答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

その怒り、いったん棚上げしてみたら?

2024年10月08日 | ちょっと考えたこと

「急に怒り出すというけれど、それまで我慢してたんだよ」 

ある知人がSNSにアップしたひと言です。 その彼にはじつに申しわけないと思いつつ、ついつい吹き出しそうになったのは、それがかつての自分だったからに他なりません。 
「急に怒り出した」と感じたのは他者です。 「それまで我慢してた」は自己分析です。 他者の関心事は、「怒り出した」しかも「急に」という現象にあり、それに伴って生じる感情がポジティブなものとなる可能性はきわめて低いと言わざるを得ません。 対して「我慢してた」自分は、それゆえに、怒りの発露を当然のもの、または仕方がないものとして捉えています。 
この場合、我慢という自らの内的行為は大きなポイントでしょう。ですから、むしろ悪いのは、それまで我慢させていた相手であり、抑えこんでいた怒りを沸点まで上げ、表出せざるを得なくした他者にこそ原因があると考えています。 そこにあるのは「我慢してた」自分と、にもかかわらず「怒り出した」自分に対する肯定と、その背景に気づかず、表出した「怒り」にのみ照準を当てて自分を糾弾する他者の否定です。 

では、この場合に相手はどう思うのでしょう。 「怒り出した」しかも「急に」。この事実が相手の心に大きくのしかかります。まずは、それしか見えないといっても差し支えないのではないでしょうか。どう対応するかは人それぞれです。ストレートに反発するか、怒りに怖れ早々と降参してしまうか、無駄な軋轢を生まないために従ったフリをするか、面倒くさいことは無視するに限ると耳をふさいでしまうか、いずれにしても、ポジティブな反応が想像し難いところではあります。

アンガーマネジメント。
直接的にそうは表現しないにしても、その類のことは、これまでもずい分と書いてきました。そしてその多くは、ぼく自身が実践する、もしくはしようとしたものでした。
例をあげると、すぐに思い浮かぶのは釈尊の教えとして伝わる「第二の矢」。デビッド・ボームの「想定を保留する」。またアルボムッレ・スマナサーラが提唱した「感情の実況中継」などといったところでしょうか。
とりもなおさずそれは、それらを実践せざるを得ない切実な事情がぼくの内にあったからです。

「怒る」、あるいは「怒り」。それを否定的に捉えないどころか、むしろ肯定する環境で育つうちに、当然のように怒りん坊になってしまったぼくは、それゆえに、「怒り」を原動力としていたし、「怒る」は至極まっとうで正しい表現手段としてぼくのなかにありました。
それではダメだと気づいたのは、それほど昔のことではありません。どころか、あと数年で70年に達しようとするぼくの生涯というスパンで考えれば、ごくごく近い過去でしかありません。

では何故、ある意味ではそれまでの自分を形成する重要なパーツでありパワーでもあったそれを、否定しなければならないと考えるようになったか。
ぼく個人だけならそれでもよかったのです。しかし、ぼく自身がここでなんども繰り返し述べているように、仕事というものは他者との関係性で成立しているものであり、他者との関係性を抜きにしては考えることができないものです。いや、ことは仕事にかかわらず、人間の営みそのものが他者との関係性のなかにあり、それを抜きにして考えることはできません。そんななかで、自分個人の想いを中心としたロジックが成立しないのは当然のことです。

にもかかわらず、それまでのぼくは常に自分が中心でした。起点もプロセスも終点も、すべて自分自身を中心に置いた上での行動でした。いや、発想や思考はけっして自己中心的ではなく、むしろ他者を中心としていたのですが、たとえそれが「他者のため」、すなわち利他を目的としていようとも、その発露としての言動の基準は常に己にあったし、その多くが「怒り」として表へ出るものでもありました。
しかしそれは、あくまでも自分の想いの表出にしかすぎず、自己の「正しさ」の肯定でしかないのです。それを相手はどう受け取るのか。そこには、そのことについての感受が一切といってよいほどありません。いきおい、相手はコチラの想いを額面どおりに受け取ることが困難となります。

人はそれを「独りよがり」と呼びます。独善とも言います。「正しさの押し売り」と言ってもよいでしょう。理路整然と諭すのならまだしも、その発露としての手段が「怒る」では、まともに取り合ってくれるはずもありません。そこにおいて、ぼくの「よかれの思い込み」は、たちの悪い冗談にしか受け取られていないかもしれないのです。

「直そう」と決意したとき、対処方法はふたつ考えられました。
まず、「怒りという感情」をもたない。これがもっとも直接的かつ効果的なのでしょうが、ぼくにはハードルが高すぎるように思えました。
次は、生じた感情を抑制する。その発展形として、心の内に芽ばえた「怒り」を消す。それならなんとかなるかもしれない。ぼくが採用した方法のほとんどがこの部類に入るのは、必然だったと言えるでしょう。

一定の成果はありました。ぼく自身に、「アンタそれによって変わったのかい?」と問うてみれば、変わったと返答するにちがいありません。しかし、その変化はまだまだ十分なものではありません。まことに残念ながら、根っこの部分では未だ変わっていないといわざるを得ないのです。そして、これまた本当に残念この上ないことには、おそらくこの先も、根底で変えることは不可能だとも思うのです。

思うに、未だ感情的に発露してしまうその「怒り」には、対象との距離感が大きく左右しています。ここで言う距離とは、遠慮や忖度といった感情が多いか少ないか、という基準で大まかに推量することが可能です。多ければ遠く、少なければ近い、となります。距離が遠ければ、過度な「怒り」は生まれにくいし、たとえ生じたとしても、ある程度それをコントロールすることができるのですが、近い距離感で接する相手であればあるほど、「思わずプチッと」、というのが起こりがちとなります。たとえそうはならない場合でも、感情を抑制することがより困難となることはあきらかです。

