ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 ~第二部と第三部の間 (6/12)空気 (7/12)どっちもどっち

2023-12-31 23:59:37 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

    ~第二部と第三部の間

(6/12)空気

高慢な人間は不適当な文脈を暗示して他人の思考力を減退させ、他人を奴隷にする。

Nは、彼自身の内部の高慢な人格、「黒い影」(『こころ』「先生と遺書」五十五)の本音を忖度できず、Sと同様に自らを自らの奴隷にして苦しんでいた。

独裁者は、共有されていない文脈を暗示し、大衆の思考力を減退させ、大衆を奴隷にする。逆に言うと、大衆が共有できていないはずの文脈を共有できているかのように錯覚したら、独裁者がいなくても、全体主義的風潮が広がる。

独裁者不在の全体主義的風潮を〈空気〉と言う。空気の性質は、右翼的であることもあるし、左翼的であることもある。中立的ですらある。思想の傾向とは無関係に、〈忖度という家畜人の虚栄〉の空気は拡散してしまう。

空気という独裁者が大日本帝国を無謀な戦争に駆り立てた。

この空気を近代の日本において醸成したのが、文豪夏目漱石だ。

忖度は隷従の始まり。

(7/12)どっちもどっち

「僕が君の位置に立っているとすれば」という言葉の背景には、平等主義とか個性尊重みたいな思想があるように誤解する人がいるのだろう。そして、自分には教養があると自己欺瞞して嬉しがるのだろう。甘い。いや、危ない。

忖度を「人をいたわしく思う心。あわれみの気持ち」(『広辞苑』「惻隠の情」)などと混同しているのかもしれない。混同するのは知識があるからだが、本当は知恵が足りないからだ。

〈あなたのためだから〉の真意は〈(私にとって都合のいい人になるのが)あなたのためだから〉ということだろう。それぐらい、知っている人は知っている。知らない人は知らないが、知っていながら否定する人はおかしい。否定しない根拠はなくてもいい。半信半疑で様子見だ。否定するのなら、その根拠を明示しなければならない。

「みんなちがって、みんないい。」(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)という文の思想は個性尊重みたいだ。でも、違う。卑怯で狡猾。

この文の意味は、「君は君、我は我なり。されど仲よき」(武者小路実篤)に似ている。だが、まったく違う。こちらには「されど」があるから、逆説的な意味がある。平等というのは、簡単に纏めると〈「みんな、ちがって」いない〉ということだ。属性の相違を超越した本質的な何かを直感できなければ、「いい」なんてとても言えるもんじゃない。

近頃流行の多様性云々など、絵に描いた餅だ。聖人君子にしか実践できない。のぼせるんじゃないよ。多様性の尊重とは、資本主義体制における労働者や消費者の平等のことだ。働いてくれるのなら、あるいは金を払ってくれるのなら、性、人種、民族、体質、神経、知能など無関係ということだ。寝たきりでも臓器移植の役に立つ。多様性とは、そういう人誑しの標語だ。

「惻隠の心」(『孟子』「公孫丑章句上」)の後、「爾は爾たり、我は我たり」と自慢げに語った柳下恵について、孟子は「不恭」と評する。「君は君、我は我なり」というのは駄目な思想なのだ。その前提があるから、「されど」以下が活きる。

一方、「みんなちがって、みんないい」だと、何のことやら、わからない。

〈「みんなちがって」いても「みんないい」〉という意味か。

〈「みんなちがって」いるからこそ「みんないい」〉という意味か。

どっちだ。どっちでもないのか。どっちもだろう。

「みんなちがって」云々の真意は〈「みんな」と私は「ちがって」いるからこそ「みんな」は私を「いい」と褒めなさい〉といった優越感の物語だ。この文の前提にあるのは、言うまでもなく、〈「みんな」と私は「ちがって」いるから「みんな」は私を「いい」と褒めてくれない〉という劣等感の物語だ。

劣等感の物語が無根拠に優越感の物語に転化する。劣等感の物語の否定としてしか語りえない優越感の物語だ。コンプレックスの露呈。混濁の表出。物語の闇汁状態。恨みを残したままの虚偽の赦し。人誑し。

本当は、どきどき、はらはら、びくびく、おどおどしているくせに、狭量のくせに、酸いも甘いも嚙み分ける大人を気取る駄々っ子。ウザいオッサン。男オバハンも含む。

(続)

 


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