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夏目漱石を読むという虚栄 7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」 7100 北極あるいは肛門 7130 知識人用語

2024-06-13 02:00:18 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7130 知識人用語

7131 ごますり野郎

 

知識人用語は怪しい。

 

男性1:座ってください。エリス・ボイド・レディングですね? ファイルによると、終身刑で40年服役したとありますが、自分で更生したと思いますか。

レッド:更生? なに、ちょっと考えてみるか。本当のところ、どういう意味だかもわからんね。

男1:つまり、あなたは社会に復帰する用意があるかということ――

レ:あんたが考えてる意味は知ってるよ、坊や。俺にとっちゃ、そんなのはただのでっちあげの単語、政治家用語さ。あんたたちみたいな若造にスーツとネクタイを着せて仕事を与えるためのね。あんたたち、本当は何が知りたいんだ? 俺が自分のしたことを後悔してるかどうかかい? 

男1:その……どうなんですか? 

レ:後悔しない日はない。刑務所に入れられたからでも、あんたたちに指導されたからでもない。おれはあの時の自分を振り返るんだ……恐ろしい罪を犯した、若くて馬鹿なガキ……そいつと話がしたい。そいつに分別を説いてやりたい。ものの道理を教えてやりたい。だが、できない。そのガキはどうにいなくなって、残されたのはこの年寄りだけだ。こうして生きていくのさ。「更生」? そんなのは、ただのくだらない用語だ。

(映画で覚える英会話 アルク・シネマ・シナリオシリーズ

『ショーシャンクの空に The Shawshank Redemption』翻訳:挙市玲子)

 

「政治家用語」は”politician’s word”の訳。

 

《俗》おべっか使い、ごますり屋;*《刑務所俗》うまいことやっていい仕事と特権をせしめるやつ、いやに要領のいい野郎。

(『リーダーズ英和辞典/リーダーズ・プラス』「politician」)

 

 「政治家」は〈政治屋〉が適当。

 

政治家を軽蔑していう語。政治にたずさわり、それによって利権を得たり名誉欲を満足させたりする人をいう。ポリティシャン。

(『日本国語大辞典』「政治屋」)

 

〈政治〉とは何か。一般的には「権力・政策・支配・自治に関わる現象」(『広辞苑』「政治」)と定義できる。政治屋は、権力を行使することが目的で動く。ジャイアンではない。スネ夫だ。政治屋は知識人だ。

『ショーシャンクの空に』の「坊や」は権力志向の官僚つまり知識人だ。ただし、弱者の声に耳を傾けるだけの度量はある。

 

 

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7130 知識人用語

7132 「厭世(えんせい)に近い覚悟」

 

Sは知識人だ。ただし、失敗した知識人だ。策士策に溺れる。二重に滑稽な人物だろう。

たとえば弁護士だと、自分の人生観などは棚上げにして、とにかく裁判に勝つために論じる。勝てればいい。でも、負けたら、負けてばかりいたら、どうなる? 

勝ち組の知識人は、議論に長けている。だが、SやKは、人を説得することができない。そこらの凡人より話が下手なのだ。だから、孤立していた。

 

我々は実際偉くなる積りでいたのです。ことにKは強かったのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十九)

 

知識人は失敗するに決まっている。たとえ、「偉く」なれたとしても、内心はひやひや、はらはらしながら暮らしているのに違いない。

「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」(下三十)というKの言葉は知識人用語だ。こんな意味不明の言葉を口にしたから、後にSからしっぺ返しを食ってしまった。一方、Sはこの言葉のK的意味を知らないから、議論に勝った気になれない。笑えない漫才だ。『こころ』なんて、意味不明なだけで、面白くもおかしくもない。