ならばどうすればよいか。かんたんです。必要以上に距離を縮めない、あるいは、誰に対しても一定以上の距離をとればよい。これが最短の解決策でしょう。
親しき仲にも礼儀あり、です。どんなに近しい間柄でも、忖度や配慮は欠かしてはならないものです。数年前の政治的不祥事以来、よくない意味でしか使われなくなりましたが、忖度という言葉は、本来「他人の気持ちを推し量ること」です。むしろ、よい意味で使われてしかるべき言葉です。
他者との関係性を考慮することなしに自己は成立しません。よい意味でもわるい意味でも、無垢で無邪気な人間関係というのはほとんど存在し得ません。推し量って配慮する、忖度は大人としての基本でしょう。
であれば、あまりにも近すぎることによって「怒り」が表出してしまうのであれば、しかるべき距離をとる。ロジックとしてはカンペキなような気がします。

しかし、そこでぼくの思考は止まってしまいます。
はたしてそれでよいのだろうか。他者との距離感だけで「怒り」がコントロールできるのだろうか。答えはノー。なぜなら、その期におよんでもぼくは、自分自身の感情や状況にばかり意識を向けている。それはすなわち、他者に対する思慮に欠けているのだと言わざるを得ないのです。

人間が関係性のなかでしか生きられないものであるならば、問題も、自分や相手のなかにあるのではなく、人と人との間にあると考える方が道理ではないでしょうか。相手がいて自分がいる。その間でぼくの「怒り」は生まれています。その間があるからこそぼくに「怒り」が生じているのです。
であれば、そこに自分がつくった想いだけを投影し、それに執着するのは愚かなことです。他者との関係性を考慮することなしに問題の解決を図ることはできません。

「怒り」という感情にとらわれてしまうと、それが見えにくくなってしまいます。ほとんど見えない、といっても差し支えないでしょう。そしてそのままその感情は行き場をなくして袋小路に入ってしまい、それがさらなる強い感情を生み出します。
そこで必要なのは、その感情に執着しないこと。
「怒り」に代表されるような強い感情が生じたときには、同時に、他者の立場や考え、それが生じてきた背景について十分に考慮する余裕がなくなっています。
そこで、その感情をいったん棚上げしてみるのです。
視点を変えたり考え方を変えたりして、相手が何を感じ、何を考えているかに心を向け、そこから彼我の関係の平衡を図って折り合いをつけようとする。そうすると、「怒り」がしずまっていくことがあります。

それはたぶん、他者を理解しようとするからでしょう。そこにおいて大切なのは、相手にやさしく接するなどといった表面上の態度ではなく、もっと深い部分で、他者の感情や状況を自分なりに理解し、受け入れようという姿勢です。

とはいえそれは、口で言うほどかんたんなものではありません。
なぜならぼくは、自分の価値観や考え方が内にあるからこそ、他者に対して怒っているのです。それなのに、その価値観や考え方と正反対の言動をとる相手と向き合ったとき、それを「理解する」などということができるでしょうか。

しかし、「理解できる部分を見つけ出す」ならできるのかもしれません。さらにハードルを低くして、「理解する部分を見つけ出そうとする」なら何とかなるでしょう。まずはそこから。「理解する」のが困難だからこそ、その糸口を見つけようとする姿勢、つまり、相手の言動を「理解しようとする」態度を保つことが大切となってきます。

その鳥羽口が「怒り」に執着しない。
そもそもそのような感情を生じさせなければそれで済むのですが、残念ながらそれほど人間が上等にはできていないぼくは、だから「怒り」を棚上げするという方法を採用してきました。それが、釈尊の教えとして伝わる「第二の矢であり、デビッド・ボームの「想定を保留する」であり、また、アルボムッレ・スマナサーラが提唱した「感情の実況中継」、などなどです。

そうそう。つい最近のことですが、あるあたらしいアイデアを思いつきました。
ぼくのケータイの写真ライブラリには、真っ赤な顔をして「怒る」自分の写真があります。ある酒席で、気づかぬうちに誰かに撮られたものです。
といっても(今でもそのときのことはハッキリと覚えているのですが)、本人的にはけっして怒ってはおらず、せいぜいが「熱弁をふるう図」といったところでしょうか。それがそのまま切り撮られたとき、誰がどこからどう見ても「怒っている」としか見えないのが、そもそもぼくの不徳の致すところでしかないのですが、あまりにも可笑しいのでそのまま保存し、時には聴衆を笑わせるためにとプレゼンテーションのネタにもしています。


そうだ。アレだ。
思い立ったが吉日です。
真っ赤な顔をして怒っているオヤジの画像にキャプションをつけ、ケータイの待受画面にしてみました。

「その怒り、いったん棚上げしてみたら?」

これは相当な効果がありそうです。
なぜならそこには、顔を真っ赤にして「怒る」ぼくの実物がいるからです。いくら「キレてないよ」と抗弁しても、誰がどこからどう見てもキレているとしか見えないスキンヘッドのオヤジが口角泡を飛ばして何かを言っている。それがぼく自身だという現実感と恥ずかしさに、そこに「その怒り、いったん棚上げしてみたら?」という、提案とも揶揄ともとれるキャプションが、しかも「KFひま字」というふざけたフォントでついている。

細工は流流仕上げを御覧じろ。私的には、これが効かなくて何が効果があるの?と言ってもよいほどの傑作です。
さて、如何あいなるか。
いずれにしても、そうやって自分と向き合うことも、あるいは他者と向き合うことも、終わりのないプロセスであることにはちがいないのですが。



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