二十四節気の 白露(ハクロ)を 過ぎると 暑さも幾分和らぎ、虫のなき声も聴
かれる頃となり朝夕は凌ぎやすくなってきた。夏の掛布団が朝方肌寒さを感る。
秋の訪れである。
ふと目覚む夜具の軽さよ夜の秋 萍洋
白鳥草(はくちょうそう)初秋に咲きます。標題の俳句とは関係ありません。
二十四節気の 白露(ハクロ)を 過ぎると 暑さも幾分和らぎ、虫のなき声も聴
かれる頃となり朝夕は凌ぎやすくなってきた。夏の掛布団が朝方肌寒さを感る。
秋の訪れである。
ふと目覚む夜具の軽さよ夜の秋 萍洋
白鳥草(はくちょうそう)初秋に咲きます。標題の俳句とは関係ありません。
今年も狭庭に擬宝珠が薄紫色の花をつけた。一度株分けし二鉢に増やしたもの
で、水やりのみで、丈夫に育つので、お気に入りのプラント。
折から花の蜜を求めて一匹の虻が茎を揺らせて飛び去った。
ひともとの虻の揺らせる花擬宝珠
秋の雲影落さずに流れけり 逸考
秋の深まりと ともに大気がますます澄んで空を仰ぐと、 春や夏の季節より高いように感じる。雲があることによって、一層その感じを強くする。
島はいま好天つづき稲架日和
逸考
最近、稲刈りは 刈り取り、脱穀、選別を同時にできるコンバインという農機具を使って
脱穀米は 灯油の乾燥機にかけているようだ。
刈り取った田圃に稲架が見られなくなった。農家の高齢化により 人手が少なくなったため
止むを得ないとは思うが、やはり天日干しの 米は 美味しいですね!
塀溢れ絡まり咲ける凌霄花 逸考
我が家の八重桜の横にある凌霄、6月初旬頃より咲き始めている。夏の花らしく
朱赤の南国系の花である。茎が蔓性で他の樹木などに 絡みついてよじ登るので
始末が悪い。
十薬をはびこらしつつ住み古りぬ 逸考
当地に移り住んで、かれこれ40年余となる。狭庭に今年も、十薬が茂り始めた。多年草で地中の根
茎が、よく分岐して 年々、あちこちに 繁茂する。花が終ってから 刈り取り 水洗いした後、陰干し
にして 十薬茶として利用している。
減反の凝りはとれず田代掻く 逸考
今にも降り出しそうなどんより曇った空の下、田植え前の、代掻きを行っていた
一直線にゆっくりと 狭い田を折り返す トラクター、すでに 荒代を終わった田水は
澄み 畦の影を映していた。
一昔前は 牛馬の力を借りて 田掻きをやっていたのを、最近、殆ど機械化されて作業は
非常に楽になったと思う。
少子高齢化で 米作農家は激減した昨今、休耕田が多く見られるのが、なんとなく寂しい。今この田を掻いている農家の人も 減反の凝が心の隅にあるのでは、と独善的なことを考えていた
群生の 水仙海へ 傾斜なす
水仙に 海の碧さの 拡がりぬ
岬径 越せば拡ごる 水仙郷 逸考
冬の風物詩となっている南あわじ市の黒岩水仙郷は諭鶴羽山(標高約600メーター)から海に続
く45度の急斜面の一帯に500万本といわれる一重咲きのニホンスイセンが甘く優しい香を漂わ
せ咲き誇っている。
駐車場が狭いために臨時駐車場から水仙郷入口までシャトルバスを運行していた。
無造作に縛りつけたる注連飾 逸考
正月2日、港内の船溜りは漁も休みで静かに船体を横たえている。
檣の先端や船橋には注連が無造作に飾りつけてあった。
「注連飾る」 「松飾る」のように動詞の場合は季語は新年でなく冬になる。
空白のページの多くブログ(日記)果つ 逸考
写真俳句として始めたこのブログも、最近は次第に投稿することが少なくなり
一か月に1~2回となってきた。俳句は作れても、コラボレートする写真の
ストックがない。俳句は足で稼げといわれるが、写真もまた然りだ。 来年は
少なくとも月の三分の一程度は 投稿できるよう努めようと思う。
極月の花とし売らるシクラメン 逸考
最近は花舗などの店頭に ポインセチアやシクラメンの鉢花が 美しく飾られ売られている。
まさしく師走の花として定着してきた感じ。
ギリシャ語の「旋回する」「円形」が語源で、花茎がくるくる巻くことからつけられたらしい。
別名を和名 「カガリビバナ」とも呼ばれている。
風だまり日だまり桜落葉かな 逸考
また 一枚 ひらひらと桜紅葉が
山裾の風に乗って 舞い落ちる
日にさらされ 軽やかに乾いた音
さらさらと海からの風に 乗って
風の吹き溜まり 日だまりへ
桜落葉が舞い落ちる
新しい芽ぶきに いのちを 託して
しずかに 舞い落ちる