Sは、Kの自殺によって、「人間の罪というもの」(下五十四)を捏造し、後追い自殺みたいなことを夢見るようになる。だが、話は逆なのだ。もともと、知識人Sは、思想的に破綻していた。Sは、誰かを傷つけずにはいられない知識人だった。小難しい用語を口にして空威張りをする。虚勢を張る。過剰防衛。Kも同様だ。SとKは、身近な人々を知識人用語で傷つけながら生きていた。彼らは人に嫌われて孤立していた。ただし、二人だけは言葉の暴力をじゃれ合いのよう装うことで、友達ごっこを続けてきた。彼らの関係は、いつからか、一触即発の状態にあった。静の登場によって、友達ごっこが限界に達したわけだ。静は、重要人物ではない。

Nの小説に登場する知識人は、男女を問わず、言葉遣いが拙い。

「人間の罪というもの」という言葉は「人間らしいという言葉」(下三十一)を裏返したものだ。Sはこうした言葉によって「自分の弱点の凡てを隠して」(下三十一)生きてきた。「弱点」とは、被愛願望が満たされない不満だ。これはKの「弱点」でもあったろう。

「厭世(えんせい)に近い覚悟」(上十五)は自信喪失や無力感などで、いわゆる厭世観ではない。

 

この地上は悪が支配していて、生きる限り人はこれを根絶できないという考えで、しばしば人生は生きるに値しないという思想に発展していく。紀元前6世紀のギリシアの詩人テオグニスは、「地上の人の世に生まれず、きらめく日の光を見ず、それこそすべてに勝りてよきことなり。されど、生まれしからにはいち早く死の神の門に至るが次善なり……」と歌っている。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ペシミズム」伊藤勝彦)

 

Sは「死んでこの大平を得る」(『吾輩は猫である』十一)のか? 不明。

 

 

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7130 知識人用語

7133 問答無用

 

日常生活では、人は、雑多な情報を切り貼りし、自分が得をするように利用する。その場凌ぎだ。専門家は、自分の仕事に不備を発見すれば、反省して修正を試みる。ところが、知識人は、私のいう知識人は、失敗しても反省しない。自説の不備に気づかない間は明るい知識人でいられる。だが、不備に気づいても修正をせず、くよくよして、暗い知識人になる。後悔はするが反省はしない。そして、悲劇の主人公を演じる。

 

知性は豊かでも性格が臆病なひとびとは、非宗教的とか非道徳的と見なされるような結論に達するのを恐れて、ものごとを大胆に、積極的に、自由に考え抜こうとはしない。そういうひとびとが多数となった世界はどれほどのものを失うか、その損害の大きさは計り知れない。

そういうひとびとのなかにも、ときとして立派な良心と鋭敏で洗練された知性をそなえた人がいる。彼は、抑えがたい知性を自分でごまかしながら一生をすごす。良心と理性が指し示すものと正統的な意見をなんとか折り合わせようとして、その才能を使い果たす。しかし、その努力もおそらく成功には到らない。

自分の知性がどんな結論に達しようと、とにかく最後まで自分で考え抜く、それが思想家の第一の義務である。そのことを認めない者は、けっして偉大な思想家にはなりえない。自分の頭で考えず、世間にあわせているだけの人の正しい意見よりも、ちゃんと研究し準備をして、自分の頭で考え抜いた人の間違った意見のほうが、真理への貢献度は大きい。

(ジョン・スチュアート・ミル『自由論』「第二章 思想と言論の自由」)

 

Sは「抑えがたい知性を自分でごまかしながら」自殺を夢見る。そんな彼を慕うPはおかしい。勿論、Kもおかしい。では、作者は、彼らを批判的に描いているのか。不明。

「考え抜く」とは、自問自答を維持することだ。そのためには、問答に習熟していなければならない。Nの小説に登場する知識人は、男女を問わず、きちんとした問答ができない。互いに気障な台詞を並べるばかりだ。彼らの会話は言葉の席取遊びだ。

 

ソクラテス それでは、ほら、わかるだろう、ポロス、このぼくの反駁を、前の君の反駁と比べてみるなら、両者の間には全然似たところがないということが。いな、君にはこのぼくを除いて、ほかの人たちが全部、同意してくれているが、しかしぼくには、君さえ同意して証人となってくれるなら、たとえそれが君一人だけであっても、それで充分なのだ。そしてぼくとしては、ただ君の票だけを得れば、ほかの人たちのことはどうでもかまわないわけだ。

