因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

猫の会その6『漂着種子2013』

2013-02-10 | 舞台

*北村耕治戯曲 北澤秀人演出 公式サイトはこちら 1984版と交互上演 下北沢小劇場楽園 17日まで(1,2
 前日の『漂着種子1984』から30年後、同じ島の同じ部屋で、主人公の娘をめぐる人々の物語だ。民宿はもう廃業しているのか、若いころ演劇をやっていた伯母も関わっているらしい島の劇団員たちが稽古やら飲み会やらでにぎやかに出入りしている。

 30年というと大変な年月だと思っていたが、いやどうしてあっという間である。三姉妹の三女である前作の主人公は東京にいる長姉のもとで娘を産んで育てた。母親の血をひいたのか、娘もまた絵を描くことを生業にしている。仕事やプライベートで煮つまったのか、わけありな風情で母親のふるさとへやってきた。

 2作がゆるやかにつながり、広がってひとつの物語を形成しているから、そのりょうほうを1984→2013と時間のながれにそってみられたことは、自分にとって幸運であった。

 前作では名前が聞かれるだけだった次女の息子がおっとりした青年になって登場し、逆にその母親である次女はまったく顔をださない。聞きとるのに苦労した八丈方言はずいぶん控えめになっており、時のながれを感じさせる。

 いつものくせで、「1984版で謎のままだった小学校教師や漁師のことが30年後に明らかにされるのでは?」と期待したが、いつのまにかそれを忘れていた。芝居をみる目的というのは、何かを新しく知ることや、舞台上の問題が解決されるのを見届けることとは別のところにもあることに気づかされるのである。といってただの雰囲気が描かれているのではなく、生身の人間がたしかに生きて存在していたことが伝わってくる。

 主軸になる人物がいて、ほかの人物がその人とどう関わるかの厚みはさまざまである。一対一の関係にゆるやかにすべりこんだり、ぶしつけに割り込んだりする第三、第四の人物の立ち位置や造形によって、劇世界に陰影や奥行きが生まれる。いかにもキーパーソン的な在り方ではあざとくなってしまい、むずかしいところであろう。
 1984版でいえば主人公の長姉であり、2013版では主人公の娘の同僚だった女性である。また後者では娘の秘密が明かされるのだが、率直にいってそれが必然の内容なのか、物語に力を及ぼすには時間が足りず、だからといってその点をぐいぐい追及してしまうとべつの話になってしまうようにも思えて、そのまま受けとめるにはとまどいが残った。

 1984、2013ともに、俳優陣は実に適材適所である。劇作家北村耕治のよき理解者であり、それぞれの演出家の誠実な仕事に応えている様子はほんとうに好ましい。
 1984版に登場した方向音痴の心優しい小学校教師、彼に惹かれてゆく主人公、ともにしっかりと地に足のついた造形で、2013版に登場する女性がそのふたりのあいだに生まれた娘であることが不自然でなく納得できる。あなたの父と母をわたしは少しだけ知っている。そういう思いで彼女をみつめることができるのである。

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