団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説キャナルタウン 59 和田岬線(後編)旧湊川と湊川改修会社

2020-08-14 05:57:36 | 日記
 小説キャナルタウン 59 和田岬線(前編)和田岬線の誕生(2020.8.7)の続きとなります。

 和田岬線は山陽鉄道の海岸から兵庫間の資材運搬用の線路を利用して、明治23年7月8日貨物線として開業します。旅客輸送

は明治44年からとなります。今回は和田岬線誕生の理由となった旧湊川です。

       明治16年地図 

  

 神戸・大阪間は明治7年5月11日に開通します。神戸駅の用地7万坪は兵庫津の豪商北風正造の寄付によるものですが線路は

神戸止まりです。大阪から、芦屋川・住吉川・石屋川の3本のトンネルが掘られましたが何れも工費がかかる難工事で湊川を越え

ることが出来ませんでした。浜は「高浜船登し」と呼ばれる風物詩で北前船を冬の間、浜に揚げて養生する様子を描いた絵が

残っています。内陸部は北風家の所有する新田でした。

 地図の右上の角に「川がないのに橋がある」と歌われた相生橋の陸橋があります。

    

 写真 左 おそらく湊川が山から出て、旧湊川に向かうカーブの部分だと思います。古湊川は直進し兵庫津辺りに三角州を形成し

     海に注いでいました。古湊川から旧湊川の付け替えがいつ行われたかは記録がありませんが、兵庫城を築いた池田恒興

     の時代ではないかと思われています。

 写真 右 湊川は川幅27mの大きな川で、堤防の上には水茶屋が並んでいるのが写っており市民の憩いの場でした。ただ水があ

     るのは雨の後だけで普段は砂場として子供の遊び場でした。江戸時代は橋がかけられておらず川止めの時は兵庫の宿

     に旅人があふれたそうです。西国大名は兵庫津から陸路を取りますが軍事的な効果は有ったのでしょうか。

     開港時、居留地の外国人の自由な散歩の範囲は湊川・生田川間に制限されいましたが、わかりやすい見印だったので

     トラブルは少なかったようです。

   絵葉書は絵葉書資料館で販売のものです。字は絵葉書を出した人がかいたお便りです。

       明治28年の地図       

  

 明治22年9月1日、湊川にトンネルが出来て神戸・兵庫間が開通します。しかし湊川は土砂で神戸港を埋め続け、高さ6m

の天井川は、神戸と兵庫を分断し、人力車は湊川を超えるのに難儀をし、水害の危険性が付きまといます。

 湊川の付け替え計画は明治の初めからありましたが、明治28年資本金100万円で湊川改修会社を設立、明治29年4月流域

付替工事を政府に出願します。一方付替反対の運動もありましたが、明治29年8月の台風による豪雨で湊川左岸が決壊、800

戸が浸水、福原遊郭などで38人が死亡、神戸駅も浸水します。

 29年12月に政府の許可が下り30年7月公有水面一部埋め立て許可、同11月、湊川旧敷地の無料払い下げを神戸市と契

約、工事開始、明治34年8月工事が竣工します。

       明治41年の地図               

  

 湊川は湊川隧道を通って刈藻川に合流します。

  

 明治35年4月、湊川の旧敷地58299坪を神戸市から無償譲渡を受け明治38年下期に旧湊川整地工事を完了ます。また明

治39年には旧湊川の河口付近19000坪の埋め立てを完了します。旧湊川敷地がきれいな「分譲地」になっていることがわか

ります。

       ブラタモリが歩いた道

 NHKのブラタモリで地形は紹介されましたが、この事業が湊川改修会社という民間会社でなされたことが触れられていなかっ

たのが残念でした。ブラタモリが歩いたのは多聞通から北の部分だったと思います。新開地通りを北上します。

   

 多聞通から南は付近の地盤に合わせて天井川部分を完全に撤去しましたのでトンネルの痕跡は何もありません。

 トンネルと言っても、仮設の河道を造りトンネル設置後に河道を戻したもので掘り進んだわけではありません。

      写真 右 は湊川隧道の保存について 兵庫県県民局神戸土木事務所 から転載。

   

 写真 左 映画と演劇の街、新開地をシンボルとしてチャップリンのシルエットの門が造られました。手前の交差点が西国街道と

     なります。

 写真 右 多聞通の交差点です。ここから湊川公園まで15分の1の勾配(15mで1m登る)で造成されました。

   

 商店街の中の店舗は階段状になります。

   

 写真 左 湊川公園の下に、大正10年湊川トンネルが造られ、山手幹線と市電が通りました。

 写真 右 湊川公園は湊川を埋め立てて堤防の高さで造られています。


         湊川隧道

       湊川隧道(会下山トンネル)から新湊川トンネルへ

  

 湊川隧道(会下山トンネル)は、旧湊川の付替えに伴い明治34年(西暦1901年)に建設された我が国で最初の近代的河川

トンネルです。

 付替えられた新湊川については、震災前より河道拡幅を伴う河川整備を行っていましたが、平成7年(1995年)1月17日

に発生した兵庫県南部地震により、湊川隧道の下流側坑口の崩壊や内部の煉瓦積みに剥離や亀裂が発生しました。

 このため、兵庫県では河川災害復旧助成事業により、湊川隧道に比べて約2倍以上の断面積を有する大断面の新湊川トンネルを

建設しました。

 新湊川トンネルの坑門デザインは、明治期における湊川隧道の意匠を高く評価し、これを承継しています。

 一方、河川トンネルとしての機能を終えた湊川隧道の内部は建設当時のまま保存されています。

                                               兵 庫 県

  ■湊川隧道の概要                       ■新湊川トンネルの概要

    完   成    明治34年(昭和3年増築)          完   成   平成14年3月

    主 構 造    煉瓦積み及び御影石敷            主 構 造   コンクリート

    延   長    670m(増築後)              延   長   683.2m

    内空断面積    約45㎡                   内空断面積   約105㎡

    ※神戸有馬電気鉄道(神戸電鉄)が新湊川をまたぐこととなり昭和3年トンネルが66m延長されました。

   