(プラトン『ゴルギアス』)

 

このソクラテスの言葉は、「私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです」(下二)というSの言葉に似ている。だが、大きな違いがある。

知識人は語るが、問答無用。暴力的だ。

(7130終)


書評 ミル『自由論』(光文社古典新訳文庫)

2024-06-09 01:17:01 | 評論

書評

ミル『自由論』(光文社古典新訳文庫)

(斉藤悦則・訳/仲正昌樹・解説)

〈自由〉という言葉は自由に使われ過ぎて、はっきりとした意味がない。

戦争は平和なり

自由は隷従(れいじゅう)なり

無知は力なり

(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)

社会的な問題について語るとき、〈自由〉という言葉を用いる人は、『自由論』を前提にすべきだ。そうでない人は法螺吹きだ。〔『夏目漱石を読むという虚栄』7122 「自由のはき違え」〕参照。

 日本語の場合、〈自由〉にはほとんど意味がない。

一般にlibertyは政治的自由をさし、freedomは主に精神的自由をさすが、後者が政治的自由をさすこともある。

(『日本国語大辞典』「自由」)

〔『夏目漱石を読むという虚栄』5500 「偉大なる心の自由」〕参照。

「自由と独立と己れ」(N『こころ』上十四)がどうたらこうたらといった戯言を読んでうっとりする人は、「先生」に倣ってとっとと自殺しなさい。〔『夏目漱石を読むという虚栄』3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」〕参照。

『自由論』の原題は“On Liberty”だ。

freedom 抑圧・制限・妨害などがないことを表す最も広義の語

liberty 拘束・抑圧・隷属などからの解放の結果としての自由

license (堅)行動・言論などの無責任な過度の自由・放縦

(『オーレックス和英辞典』「自由」)

〔『夏目漱石を読むという虚栄』3152 『国家制度とアナーキー』〕参照。

英国の哲学者で経済学者でもあるJ・S・ミル(一八〇六~七三)は、政治思想史的に微妙な位置にある。

高校の倫理の教科書では、快楽主義に基づく「最大多数の最大幸福」という分かりやすい基準を掲げたベンサム(一七四八~一八三二)の(量的)功利主義の原理を修正し、快楽の「質」を考慮に入れる「質的功利主義」を提案した理論家として紹介されている。(中略)功利主義についての教科書的な予備知識なしに、本書を読めば、ミル=“典型的な自由主義者”と思うのが、普通だろう。実際、英米における「自由主義」の発展史では、ミルは「古典的自由主義者」として位置づけられることが少なくない。

(仲正昌樹「解説―「間」の思想家としてのミル」)

 私は「教科書」作者=“知識人”を排除したい。「普通」でいたいからだ。

〔『夏目漱石を読むという虚栄』7133 問答無用〕参照。

(終)


夏目漱石を読むという虚栄 7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」 7100 北極あるいは肛門 7140 「教育勅語」

2024-06-04 23:49:26 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7140 「教育勅語」

7141 「夫婦相和し」

 

「明治の精神」を〈明治天皇の精神〉と誤読する人がいる。〈明治天皇の精神〉をどうやって知り得よう。尊王のつもりなら、おこがましい。

〈明治天皇の精神〉と勘違いしそうなものは、明治二十三年発布の「教育ニ関スル勅語」略して「教育勅語」だろう。その作者は、明治天皇ではない。

 

政情不安を懸念する地方長官は徳育方針の確定と徹底を求めた。首相山形有朋(やまがたありとも)は法制局長官井上毅(こわし)に起草を依頼し、井上と枢密顧問官元田永孚(もとだながざね)によって草案を作成した。井上はとくに2つの点に留意した。第一は法形式上、君主は臣民の心の自由に干渉せずの建前から天皇の社会的著述としての体裁をとるため、大臣副署のない形式とする。ここに立憲下での天皇による特定価値強制の問題性が示される。しかし法的根拠をもたないがゆえに、法制を超える権威をもつことになる。次に哲学・宗教上の論議を超越するため「国体の精華(が)」という概念によって忠孝の必然性を証明する。

