ヒルネボウ

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萌芽落花ノート   36 アンノン(2)

2025-03-13 22:54:22 | 

  萌芽落花ノート

  36 アンノン(2)

もう死んじゃったんだけど、私達のおじいさん。彼には瘤があったの。ほっぺじゃないよ。背中だよ。でも、私達は見えないふりをしてた。大人たちに話すと、「そんな物はないぞ」って冷たくあしらわれるから。驚いてもいないし、暗に叱ってんでもないんだ。

私達は彼のことを「ノートル」と呼んでた。言わずと知れた『ノートルダムの傴僂男』からだよ。彼は「ノートル」の意味を知ってたけど、知らないふりしてた。そういう可愛い人だったんだよね。ふふふ。

(そのとき、怒りっぽい孔雀みたいな客が入ってきた。ギンギラギンのロング・コートの前を広げ、くねくね、歩く。誰かを探しているみたいだ。その誰かは、すぐに見つかったらしく、鍔広の帽子を取って振った。アンノンは、数秒間、眩しそうに目を細めた)

何の話だっけ。古風? ああ、瘤ね。誰の? 誰でもいいのさ。どうせ死んじゃったんだもん。ノートルが死んだわけ? 知らない。誰も教えてくれなかった。知りたくもなかった。

(アンノンは田舎者のココアをずずっと啜った。話の続きを考えているんだね。思い出しているのかもしれないな、古い作り話を)

私達は、彼がよそ見をしている瞬間を狙って、くすくす、笑ったの。そういうゲームなのよね。おかしなことに、それに彼も参加してたの。笑われそうになると、ふっと横を向いてから、さっとこっちに視線を送るの。くふふ。

私達は彼の体を笑ったんじゃない。という、そういう嘘を共有していたんだね。でも、本当は、彼が《自分は体のせいで笑われているんじゃない》というふりをすることが、私達にはとっても滑稽だったのね。

そもそもさ、〈自分で自分のことをちゃんと知っている〉みたいな人って、おかしいよね。まるで酔っぱらいだ。ほぼ死んでる。ノートルは、生きてるうちから死んでたのさ。

私達は、笑いをこらえることができなくなると、走り出したよ。走って逃げた。走りながら笑って、笑って、涙が出るなんて、しょっちゅうだった。息切れがして、立ち止って俯く場所は決まってた。そこを私達は〈笑い場〉って呼んでたよ。廃墟にぽつんと残っている井戸の前なの。

すこし大人びて、私達はつつましやかなお詫びのテクニックを覚えたの。実存的偽善ね。〈瘤〉とは言わず、〈突起〉と呼んだ。それが人に知れると、〈塊り〉とか、〈肉〉とか言って、それもすぐに知れ渡ったから、最後は〈体〉よ。〈体〉と呟くだけで、もう、笑いが止まらなくなるの。カラダ、カラダ、カラダ。はははは。今でも笑える。

笑うと大人たちが変な顔をする。だから、丁寧にお辞儀をして、ほんの数秒間、頬を赤らめて見せるのよ。数秒間よ。長すぎたら駄目なの。お芝居だって、気づかれるから。ううん。お芝居だってことぐらい、誰だって知ってたよ。お芝居じゃないみたいに気を付けるために、数秒間が肝腎なの。一瞬だと無視される。

何もかもがお芝居だって、ノートルは知ってた。知ってても話題にはできない。そのきわどい感じが、とにかく、もう、笑えた、笑えた。

彼が死んだ朝というか、彼の死体を見た朝も、私達は必死に笑いをこらえ、笑い場まで駆けたよ。だって、嘘なんだもん。彼は死んじゃいないの。死んだふりしてるだけ。大人たちも、深刻そうな表情を拵えてるだけ。

もともと、死んでる人が、どうして死ねますか? 

(アンノンは、しばらく、話せなくなった。泣いているようだが、笑っている、声もなく。息が苦しそう。涙が目を濡らしたが、流れ出ることはなかった)

屍擬きを洗うとき、ちらっと見えたんだけど、彼の背中はすべすべだったの。うわあ。騙された! 私達の負けだよ。

口惜しいけど、さらに笑ったよ。

ノートルは、何もかも知ってたんだ。彼は私達を騙すために、毎朝、背中に袋を詰めていたのね。その様子を想像すると、もう、おかしくて、おかしくて…… 

どうやら、THE ENDらしかったんで、ちょっと気になっていたことを聞いてみた。

「さっきから〈私達〉って言ってるけど、兄弟とか、いたんですか?」

アンノンは、聞こえないふりをするために、ほとんど残っていないココアを啜って見せた。それから、不思議そうな笑みを浮かべて壁と天井の境あたりに視線を向けた。まるで宣戦布告みたい。じゃなきゃ、プロポーズかな。

「別に意味はないよ」

「えっ」

アンノンは消え入りそうになった。私は投網でも掛けるように続けた。

「兄弟じゃなきゃ、姉妹とか?」

「安穏のためよ。一人称単数って、なんか、危なっかしいんだもん」

むかついたね。すると、アンノンの姿が消えてってしまいそうになった。おいらは平手打ちを食わせてやったぞ。冴えない音が音楽を掃きだすほどに響いた。アンノンの体は、恐れと喜びに震えている。汚い。

いつの間にか、店の外にいた。

ドアが後ろで閉まった。

短い階段を上り、空を探した。

太陽。

眩しくないけど、暑かったよ。

(終)