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夏目漱石を読むという虚栄 5530

2021-12-18 00:20:04 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5500 「偉大なる心の自由」

5530 「自由行動」

5531 「無分別に」

 

「演説の意味」(『三四郎』六)は語り手の要約によるものだ。勿論、三四郎も同様の要約をしたのだろう。だから、「演説」そのものが意味不明ではなかった可能性は、あることはある。しかし、その場合、作者の意図が疑わしくなる。なぜ、作者は、「意味」でなく、「演説」そのものを提示しなかったのだろう。不明。

翌日は運動会だった。

 

<どうしてああ無分別に走(か)ける気になれたものだろうと思った。然し婦人連は悉く熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に走(ママ)けてみたくなった。一番に到着したものが、紫の猿股(さるまた)を穿(は)いて婦人席の方を向いて立っている。能く見ると昨夜(ゆうべ)の親睦会で演説をした学生に似ている。

(夏目漱石『三四郎』六)>

 

「無分別」は「自由」の類語かもしれない。「走(か)ける」のは男子学生たち。「なれた」は〈なれる〉が適当だが、揶揄かもしれない。「思った」のは三四郎。

「然し」が機能するためには、たとえば、〈「然し婦人連は」そんなことは思わないらしく、「悉く熱心に見ている」ようだ〉などとすべき。「婦人連」は観客席にいる。「悉く」が三四郎の印象を表すとしたら、彼はやや正気を失っているのだろう。

「よし子」にも三四郎は気がある。「熱心らしい」と思うのは、三四郎が二人のことしか知らないからだろう。ただし、語り手の意図は不明。

「無分別」は「自由行動」(『三四郎』六)の類語だろう。「偉大なる心の自由」(『三四郎』六)の発露ではなかろう。三四郎は、昨夜のアジのせいで「無分別」に憧れるようになったらしい。では、アジの「自由」には「無分別」といったマイナスの価値も含まれていたのか。そうではあるまい。三四郎は誤解したのかもしれない。ただし、自分が誤解していることに気づいていないらしい。けれども、そうした文芸的表現になってはいない。

三四郎は妄想的になっているらしい。「紫の猿股(さるまた)を穿(は)いて婦人席の方を向いて立っている」という姿は「偉大なる心の自由」の発現なのか。そうではあるまい。だが、「偉大なる心の自由」を獲得すれば、無邪気に「無分別に」なれそうに思えたか。

「似ている」が、しかし、三四郎の錯覚らしい。「無分別に」行動できる体育会系男子の雄姿と、「昨夜(ゆうべ)」のアジテーターの雄姿が重なったようだ。しかし、そうした文芸的表現になっているとは考えにくい。作者は何をしているのだろう。

この後、三四郎は美禰子らと連れ立って歩き、そして、むなしく別れる。すると、「与次郎と昨夕(ゆうべ)の会で演説をした学生」(『三四郎』六)を見かける。「昨夜(ゆうべ)」が「昨夕(ゆうべ)」になっている。時間が早まっているわけだ。三四郎は記憶を偽造したのか。作者自身、記憶を偽造してしまったか。三四郎は彼らと合流しなかったようだが、そうだとしたら、その理由が不明。この二人の男子学生は、美禰子らを、いわば反転させたもので、三四郎の幻想だろう。三四郎は、いや、作者は、男女を対称的な存在のように勘違いしているのだろう。勿論、そうした文芸的表現が試みられている様子はない。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5500 「偉大なる心の自由」

5530 「自由行動」

5532 気ままとわがまま

 

本来、人間に自由意志は備わっているのか。

 

<自分の行為を自由に決定できる自発性があること。哲学史上、これを肯定する非決定論と否定する決定論との間で論争がある。

(『広辞苑』「意志の自由」)>

 

『三四郎』の作者は、この「論争」をスルーしているらしい。

 

<周囲の事情を顧みない「自由奔放」と異なり、さまざまな事情に柔軟に対応できる心の広さをいう場合に用いられる。

(『大修館 四字熟語辞典』「自由闊達」)>

 

「自由奔放」は、必ずしもマイナスの価値ではない。

 

<この僧都(そうづ)、みめよく力強(ちからつよ)く、大食(たいしょく)にて、能書(のうじよ)、学(がく)匠(しやう)、辯(べん)舌(ぜつ)、人にすぐれて、宗(しゆう)の法(ほふ)燈(とう)なれば、寺中(じちゆう)にも重(おも)く思はれたりけれども、世(よ)を軽(かろ)く思ひたる曲者(くせもの)にて、万(よろづ)自(じ)由(いう)にして、大方(おほかた)、人に従(したが)ふといふ事なし。

