日              黄博 御朱印
     福王寺彦八殿

・蔵王堂の戦い。房長が軍勢を率い蔵王堂を攻撃した。詳しい経過は不明であるが、為景方が琵琶嶋の防衛に成功し房長らは後退、中郡への攻撃に転じたと推測できる。
・為景は福王寺氏へその間に敵が留守であるとして妻有・河東地域への攻撃を指示。


[史料14]同上、815頁
其地之傍輩共與同心、先衆に石坂口へ可相動候、少もらんほう狼藉致間敷候、堅可申付候、委細金子勘解由ニ申含遣候、今泉方をも指添候、能々可申合候、謹言
    九月廿四日              房長
     穴澤新右兵衛尉殿

・石坂口は現在の長岡市石坂地区を指すと推測され、蔵王堂の戦いに伴い房長が穴沢氏へも中郡への攻撃を指示したものと考えられる。



*1)『嶋津代々并庶子法号』(中村亮佑氏「米沢藩上杉家家中『嶋津家文書』について」文書館紀要第三十号)