答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

ギャップ2

2024年12月19日 | ちょっと考えたこと
視力がよかったから、記憶力がよかったから。だからより一層、今の自分に幻滅する。しかし、考えてみればその感覚には、少しばかりの思い違いがあるのかもしれない。「出来た」が「出来なくなった」は、多くの場合で、過去の自分と今の自分という比較にしかすぎないからだ。

と書いたきのう。
そうとばかりも言えないのではないか、と思えてきたので、過去の自分と今の自分とのギャップにまつわることなどについてまた考えてみた。
「思い違い」といえば、「出来たが出来なくなった」という感覚こそがその最たるものなのではないかという疑念が生じたからだ。
といってもそれは、突然降って湧いたように生まれたわけではない。ここ数ヶ月のあいだで、折に触れては降りてきて、また、ひょんなことから湧いてきてを繰り返し、ぼくのなかでは確信に近いものになりつつあった。

それはつまり、こうである。
「本当は昔も今もそれほど変わっていないのではないか」

たとえば、「デジタル機器やアプリの操作が理解しにくくなった」という事象を例にとれば、元々ぼくは、その手のものに対する理解力が乏しかったし、マニュアルや説明書を読んで、そのやり方を理解するというのが苦手だった。
理解力という点でいえば、理数系なそれとなるとてんでダメである。
昔も今もそれは本質的にはなんら変わったところがない。以前からダメだったものが、もっとダメになっただけであって、その差が特別大きいわけではない。
では文系ならばよかったかというと、理数系に比べるとずいぶんマシだというだけで、それほど優れていたわけではない。難解な理論や教義を説いた本にも幾度となくチャレンジしたが、そのたび直ぐにおとずれる眠気とともに沈没したものだ。これもまた、今も大差はない。

それらがなんとかなってきたのは、ひとえにぼくの諦めのわるさからであって、「出来る」ようになったからではない。石に齧りついた、あるいは齧りつづけたから、その結果として、せめて表面なりとも歯が立つようになっただけであって、それを噛み砕くほどの能力を身に着けたわけではない。それは誰よりも当の本人が知悉していることだ。

ところが、いつしかそれを「出来る」と勘違いした。
いや、それ自体は責めることではない。それをしてしまうと、諦めずに齧りつこうとしてきた当人のこれまでが浮かばれない。だから、断じて責めるべきではない。
問題があるとしたら今だ。今の自分に対する現状認識と、かつての自分に対する過大評価が相まって、そのギャップを必要以上に大きくしていることにこそ問題がある。

もっと出来たはずなのに。
この意識そのものが幻想だ。
もっと出来た過去など存在しない。
いつもいつでも、ぼくは出来なかった。
出来たとしても、そこそこにしか出来なかった。
もっと有り体に言えば、出来るように見せかけてきた。
それはたぶん、出来ない自分が許せなかったからだ。
出来ない自分をさらけ出すのが嫌だったからだ。

では、この先はどうすればよいのか。
まずは出来ないを認める。
加齢によってそうなったという面はたしかに否めないが、元々も(それほど)出来ていたわけではない、を認める。
そして許す。
人は誰かに認められ許されたとき、そこに慈悲心を感じ、その先の望みを見出す。それは、自分に向けたとしても、同じことであるはずだ。

出来ない(出来なかった)自分を認めて許す。
ダメな(ダメだった)自分を認めて許す。
出来ない(出来なかった)自分を出来るようにしようとした自分を認め、それでもなお出来ない(出来なかった)自分を許す。
ダメな(ダメだった)自分をダメでないようにしようとした自分を認め、それでもダメな(ダメだった)自分を認めて許す。
だからお願い。
許してちょんまげ。


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ギャップ

2024年12月18日 | ちょっと考えたこと
視力がよい人は老眼になるのが早いという。たしかにぼくにも覚えがある。
四十代の前半から老眼鏡のお世話になるようになったぼくは、視力検査というものに初めて出会ってから数十年間ずっと、両眼ともに2.0の視力をゆずらなかった。
なのでぼくには、世の中が「ぼんやりと視える」という体験がほぼない。したがって、それがふつーだという近視の人たちの感覚がよくわからない。
だからだろうか、白黒はっきりつけたがる性分なのは、とも思うのだが真偽の程は定かではないし、今日の主旨はそこではないので、いずれまた、ということで前へ進む。

思うに、齢を重ね老境に達するということは、出来ていたことが出来なくなったと同義である。
いや、身体機能的にはたしかにそうにはちがいないが、精神の上では、必ずしもそう断言することはできない。亀の甲より年の功。経験を重ね歳をとったからこそ出来なかったことが出来るようになったというのはよくあることだ。
しかし、それはそれとして脇に置いとくと、やはり、加齢もある一定の線を越えてしまうと、どんどんと出来ていたことが出来なくなってしまうのは否定しようがない現実だ。

