鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾晴景と守護上杉氏権力

2024-05-11 23:14:13 | 長尾氏
越後守護代長尾晴景は父に為景、弟に景虎という戦国期でも類も見ない傑物に挟まれたためか、過小評価されていると感じる。その中でも守護上杉氏権力との関係については従来、定実が復権し晴景はそれを抑えられなかったという評価が浸透している。しかし、本当にそうだろうか。今回は晴景と守護権力について検討したい。

天文13年10月10日上杉定実知行宛行状(*1)、同日長尾晴景副状(*2)において、大見安田長秀に対して蒲原郡堀越、金津保下条村を宛がわれている。木村康裕氏(*3)は、前者は年後が付されていながら後者は日付のみであることから、明らかに後者を副状と判断し、守護権力を排除しきれない守護代長尾氏の地位を表しているとしている。さらに同氏は、これが前代為景の在世時における守護代長尾氏が実質的な権利を掌握した状況とは異なるものであり、晴景の権力が前代より後退したことを示唆している。こういった説は通説に沿ったものといえよう。

しかし、木村氏はその一例のみの検討に留まっており、晴景期全体を俯瞰したものとは言い難い。ここで改めて、知行宛行や土地の安堵を中心に、為景発給文書から晴景発給文書までを確認してみたい。

まず、為景期の文書をみていく。永正6年1月上野菊寿丸宛長尾為景安堵状(*4)には「御判旨可有御刷者也」と定実文書の発給を必要としている。永正7年8月20日佐藤修理亮宛長尾為景安堵状(*5)は同日に上杉定実文書(*6)の発給を認めている。永正8年7月長尾宗弘(為景)証状(*7)では上杉定実の裏判がある。永正10年3月7日慶増宛長尾為景安堵状(*8)には定実の袖判がある。

定実が天文10年10月に為景に反抗し敗北すると状況は変化する。永正11年12月23日大窪鶴寿宛長尾為景判物(*9)、永正12年安田百宛長尾為景安堵状(*10)では「御屋形様御定上、追而御判可申」とあり、時期を下った永正17年5月12日水原政家宛長尾為景安堵状(*11)でも同様に「何様御屋形御定上、継目御判追而可申」と記載される。これは守護御判の裏付けのない守護代判物であり、守護代長尾氏が実質的な権利を持ったことが木村氏により指摘されている。守護文書をのちに発給するとの一文があるが、定実失脚後7年を経た永正17年においてもその一文で済まされているところを見ると、これは実質的に守護文書が不要であり為景文書で機能していることを示している。このように定実の失脚により守護権力の形骸化が進んでいくことになる。永正18年2月に越後国内へ出された無碍光宗禁制掟書(*12)では千坂景長ら重臣7名の署名と共に為景の裏判を認める。署名のある人物は千坂景長、斎藤昌信、石川景重、毛利広春、長尾房景、長尾憲正、長尾景慶であり、為景をトップとして彼らを重臣とする当時の政治体制が窺われる。天文2年6月24日本成寺宛長尾為景判物(*13)、享禄4年10月18日飯田小二郎宛長尾為景判物(*14)では特に守護文書について言及なく、知行を宛がっている。

このように為景文書では時代が進むにつれ、守護権力の影響が薄まり、為景のみの保証で十分となっていたことがわかる。では、晴景文書は本当に守護定実権力の保証を必要としたのか。

[史料1]『新潟県史』資料編4、2240号
吉田周防入道英忠当寺へ奉寄附地事、任彼寄進状之旨、御執務不可有相違候也、仍如件
 天文十七
    卯月十日             晴景
   賞泉寺 長夫和尚

[史料2]『越佐史料』三巻、887頁
今度前々之筋目可抽忠節由、尤比類候、依之上群内新井庄留田分三省分箱井事宛行之候、知行不可有相違也、仍如件
    天文十七年八月十五日       晴景
     山村右京亮殿

[史料1]は頸城郡安塚の賞泉寺宛の長尾晴景安堵状、[史料2]は頸城郡青木の山村氏宛の長尾晴景知行宛行状である。どちらも守護上杉定実の文書や裏判を必要とせず、晴景文書単独で機能していることが特徴である。つまり、天文17年においては為景の晩年と同様に、晴景独自での保証で効力を発揮していた可能性が考えられる。つまり通説のように守護定実権力の排除が長尾景虎の登場を待つとする見解は適切ではなく、[史料1、2]からは晴景の治世においても達成されていたことが示唆されるのである。

天文17年末における長尾景虎の家督継承の際に上杉定実の「御諚」(*15)を必要としたことで、天文13年から17年まで定実が守護として復権したと推測されてきた。しかし、天文17年の事例は黒田秀忠の反乱と庶子景虎の家督継承という特殊な状況で必要とされたにすぎない。晴景期における所見も晴景の家督相続間もない混乱期におけるものであったことを踏まえると、政権の地盤が固まらない政権の過渡期において守護権力が必要とされた可能性もあろう。

ここで、長尾景虎初期の文書を見る。

天文18年11月6日平子孫太郎宛長尾景虎安堵状(*16)には「御屋形様御判之儀者、追而可申成候」とあり、木村康裕氏(*17)は「同様の文言は父為景の発給文書にも見られ、守護御判の裏付けのない守護代文書といえる」とする。つまり、景虎は家督継承後1年以内に既に守護権力に影響を受けない政治権力を確保していたことになる。

私も以前に、これらを根拠に晴景権力と景虎権力に相違があったことを想定した。しかし、晴景権力が定実の台頭を招いたとする典拠は天文13年の知行宛行状だけであること、前代・為景権力と次代・景虎権力が守護権力の抑制に成功していたことを踏まえるなら、晴景権力においても守護権力を抑え込んでいた可能性について前向きに考えるべきと思う。つまり、晴景は為景から守護から独立した政治権力を継承しそれを景虎へ引き継いだのではないか。


とはいえどうしても晴景期の史料が少ないため断定することはできない。しかし、それは同時に通説のような安田氏宛文書のみを取り上げて晴景権力が劣勢にあったとも言い切ることもできないといえる。通説が先行している現在において上記のような推測を提示しておきたい。


*1)『越佐史料』三巻、873頁
*2)同上
*3) 木村康裕氏「守護代長尾氏発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*4)『新潟県史』資料編4、1587号
*5)『越佐史料』三巻、564号
*6) 同上、563号
*7)『新潟県史』資料編5、3358号
*8)『新潟県史』資料編4、2253号
*9)『新潟県史』資料編3、421号
*10)『新潟県史』資料編4、1563
*11) 同上、1529号
*12)『新潟県史』資料編3、275号
*13)『新潟県史』資料編5、2688号
*14)『新潟県史』資料編3、788号
*15)『越佐史料』4巻、2頁
*16)『新潟県史』資料編5、3497号
*17)木村康裕氏「上杉謙信発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)


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