「いざともに穂麦喰はん草枕」 芭蕉
草枕は旅の枕詞。四十路の芭蕉翁にとって、吟行の長き旅路は生命の危険すら感じる厳しいものだったと思います。(^。^)
この一句からは、旅に暮らす芭蕉翁の並々ならぬ決意が伝わって来ますが、「共に喰らはん」と声をかけている相手は、いったい誰なのでしょうか?(^-^)
同行者で門人の千里さんか、或いは、尊敬する西行法師のことなのか?(^_^)
いざ、検索してみましょう。( ; _ ; )/~~~
『野晒紀行』にあるこの句の前書きに「伊豆の国蛭が小島の桑門、 これも去年の秋より行脚しけるに、わが名を聞きて、草の枕の道連れにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ」とあります。
蛭ケ小島(現伊豆の国市)の僧侶斎部路通(いんべろつう)と尾張まで同行した折の句とわかります。
(句意)
“さあ、一緒に麦畑の穂麦でも喰らう覚悟で乏しい旅を続けようではないか”という気概を読み取ることができます。
にゃるへ、、、やめとこ!🐈⬛
お相手とは、旅の途中で出逢った僧侶だったのですね!!(◎_◎;)
写真の芭蕉老翁墓は、静岡県三島市広小路にある連馨(れんけい)寺にあり、芭蕉の遺髪を埋葬したと伝えられています。(^。^)
この墓碑は、安永7年(1778)、芭蕉供養のために建立されたもので、碑の左面にこの一句が刻まれています。(^-^)
ワンだふる!🐕🦺
それでは、馬関より返句をば。( ^_^)/~~~
「夏来る彼の人何処伊豆の海」 祖谷馬関