以下引用 【一般の部】<読売新聞社賞> 「看護師Eさんとの出会い」 山田 幸夫(兵庫県) http://www.med.or.jp/people/kokoro/34/03.html
私と妻、娘は耳が聞こえません。手話で会話をする「ろう者」です。
娘が小学4年生の時に激しい腹痛を訴え、妻と母が市民病院へ娘を連れて受診に行ったのですが、医者はろう者である妻へ説明はせず、健聴者の母の方へ口頭で説明しました。ひどい便秘から来る腹痛ですので浣腸(かんちょう)をしてみましょう、盲腸の疑いも捨てきれないので念のため数日入院を、との事。診察後、待合室で母は妻にゆっくりとこう説明しました。「大丈夫、心配ない。少し入院する」。ただそれだけでした。妻は、会話の内容を全部知りたかった。大事な一人娘に何が起こっているのか。妻は母に遠慮してなかなか聞けずにいました。そんな時、たまたま近くを通りかかった看護師Eさんが妻の様子をいち早く察したのでしょう、妻のところへ近寄ってゆき、「もしかしてあなたはろう者ですか?」と手話で話しかけ、こう言いました。「私が医者の言葉を手話通訳しましょうか」と。妻は大変驚きましたが、「是非お願いします」と手話で答えました。Eさんはもう一度、医師の説明を妻へ手話通訳しました。妻は、手話通訳を通してようやく娘の症状について理解出来たのです。妻はどんなにか安堵(あんど)したことでしょう。
Eさんは、M県からI市に引っ越しされ、ここで働いているとのことでした。それにEさんはご両親も私達(たち)と同じ「ろう者」であり、ろうのご両親を持つ「コーダ」だったのです。待合室で不安げな妻の様子を一目で見て「ろう者」だとピンときたそうでした。当時は「手話通訳派遣制度」がまだ実現されておらず、さらに医師や看護師達も「ろう者」に対する理解がまだそれ程なかった頃です。ろう者にとって病院とは、症状をうまく訴えられず、医師達の話もわからず、「大変行きにくい病院」だったのです。
妻をきっかけにEさんは院内手話サークル「たんぽぽ」を立ち上げました。一般の手話サークルと違って、看護師さん達が集まる院内の手話サークルでした。私も手話指導に関わりましたが、看護師さん達は夜勤などでなかなか集まらず、激務の疲れもあってか手話を覚えるのにも時間がかかりました。挨拶(あいさつ)の手話から次第に、医療用語をどう手話表現したら、ろう者に伝わるか、看護師さん達と色々相談しながら進めていくまでになりました。医療事務の方も加わるようになり、少しずつ人数が増えてきました。そして地元のろうあ協会の行事にも参加するようになり、「ろう者」に対する理解が少しずつ広まりました。
そんなある日、妻が癌(がん)になり10年にわたる長期入院せざるを得なくなりましたが、「たんぽぽ」の皆さんのおかげで快適な入院生活を送れたと思います。ろう者に理解のある主治医と少し手話が出来る看護師さん達、そして話の内容をもれなく手話通訳で伝えるEさん。もうあの頃の不安げな妻ではありません。しっかりと自分の病状を手話通訳を通じて知り、抗がん剤のひどい副作用にも耐えました。今となっては、本当にEさんや「たんぽぽ」の皆さんのお陰だと思います。もし彼女らがいなければ、情報保障もない中で妻は治療を拒否したかもしれず。恵まれた環境の中、辛(つら)い治療にも耐えてこられたのだと今改めてそう思います。
そんな院内手話サークル「たんぽぽ」も早(は)や30周年を迎え、ろう者に対する意識も向上してきました。例えばろうの患者さんが診察室に入ると、真っ先に医師はマスクを外します。口が見えないと、ろう者は安心できないのです。そんなろう者の心情をEさんはよく知っていて、年に何回か医者や看護師、事務員達を対象に勉強会を開催し伝えていったのです。Eさんの必死な取り組みの賜物(たまもの)です。
現在、市民病院には平日常在の院内専属手話通訳さんがいます。そして看護師さん達も簡単な手話で話すことが出来ます。噂(うわさ)を聞きつけた、ろう者がそこの病院なら安心と訪れるようになり、手話通訳は年間300を超えるそうです。
ろう患者さんが、安心して医療を受けられるようにする。それがEさんの願いでした。そんなEさんの願いは30年たった今でも着々と受け継がれています。
ろう患者にとって居心地のいい市民病院。私はそんな病院を誇りに思います。そして偶然、あの日、声をかけてくれた、Eさんに大変感謝の念でいっぱいです。これからも、ろう者の命を守り続け、ろう者に光を照らす病院であって欲しいと切に思います。
コーダ看護師Eさんに捧(ささ)ぐ。
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思わず、感動しましたね。
命に関わることですから、ろう者が安心して医療を受けられる環境、整備が大事ですね。