酒しかり、運動しかり。
外部機能だけではない。
記憶力しかり理解力しかり。
酒が呑めなくなった。筋力や持久力が衰えた。
人の名前や使いたい言葉がすぐ出てこない。
デジタル機器やアプリの操作が理解しにくい。
枚挙にいとまがない。

それが、自分が得意だったことならなおさらだ。
視力がよかったから、記憶力がよかったから。だからより一層、今の自分に幻滅する。
しかし、考えてみればその感覚には、少しばかりの思い違いがあるのかもしれない。
「出来た」が「出来なくなった」は、多くの場合で、過去の自分と今の自分という比較にしかすぎないからだ。
たしかにそれは、悲しいことにはちがいない。
しかしそれが、自分で思うほど悲観するようなことかどうかは、自分比較で一概に判断するべきものではないだろう。

かつてのぼくは視えすぎていた。
かつてのぼくは覚えすぎていた。
それがそうではなくなっただけのことで、世間一般の相場でいえば、それほど劣ったレベルではない。

そんなふうに自分で自分に言い聞かせたらいいのではないかと、ふと思った。
ダメだろうか。ダメだろうなぁ、やっぱり。



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漢字か平仮名か

2024年12月12日 | ちょっと考えたこと
「現地の人のしこうに合わせて」
というそのテロップが画面下に流れたのはNHKの朝のニュース。東南アジアのコーヒー事情に関する報道だった。

いくらなんでも「しこう」はないのではないか。
と感じたぼくは、皆さんご存知のように、「わかりやすく」を標榜し、また花森安治に習い「ひらがな」で書くことを自らに課してきた者だ(近ごろでは宗旨を少しだけ変えたが、それについてはまた後日)。

山本夏彦は、その花森の「実用文十訓」を紹介した『私の岩波物語』でこう書いている。

******
字句を吟味して、耳で聞いてわからぬ言葉は使うまいとした。極力平がなで書いた。平がなばかりだと読みにくくなる。要所要所に漢字がほしい。そのあんばいに苦心した。だから誌面はかな沢山でまっ白でありながら読みやすいのは苦心の存するところで、ぱっと誌面をひろげてながめて感心したことがある。
******

花森に習おうとしたぼくもまた、これにはずいぶん苦心した。その挙げ句、これだ、という法則やルールを確立させるには至らなかったのだから、エラそうなことを言えた義理ではない。
しかし、そのぼくでさえ「しこう」には呆れてものが言えなかった。いや、そのぼくだからこそ、だろうか。

しこう。
思いつくままに列挙しても、思考、志向、指向、嗜好、試行、施行、歯垢、紫香。そこから、何らの予備知識がなく「現地の人のしこうに合わせて」という文面に合わせたものをチョイスすると「思考、志向、指向、嗜好」の4つ。
「歯垢」という字も無理やり合わせられないではない(現地の人の歯垢)が、まさかそれではあるまいから、4つに絞ってさしつかえはないだろう。
現地の人の思考、現地の人の志向、現地の人の指向、現地の人の嗜好。
と、そのような面倒くさい手順を経ずとも、ニュースを見ていたぼくには、それに当てはまる漢字が「嗜好」だということがわかっている。

しつこいようだが繰り返す。
「現地の人のしこうに合わせて」

そこは「嗜好」しかないだろうが。
呆れ返りつつ心のなかでツッコミを入れた。
たしかに、一般的な小学生なら読めないかもしれない。
それが大人ならどうだろうか。ぼくは読めると信じたいが、そうでもないかもしれない。しかし、書く側が、たとえこれは読めないかもしれないと思っても使わなければならない漢字がある。この場合は確実にそれに当てはまる。

たしかにむずかしい問題ではある。キーを叩き、あるいは画面をフリックして出てきた変換候補にもとづいて漢字化するだけなら、何らの困難もともなわないが、少なくとも、伝えようとする側のことを考え、一つひとつを漢字にするか平仮名か、はたまたカタカナで表現するかを思案しながら文章を書くとなると、そのチョイスはかんたんではない(しかも想定するその相手が不特定多数であればなおさらだ)。

しかし、その困難さを身をもって体験してきたからこそ思う。
漢字か平仮名か、はたまたカタカナか。その思案において、「読み書きするのが難しいから」という選択理由は必ずしも正しくはない。たとえ、その字面からは読み取れなかったとしても、前後の文脈から判断すればなんとなくわかる程度なら、漢字を使うべきだ。それが、二字以上の漢字が結合して一語をなすもの、つまり熟語なら、原則として平仮名にするべきではない。

すると、ひるがえってオレはどうなんだ?という自問が浮かんできた。
いやぼくにかぎって決してそれは・・・・ない、と思う・・・・たぶん。
いやいや、ここはけんきょに、もってたざんのいしとすべし。

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あんどぅりどぅ

2024年12月11日 | ちょっと考えたこと
「あゝ元へは戻せないんだよなぁ」

スマートフォンやタブレットを使っていると毎日のように思う。
長いあいだPCを日常的に使うなかで、アンドゥ(元へ戻す)とリドゥ(やり直す)が至極当たり前のこととして脳内に染みついてしまったぼくには、それができないことに対しての違和感がハンパない。
それが紙ならば、はなから期待をしていないので、文字を消したり書き直したりすることに違和感はないのだが、やはりもどかしさは残る。