天皇の建国、天皇の徳治と臣民の忠節を「国体の精華」とする皇国史観を前提に、「日常道徳として孝、友、和、恭倹、博愛、義勇、奉公など15の徳目を列挙し、それらの徳目は天皇への忠に従属する構成としている。

(『日本歴史大辞典』「教育勅語」森川輝紀)

 

「教育勅語」の根源である「日常道徳」は、山形の出身地である長州のそれか。

 

教育勅語のことを批判すると、その主旨はいいという言い方がなされることがある。

それを稲田朋美なんかが言ってくる。

私はあれがものすごく腹が立つんだ。

「夫婦相和し(ママ)」とか、根本の倫理じゃないか、と。

しかし倫理というものは強制されて上から言われたくない。ましてや無倫理の極みである現政権に言われたくはないわけでしょう。

(望月衣塑子・佐高信『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』における佐高発言)

 

佐高は「その主旨はいい」と思うらしい。望月は訝しんだか、「教育勅語はその内容も、それが強制されていることも、批判しなければならないと」(同前)と受ける。変だ。

私には「内容」さえ批判できない。「夫婦相和し」は意味不明だからだ。

「夫婦」とは何か。「養老令は妻(さい)・妾(しょう)ともに夫の親属とし、夫からみて妻・妾はともに二等親(儀制令(ぎせいりょう)5等条)、夫は妻からも妾からも一等親と、妻と妾を同格に扱った」(『日本歴史大辞典』「妾」)という。これが「根本の倫理」ではないのか。〔2313 『みだれ髪』〕参照夏目漱石を読むという虚栄 2310 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)

「相和し」という行為あるいは状態は観察可能か。「相和し」ていない場合、どうなるのか。『道草』の夫婦のように、互いに互いを責め合うのか。

 

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7140 「教育勅語」

7142 「旧道徳」

 

Sの「倫理上の考」(下二)と、Sの想定する〈Pの「倫理上の考」〉は異質らしい。

 

お町はいうまでもなく、お近でも兼公でも、未(いま)だにおれを大騒ぎしてくれる。人間は何でも意気でもって思合った交りをする位楽しみなことはない、そういうとお前達は直ぐとやれ旧道徳だの現代的でないのというが、今の世にえらいといわれてる人達には、意気で人と交わるというような事はないようだね、身勝手な了簡(りょうけん)より外(ほか)ない奴は大き面をしていても、真に自分を慕って敬してくれる人を持てるものは恐らく少なかろう、自分の都合計り考えてる人間は、学問があっても才智があっても財産があっても、あんまり尊いものではない。

(伊藤左千夫『姪子』)

 

『姪子』は明治42年発表。「お前達」はPと同世代だろう。

「旧道徳」の内容は不明。これは「教育勅語」に類するものだろうか。「現代的」な「道徳」は「自由と独立と己れ」云々と関係がありそうだ。

『姪子』の語り手は「意気」が合う「楽しみ」を得たときの体験を語っている。一方、Sはこうした「楽しみ」の体験について語らない。体験の有無についてさえ語らない。暗示すらしない。だから、「楽しみ」の不足としての「淋しみ」(上十四)も言葉だけのものだ。いや、「淋しみ」」が「楽しみ」の不足なのかどうかさえ、はっきりしない。さらには、PがSにとって「真に自分を慕って敬してくれる人」なのかどうかも、はっきりしない。Sの考えでは、自分を含めた現代人の誰もが「身勝手な了簡(りょうけん)より外(ほか)ない奴」なのだろう。だから、静もPもその一員なのかもしれない。

