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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

藤原道長と定家の関係は?

藤原一族めぐり、、、一巡はしたのですが、ふと望月の藤原道長と同じ時代を生きた歌人の藤原定家の関係は?、と気になり調べてみました。(^。^)

藤原北家長家流(御子左家)に属し、藤原道長の来孫にあたる。とあります。(^-^)

藤原道長の存命期間は966年〜1028年、これに対し、藤原定家は1162年〜1241年ですから、二人は出逢ってはいないものの、同じ藤原北家にあたり、定家の家系は、道長と側室の源明子との間に生まれた「藤原長家」から始まる、とのことです。(^_^)

ここで、頼通は、正室・源倫子の子(道長の長男)だが、もう一人の妻・源明子の子(次男)・頼宗の子孫は、中御門流と言われ、その弟(六男)の長家の子孫は「御子左流」といわれ、藤原定家に代表されるように和歌の名門で冷泉(伯爵)などにつながる。とありました。m(__)m

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

にゃるへそ!🐈‍⬛

難しいことは別として、要は、藤原道長の家系から藤原定家につながり、和歌の名門「冷泉家」に至るのですね。(^。^)

その藤原定家は、俊成を父に持ち、子は為家。
この為家には正妻の他に、若い妻がいました。正妻は宇都宮頼綱の娘で、息子が二人。二人目の妻・阿仏尼との間には息子が一人で、為相(ためすけ)と言いました。(^_^)

そう、定家の孫は、三人おり、為相が、「御子左家」が所有していた領地や長家、俊成、定家たちの古典籍や古文書類を相続することになったのでした。(^-^)

嫡流の為氏は「二条家」、同母弟の為教は「京極家」、そして為相が「冷泉家」を名乗りましたが、二条家と京極家はその後断絶してしまったため、今では冷泉家のみが残っていると言うわけです。( ^_^)/~~~

「冷泉家」の時雨亭文庫には、定家の自筆日記で、国宝に指定されている「明月記」が残っており、定家が見聞きした日食や月食、オーロラなどの天文現象も記されているそうです。(^_^)

たとえば「客星」は急に現れた星を意味しており、恒星が寿命の最期に爆発して明るく輝く「超新星」や彗星(すいせい)などが含まれる、とのこと。( ; _ ; )/~~~

ちなみに、現在の冷泉家の後継者は、「野村渚」さんで、25代当主の冷泉為人さんと妻の貴実子さんの姪で、先代の故・為任さんの孫にあたる方です。(^。^)/

「悠久の時を語りて乞巧奠」 祖谷馬関

(注)乞巧奠は、中国から伝わった七夕行事。もともとは魔除の行事であったが、 牽牛・織姫伝説と結びつき、機織の上達ひいては芸事全般の上達を願う行事に変わった。最初、宮中の行事であったが後に民間にも広まった。京都の冷泉家で毎年執り行われる。
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