「あゝ元へ戻すことができたらいいのになぁ」
いやはや困ったものだ。

あえて言うまでもないが、現実世界にはアンドゥもリドゥもない。吐いた言葉は取り消せないし、実行済みの行動はやり直すことはできても、なかったことにすることはできない。

「生きる」ということは不可逆だ。不可逆を連続して生きているのが人間だとも言える。それゆえに選択や判断がむずかしいものとなるのだし、失敗を恐れ不安感も生じる。だからこそ「生きる」というのは辛いが、その一方でおもしろくもある。したがって、すべてが元へ戻せたらよいのになというぼくの夢想が実現したところで、それはつまらないこと甚だしいものにはちがいない。

アンドゥ・リドゥの普及は、パーソナルコンピュータの一般化と軌を一にしている。一般大衆へのPCの普及においてその機能は、かなり重要な位置を占めていたのではないだろうか。
思い起こしてみてほしい。かつて、ぼくを含めた大多数の人にとって初めてのパソコンは大なり小なり不安感の対象であり、その操作は試行錯誤の連続だったはずだ。そんななかで、アンドゥ・リドゥ機能は、入力ミスや誤操作が、やり直し可能で修正できるものだという安心感をユーザーに与えた。そしてそれがパソコンの敷居を下げ、多くの人々を引き込む要因となった。というのが、少々大げさかもしれないがぼくの見立てだ。

それだけなら、便利な機能が仕事効率化に役立つというデジタル化のよい見本だ。しかし、いつしかぼくはそれに依存してしまっていたようだ。
だから毎日のように思う。

「あゝ元へは戻せないんだよなぁ」

ひょっとしたら・・
と少しばかり怖ろしい推測が脳裏に浮かんだ。
それによって、元々がスピード重視のぼくの仕事スタイルは、「元に戻すことができる」というPC上の仕事の影響を受け、いっそう拍車がかかっていったのではないか。たとえばアンドゥがない環境では、まちがいやミスを防ぐための慎重さや、元へ戻せない行動に対する覚悟が必要な場面が多くあるのに、どこかでそれを軽視する行動パターンが身についていたかもしれない。
いやいや、たかだかパソコンの一機能にそれほど多大な責任を負わせるのは、かなり大げさな推論であり、責任逃れも甚だしい。

と、ふたたび現実世界のことを思う。
現実にはアンドゥボタンもリドゥボタンも存在しない。ましてやそのショートカットキーであるCtrl+ZもCtrl+Yなどは、存在する余地もない。元へは戻せない、あるいは、やり直せないことにこそ本質があり、その現実世界の不可逆性があるからこそ、言動の一つひとつに意味が宿る。

あゝそれなのにそれなのに。いちいち事あるごとに「元へは戻せないんだよなぁ」と嘆いているぼくの、なんとだらしのないことよ。
だから言う。自分自身に対して。パソコンは捨てるな。しかし、紙をもて、ペンをとれ。脳はデジタル化へまっしぐらに向かって進んでいようと、いや、だからこそ。せめてこの身と心だけは。目指すは、デジタル化によるトランスフォーメーションならぬ、デジタルとアナログのハイブリッドによるメタモルフォーゼだ。

ということで来る2025年からは、たるんだ己に喝を入れ、身と心とを引き締めるため、およそ8年ぶりに、能率手帳を復活させようと企んでいる。そんな些細なことでは、トランスフォーメーションもメタモルフォーゼも実現しないのだけれど、とりあえず。

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みんな夢のなか

2024年12月10日 | ちょっと考えたこと
夢を見た。
ブログを書いている夢をだ。
いや正しくは、書かなければならないと右往左往しあれこれを思い悩む夢をだ。

ずっと見た。
といっても、ぼくが「ずっと」と感じているだけで、科学的にはそうではないのだろうが、夜中に2度起きて、そのたびにつづきを見たのだから、感覚的には夜通し「ずっと」だ。

どのような夢だったのか。
きのうアレを書いたから今日はそのつづき。他にもコレもあるしソレもあるし、どのような順番でどういった切り口で、どう構成するか。そのことについて悩み、喧々諤々と議論をしている。
しかもそれは、ココについてなのかアッチ(現場情報)のことなのか。ネタや内容がクロスオーバーしていてよくわからない。
そんな夢だ。

その対話の相手は、他ならぬぼく自身だ。
夢を見ている当事者としてのぼくが、夢のなかの登場人物としてのぼくに話しかけている。
そのぼくもこのぼくも、すべてがぼくの脳内にしか存在していない。
ということは、ぼくがぼくのアタマのなかで右往左往しながら思い悩んでいるにすぎない。

といっても、ご多分にもれず、目覚めたあとにはその大半が忘却の彼方へと行ってしまっている。
惜しくはない。どうせ夢なのだもの。
 
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