Sの「倫理上の考」は不可解だが、「教育勅語」も不可解だ。両者の原典や何かが同じなのがどうか、私にはわからない。儒教的だが、儒教とは違うようだ。

 

本文は315字、内容的に3つの部分から成っている。前段では、肇国以来歴代天皇が道徳の形成に努め、国民が忠義、孝行の道において一致してきたことを「国体ノ精華」となし、教育の根源をこの点においている。次いで「父母ニ孝」「兄弟ニ友」「夫婦相合」……「学ヲ修メ業ヲ習ヒ」など「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」すべき日本臣民の体得すべき徳目を列挙し、最後にこのような国体観、臣民観が時間と空間をこえて妥当する絶対の真理であると宣言し、天皇と臣民が一体となってその実現に邁進すべきことを求めている。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「教育勅語」)

 

「肇国」は神話。だが、この点は問題にしない。「忠義、孝行の道において一致してきたこと」も伝説の一種だが、この点も問題にしない。「国体ノ精華」は問題になる。「国体」も「精華」も意味不明だからだ。ただし、ここでは問題にしない。「教育の根源」は無視。

「徳目を列挙し」という総括は間違いだろう。井上らは、複数の「徳目」に筋を通しているつもりだろうからだ。

 

7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」

7100 北極あるいは肛門

7140 「教育勅語」

7143 欧化主義

 

「明治の精神」と「教育勅語」に直接の関連があるとは考えられない。つまり、Sが「教育勅語」を念頭において「明治の精神」という言葉を用いたとは考えられない。「教育勅語」は明治中期に発布されたからだ。ただし、「明治天皇に始まって」という言葉が意味不明だから、断定はできない。また、「教育勅語」が失効するのは昭和だから、「天皇に終ったような気」は、文字通り、「気」でしかなかったことになる。この場合、Sの「気」は、作品の外部から評価するなら、まったくの的外れだったことになる。

 

戦後政治改革により1946年(昭和21)10月、奉読と神格的取扱いが禁止され、1948年6月19日には衆参両院で、憲法、教育基本法などの法の精神にもとるとして、それぞれ排除、失効確認決議。謄本は回収、処分された。しかしその後も、当時の文部大臣天野貞祐(ていゆう)の教育勅語擁護発言(1950)、首相田中角栄の勅語徳目の普遍性発言(1974)など、教育勅語を擁護する声は根強く、憲法改正を含む戦後天皇制再検討の動きとの関連で、一部政・財界人、学者・文化人、神社関係者などの間では教育勅語を再評価する動きが続いている。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「教育勅語」尾崎ムゲン)

 

なぜ、「教育勅語を再評価する動きが続いてる」のだろう。「明治の精神」が令和も継続中だからだ。

 

1891年(明治24)1月9日、旧制第1高等中学校(東京英語学校の後身)では前年受理した教育勅語の奉読式が行われた。内村は、勅語に記された天皇の署名に対し「礼拝」と見られる行為を拒絶、これが「不敬」とされ同校教員の職を失った。その後、井上哲次郎が『教育ト宗教ノ衝突』を著し、国家教育とキリスト教との衝突問題に発展した。内村個人には国家観をはじめ思想的飛躍の契機を与え、日本の欧化主義から国家主義への転回点を示す象徴的な事件となった。

(『日本歴史大辞典』「内村鑑三不敬事件」鈴木範久)

 

明治の前期の風潮などは欧化主義だった。

 

最初は廃藩置県以降の明治政府による文明開化政策として現れ、また福澤諭吉や森有礼らの明六社の同人たちによって唱道された。鹿鳴館時代と呼ばれた明治10年代後半(1882~87)期には条約改正を目的とした西洋模倣政策が遂行された。明治政府の欧化主義は富国強兵や殖産興業の推進力となったが、他面伝統的社会秩序を動揺させ、大きな社会不安をもたらした。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「欧化主義」)

 

「明治の精神」は「社会不安」だろう。「神経衰弱」(下二十二)はその反映だろう。

(7140終)