(吉田兼好『徒然草』「第六十段 真乘院に、盛親僧都とて」)>

 

「この僧都(そうづ)」の言動は、「寺中(じちゆう)」では〈闊達〉のようなプラスの評価を与えられていた。一方、寺の外の「大方(おほかた)」では〈放恣〉といったマイナスの評価を受けていたか。

 

<今日用いる「自由」は、liberty,freedomの訳語に由来する。しかし、本来の「自由」はわがまま・奔放の意味であったため、訳語として採用することに異論もあったという。  [鈴木丹士郎]

(『古語大辞典』「じ‐いう【自由】」)>

 

「わがまま・奔放」も、必ずしもマイナスの価値ではない。

 

<「気まま」は、自分の気持ちを重んじ、その気持ちの向くままに行動すること。「わがまま」は、それが他人の気持ちや都合とぶつかっても、なお自分の思いどおりにしようとすること、または、そのような性格の人。「気まま」は、自分の気持ちだけが問題であるが、「わがまま」は他人との関係が問題になる。

(『類語例解辞典』203―35)>

 

夏目語の「自由」には、プラスとマイナスの評価が入り混じっているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5500 「偉大なる心の自由」

5530 「自由行動」

5533 「たいへんなまちがい」

 

〈自由〉という日本語の意味を、日本人は共有していない。

 

<民主主義は、国民を個人として尊重する。したがって民主主義は、社会の秩序および公共の福祉と両立するかぎり個人にできるだけ多くの自由を認める。各人が生活を経営し、幸福を築きあげてゆくことは、他人に譲り渡すことのできない自然の権利であるとみる。

しかし、持ちつ持たれつのこの世の中では、そうした自由および権利と照応して、社会の一員として守るべき義務があることは当然である。民主主義は、ひろく個人の自由を認めるが、それをかって気ままと混同するのは、たいへんなまちがいである。

(文部省『民主主義』「第一章 民主主義の本質」「四 自由と平等」)>

 

〈「民主主義は」~「尊重する」〉は意味不明。文部省は日本語を使えない。

「したがって」は機能してない。どこの誰が「両立する」と認めるのか。「かぎり」という話は邪魔。「できるだけ」は笑止千万。

「幸福を築きあげて」は意味不明。「ゆくことは、他人に譲り渡す」は意味不明。

「自然の権利」は〈自然権〉が妥当。なぜ、文部省はこの言葉を用いないのか。

 

<すべての人間が生まれながらに持っているとされる権利。近代の自然法論によれば、この権利は国家以前に存し、国家によって人為的に与えられたものではないから、国家はこれを侵害し得ないとされる。天賦人権。人権。

(『広辞苑』「自然権」)>

 

文部省は、「国家以前に存し」という考えをできるだけ薄めようとして、意味不明の言葉を並べてみた。だが、うまくいかなかった。だから、次の段落の「しかし」で居直り、馬脚をあらわすことになる。

文部省は根本的に間違っている。「自由および権利」というように並べてはいけない。「自由」に「照応して」いるものなど、何もないからだ。「自由」は絶対的だ。「義務」に「照応して」と言えそうなのは「権利」だが、「義務」と「権利」は出所が異なる。それらを「照応して」いるようにするため、国家は法律を拵える。文部省は、〈政権は自然権を制限できる〉と明言すべきなのだ。その政権を選択するためのシステムが民主主義だ。というのは、無論、絵に描いた餅。民主主義は衆愚政治に堕す危険性を常に孕んでいる。常識。

出典不明の開化の漢語と俗語の和語を「混同するのは、たいへんなまちがい」だ。「かって気まま」は、必ずしもマイナスの価値で用いられる語ではない。「かって気まま」をマイナスの価値で用い、「自由」をプラスの価値で用いて、両者を並べるのは、詭弁ですらない。〈「自由」と「かって気まま」は違う〉というのは、〈自由には良い自由と良くない自由があって、良い自由は良いが、良くない自由は良くない〉というのと同じことだ。無意味。

「わがままは男の罪 それを許さないのが女の罪」(作詞・作曲:財津和夫『虹とスニーカーの頃』)ということで、休憩。

(5530終)


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