 地下に2本のトンネルがあります。南(左)側が湊川隧道、北(右)側が新湊川トンネルになります。湊川隧道には左上の湊川

隧道の復元模擬入口から斜坑を下って入ります。

   

 写真 左 模擬入口から中の写真です。コロナ以前は定期的に見学会があり、色々な催しものが行われていました。

 写真 右 現在の出口です。 

       
       湊川改修会社の清算

 湊川改修会社は明治29年、湊川を付け替えることにより、神戸港への土砂の流入を防止し、神戸・兵庫間の交通の障害と洪水

の危険性を除去する、そして湊川跡地と海面埋め立て地の処分をもって工事費に充てる、民間の会社として資本金100万円で設

立されました。

 湊川付け替え工事は工事費110万円をもって明治34年8月に竣工、翌35年6月検査が終わり、旧湊川敷地が58299坪

が神戸市から無代譲渡されます。しかしこの間の会社の収入は掘削残土による小規模の埋立地の処分のみで、資本金は使い果たし

借金のある状態で工事にかかれません。大倉喜八郎から30万円の借金をして明治38年下期には旧湊川整地完了、同39年には

19000坪の埋立工事も終わります。大倉山公園は大倉喜八郎の別荘で神戸市に寄贈されました。湊川の付け替え工事は大倉喜

八郎の大倉組(現 大成建設)が請け負っています。

 明治39年8月湊川隧道の瑕疵期間が満了、維持管理義務が解除され、同40年1月会社は解散します。この間、敷地を処分し

て配当すること9回、それまでの配当を含め配当総額は、50円に対して122円50銭、年間の利回りは約8%で事業とし

ても成功でした。

 土地を処分した時期は日露戦争後の不況で大変苦労しましたが、数年を経ずして東の浅草、西の新開地と並び称される大歓楽街

に変身します。1坪1円程度の借地料は8円に、大倉喜八郎に拝むようにして坪50円で買ってもらった4000坪の映画館用地

は坪数百円に高騰します。

       神戸市民は川が好き

 平成20年7月28日局地的な集中豪雨により神戸市灘区の都賀川で川遊び中の15人が流され、5人が死亡します。安全策は

強化されましたが、川遊び禁止の発想は有りませんでした。

   

 中程度に増水したトンネル出口の長田区側の新湊川です。湊川隧道の改修と共に新湊川も改修されました。昔は流木が引っかか

るのを防ぐため橋の欄干を取り外したそうです。

   

 こんなに深くなった川ですが神戸市民が川を愛する心は変わりません。

  

 写真は平成30年8月5日のものです。本来は灯篭流しなのですが、豪雨で川底が荒れているのでこの年は流れませんでした。


       その他の鉄道トンネル

 大阪・神戸間、開通時には芦屋川・住吉川・石屋川にトンネルが掘られました。いずれも天井川のため、仮設の河道設置後、開

削してトンネルを設置して河道を戻しました。

       石屋川

   

 昭和51年に高架化されて東海道線は川の上を走っています。トンネルの一部が道路として利用され記念のプレートがあます。

              石屋川トンネル

 明治4年に完成した日本最古の川底を通る鉄道トンネル跡。石屋川は、川底が平地より高い天井川で、開通当時、東海道線は平

地を走っていたので、川底にトンネルを造り、鉄道を敷設しました。昭和51年に高架化しました。

       住吉川

   

 現在も川の下を東海道線が走っています。JRより下流部分は天井川の解消が図られ、都会の中で連続するミニナイアガラ瀑

布の景観を楽しむことが出来ます。両岸の道路は、山の宅地造成で出た土砂を埋立地に運ぶダンプカー専用道路でしたが、現在は

遊歩道になっておりウオーキングやジョギングする人の姿が多くみられます。

 芦屋川も現在も川の下を東海道線が走っています。

       生田川

  

 生田川も大変な天井川でした、新生田川水色の直線の河ですが、旧生田川は現在のフラワーロード、地図上では斜めの道になり

ます。旧居留地がすぐ西にあり決壊すれば大被害が予想され、明治4年、加納宗七が政府から請け負い3か月で完成させました。

加納宗七は旧生田川跡地を兵庫県から落札、整地して販売します。新神戸駅から海岸近くまで、細長い加納町の名が今に残りま

す。湊川改修会社のヒントはここにありました。したがって生田川にトンネルが掘られることもありませんでした。

       神戸市の天井川

 神戸市に天井川が多いのは、六甲山から流れ出る急峻な流れのみが原因ではありません。今六甲山が緑の木々に覆われているの

は、大洪水をへて明治30年から始まった近代的な砂防工事と植林の賜物で、以前の六甲山は全くのはげ山でした。平安期の巨

大な寺院建築、武士の戦乱の時代を通じて六甲山の木は切られ続けます。そして秀吉の大坂城築城のための御影石の切り出しの恩

賞として出された「武庫山の樹木伐採勝手足るべし」のお触れで一気にはげ山化が進みました。


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