元禄2年(1689)3月27日、芭蕉46歳の頃、門人曾良を伴い江戸を発ちました。
奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約六百里(約2,400キロ)、約150日にも及ぶ長旅でした。
旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとしました。
芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していきます。
また旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらしたと言われています。
では、「おくのほそ道」より、今日の一句。
「草の戸も住替る代ぞ雛の家」 芭蕉
あまりにも有名な「おくのほそ道」の発句。(^-^)
失礼な言い方になりますが、これまでの芭蕉の紀行文や俳句の数々を遥かに超えた最高傑作、、、それが「おくのほそ道」だと思います。(^_^)
その第一句に相応しい、長らく暮らして来た我が家にもやがて新しい家族が移り住むだろう、と思いを馳せながら、旅に出る決意を静かに表した名句ですね。( ^_^)/~~~
(句意)
住み慣れてきたこのみすぼらしい草庵も、住み替わるべき時がきた。誰かあとで引っ越してくる人が、おひなさまを飾って華やかになることがあるだろう。
素晴らしいたけ!🍄
今年三月末に、甥っ子の結婚披露宴のため上京した折、深川の松尾芭蕉記念館を訪ねましたが、この深川の土地こそ、「奥の細道」の旅に出発した場所、すなわち、発句に「草の戸」「雛の家」と詠まれた、芭蕉の庵の跡地でした。(^。^)
深川は、華やかさはない、隅田川沿いのしっとりと落ち着いた場所、どちらかと言えば「下町風情」の漂う街並みでしたね。(^-^)
いずれにしても、かの俳聖・松尾芭蕉が、此処から「奥の細道」に向けてその足を踏み出した、と考えるだけで、何か胸に込み上げてくるものがありました。(^_^)
では、万感の思いを込めて、馬関より、返句献上申し上げます。( ^_^)/~~~
「雛の月道奥の旅照らさうぞ」 祖谷馬関