萌芽落花ノート
8 羽音
令子のスカーフがきっと絞められたので、僕は諦めてコートを着せ掛けた。
ゆらゆらと薄暗がりの狭い階段を下りて来るタイツの脚。
両手に踵の高い靴を分け持ち。
振り返りもせず、男物の靴が散乱する玄関を通過。
僕の声に答えるのは、背中のスカーフだけだ。
そんな仕草を古い映画で見たよ、確かに。
喫茶。
「何になるの、こんなふうに生きてて」
そんな台詞が深夜のラジオから流れているのを聞いたことがあるよ、多分。
僕のコーヒーは冷めた。
令子は、縞になったココアのカップの内側を見下ろしている。
ざわめく倦怠。
気まずい思いが煙草の煙となって、二つのカップの間をゆったりと上る。
僕は、いつからか、おかしな音を聞いている。僕だけは、多分。
物憂い音楽が途切れて、僕はやっと言葉を見つける。見つけたふりをする。耳鳴りを翻訳した。そのつもりだ。そのつもりになれたらいいのだが。
「君は誤解しているらしいね」
令子は聞き飽きた昔話を聞かされたときのように溜息を漏らしてから、小説か何かを読んで覚えたらしい単語を並べる、カード遊びのように。
「だから、どうなの、あなたは」
僕は切り札を出す、ゲームのルールは知らないのだけれど。
「僕も誤解していたらしいね」
「私も誤解してたのよ」
どこかで誰かが笑う。
「初めてだね、意見が合うのは」
令子の目が大きく開く。
コーヒーを啜ろうとしたら、いつの間にか、令子が起立している。
見上げると、作り笑い。それが仮面のように剥がれて落ちたぞ。拾え。
「もう会わない」
そう。それがいい。
だが、僕の返事を待たず、空席が生じる。僕はずっと空席に向かって話しかけていたみたいだ。苦笑。
口を利くことも立ち上がることもできないまま、コーヒーで唇を濡らす。
勘定を済ませて店を出ると、令子が手を挙げている。タクシーが停まった。
言葉にならない声に応えるつもりか、令子は無邪気な笑顔を向けた。
「お元気で」
意外に簡単だったな。
耳鳴りがグインと持ち上がった。それが街頭の騒音と馴染んだり縺れたりする。どれが内部の音で、どれが外部の音か。
まるで明日が来るのを憎んでいるみたいな人波に紛れ、僕は今日が終わるのを頼りにして、歩く、どこへともなく。
ああ。この倦怠。
令子に憎まれたかった。令子が「あの男」を憎むように。そうすれば、僕も令子を憎むことができる。そうすれば、「あの女」と呼んで笑ってやれる。令子が「あの男」を笑うように。
歩道に唾を吐く。
僕は誰をも憎まない。憎むということがどういう仕事なのか、知らない。だから、令子に憎まれたい。
人の姿が奇妙に巨大に見える。驚く間もなく、ぐぐっと縮む。口の中が粘つく。
巨大な、巨大な、膨大な……
耳を塞ぐと、耳鳴りの音量が上がる。
人の姿を見まいとすれば、人の姿が巨大化する。
考えまいとすればするほど……
そして、何分かが経過した。何時間か。何日か。
僕はずっと同じ場所にいる。座り込んでいる。
路面に人の影が伸び、見上げると、令子だ。僕に笑いかけている。いつだろう、今は。
「人が見てるよ」と言うと、令子は大人しくなった。
編上げのブーツは脱がせず、四畳半に連れ込む。
掴んだ手を放すと、令子は赤く染まった手首を擦る、わざとらしく。そして、上目使いで唇の端を引き上げる。平手打ちをくれてやる。一度ではなく、二度、そして、三度。肩を引き寄せて唇を奪おうとするが、それは固く結ばれて開かない。突き放すと、コートをするりと脱ぎ、それを振り回す。画架から画きかけの絵が落ちる。
やがて疲れ、壁に凭れて、はあはあ、息を吐く。だが、冷たい視線を僕から離さない。
そうだ。憎め、僕を。憎まれている間だけ、僕は自由だ。
こんな光景を、いつか、見た。夢か?
令子は何やら語ろうとするらしいのだが、喉からヒューヒューという嗄れた声しか出ない。それは、声ではなく、音だ。耳鳴りのような音。
「死んだ女が抱きたいの?」
一度も解かれたことのないスカーフが滑り落ちる。喉には、斜めに赤黒い線が走っている。僕は恐れた。その傷跡が口を開き、本当のことを語り始めそうに思えたから。
黙れ! そして、語れ……
僕は、裂けそうな口を封じるために、首を絞めた。
「苦しいか。苦しめ。もっと苦しめ。これでも死んでいると言うのか」
答えはない。目も答えない。
自分の言葉に自分の行為を知らされ、僕は手を緩め、そして、半歩、退いた。
どちらの口も開かない。だが、何者かが語る。
「思い出した。とうとう思い出してしまった。折角忘れていたのに」
僕は藁人形のような女体を引き寄せる。
「嫌らしい虫たち。何て嫌な音かしら。飛び廻ってるのよ、そこら中を。ねえ、聞こえるでしょ、あの羽音が」
羽音?
羽音――
そうだ。羽音だ。
耳鳴りは、嫌らしい虫たちの羽音だったのだ。知っていた。忘れていただけだ。いつか、どこかで耳にした。そのはずだ。
いつからか、終わりが始まっていた。終わりは今も始まり続けている。
パンドラの匣が開いてから。
無数の邪悪な虫に交じって、一匹の〈希望〉が飛び立ったために、終わりが終わらないのだ。
僕は生きている死体に跨り、絶望との一体化を試みた。
奈落が欲しかった。誰かと二人で落ちて行ける奈落が。
――令子が遣る瀬無さそうに髪で顔を隠すのが、僕にははにかんだように見えた。
(終)