徳川慶喜の大政奉還、続く江戸城無血開城を経て、イギリスが後押しする新政府が樹立したかに見えたのも束の間、、、東北諸藩による「奥羽越列藩同盟」が反旗を翻し、いわゆる「戊辰戦争」が勃発したのでした。(^-^)
この「奥羽越列藩同盟」を支援していたのが、ビスマルク率いる「プロイセン」、いまのドイツの前身にあたる国でした。(^-^)
イギリスと新政府軍、プロイセンと奥羽越列藩同盟の協力関係、、、番組では、暗躍する海外諸国の様子が炙り出されていました。(^_^)
特に、プロイセンは庄内藩や会津藩に近付き、近代兵器を売り渡す代わりに、北海道の統治権を狙っていたと伝えられていました。!(◎_◎;)
その後、イギリスの強い支援のもと、箱館の五稜郭で新政府軍が勝利、戊辰戦争が終結しました。( ; _ ; )/~~~
あわや、というところで、バックにある欧米諸国の力関係が作用し、プロイセンによる植民地化を辛くも免れた北海道、、、歴史に「もしも」は禁物ですが、針が逆に振れていたら、、、我が国の形も大きく変わっていたのではないでしょうか?( ^_^)/~~~
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さて、「奥の細道」より、今日の一句。
「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」 芭蕉
句意よりも先に、「難面」を「つれなく」と読むことに新鮮な驚きを感じました。(^。^)
つれない、の意味は、「何の心も動かさない(反応も見せない)ほど、無情・冷淡だ。思いやりが無くてつめたい。」、または、「そ知らぬ顔でいる。何げない。」
では、句意を調べてみましょう。m(__)m
(解説)
この句は、元禄2年(1689年)旧暦の7月に金沢からの旅の途中に詠まれたとされています。
芭蕉は、滞在する土地で句会を開き、地域の人々や門人と交流を深めながら俳句を普及していました。
芭蕉は、滞在する土地で句会を開き、地域の人々や門人と交流を深めながら俳句を普及していました。
(句意)
もう立秋も過ぎて秋がくるのに、夕日は真っ赤に照り付けていて残暑は厳しい。けれども、さすがに吹いてくる風には秋の気配を感じる。
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あかあかと、という極めて日常の言葉遣いが良いですね。(^。^)
奥の細道で、芭蕉が気付いたと言われる「かるみ」という境地の一端が出ているのではないでしょうか。(^-^)
ちなみに、「かるみ」とは、松尾芭蕉の晩年の作風を表わす言葉。高い詩精神と民衆詩としての通俗性とを融合しようとした風潮。詩心は高くもち表現は平明にということ。
では、馬関より、返句献上申し上げます。
「火祭の鞍馬に出づる後の月」 祖谷馬関
(注)後の月とは、旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。