らいん屋☆親父の『しらしんけん』に『一寸ずり』

大分の人生修行中の五十路親父です。
先の見えた人生です。『しらしんけん』⇒一所懸命・『一寸ずり』⇒少しずつ前進する。

整理整頓

2008年11月26日 18時59分39秒 | 親父考
今日は未明、4時からの仕事でした。
親父、朝早いのは年寄り病か得意です。
午前中で仕事が終わり、帰宅しました。
ふと見ると、シクラメンが芽を出していました。
店では今、売っていますが
本当に咲くのは2月以降です。
毎年、小さな花を少しだけ咲かせてくれます。

今日、親父の会社の倉庫の写真を撮りました。
倉庫としては整理され、綺麗だと思います。
他のライン屋の倉庫、結構乱れてます。
親父の考えですが
倉庫の汚い会社は決して、綺麗な仕事・良い仕事はできません。
それと、便所の汚い所もだめです。





親父はいいかげんですが
従業員・若い者がきっちりやってくれるので
助かっています。 感謝します。

金嬉郎 

2008年11月25日 19時34分33秒 | 親父考
今日はいい天気でした。
食欲もあり、大分の旨い魚(たった500円)・とんかつをいただきました。



昨晩、テレビで金嬉郎の物語をやっていました。
あの事件は、親父が小学校4年生位だったと思います。
脳裏に結構焼きついている事件のひとつです。
今、考えるとあの当時は金の言う通りでした。
【これから書く文章は在日の方・被差別の方に失礼かもしれませんが、実際に当時、親父が言っていたり、感じたことですのでお許しください。】

親父の住んでいた所から5分位の所に朝鮮がありました。
バラックの建物でクズ屋(廃品回収業)が多かったです。
子供の頃、近所の田んぼで稲が刈られた後、野球をするのが親父の楽しみでした。
その田んぼに朝鮮人の子供たちが、たまに遊びに来るのです。
親父はヤンチャ坊主でしたから「朝鮮かえれ!朝鮮帰れ!」と言っていました。
親父は何でかは知らんけど、国立の付属小・中学校に行っていました。
その小学校が2年生のとき移転されました。
小・中学校の隣接する所に朝鮮と被差別があり
朝鮮学校(当時は親父、チョン校と呼んでいました。)もありました。
そのため、学校の帰り道はその地区を通らないよう、決まっていたと思います。
ただ、親父は言うことを聞かずにその地区を通って駅まで帰っていました。
中学になると、朝鮮学校の生徒と何回かもめた思い出もあります。
喧嘩になると、朝鮮語をしゃべるので訳わからなかったです。
もちろん、女子学生はチマ・チョゴリでした。

確かに差別はしていました。
子供の頃やっていたじゃんけんのゲームがありました。
はっきりと覚えていないんですが
グーは「ぐんかん・ぐんかん・ぐんかん」
パーは「ぱんつ・ぱんつ・ぱんつ」やったと思います。
ハッキリと覚えているのはチョキが「ちょうせん・パンツ・くさい」でした。
ひどいゲームをやっていたものです。

大人になってからは、行っていた焼肉屋はその地区のおばちゃんがやっている
旨くて安い店で手作りの「マッカリ」が大好物でした。
在日の友人はいっぱいいたし、色々教えてもらった先輩もいました。
友人の家でいただいた、とがらしの入ったおでんが旨かったです。
被差別にも友人はいっぱいいたし、親友もいました。

今、親父が大分へ来て「よそ者」という差別をたまに受けます。
日本人は人を差別することが好きな民族と言うか
自分は人と違うという分け方がしたいんやろうな。

親父もこれからも気をつけようと思います。

日教組はあほの団体

2008年11月24日 19時16分53秒 | 親父考
親父は特攻隊を素晴しい作戦・戦いとは思わない。
ただ、日教組という団体の組織員の言ってることには
「あほ」と言いたい。
日の丸反対・君が代反対。
「子供たちを戦場におくるのか」とすぐ言う。
お前らアホやろ、誰がそんなこと思うとるか!!
何で、日の丸が戦争や、何で君が代が戦争や。
学校で海ゆかばは歌わへんやろ。同期の桜は歌わへんやろ。
子供たちのため、頑張っとる先生はいっばいおるし
子供たちのために命かけとる先生もいっぱいおる。
ゆとり教育のため、ゆとりの無い時代になってしもた。

親父、右翼でもないし、普通の市民やけど
あほ日教組は解体し、子供たちの将来のために
国民が明るく暮らせる、いい国になってほしい。

涙、とめどなく

2008年11月24日 18時58分22秒 | 親父の人生・思い出
昨日、恩師と親父の17歳になっているであろう子供の事も話しました。
内容は書けんけど、いいかげんな親父のために苦労をかけ申し訳ないです。
嫁さんには特に大変な人生を送らせ、申し訳ないです。

今、知覧の「富屋食堂」鳥濱トメさんの物語で石原慎太郎が原作した
「俺は、君のためにこそ死にに行く」を見ました。
知覧平和会館へ行き、手紙・遺書・写真等を見ていたので
思い出したりし、2時間涙が止め処なくこぼれてきました。




逃げですが、親父も故郷を離れるときは後ろは振り向かんとこと思いました。
心は決まっていたので、向かったのは東尋坊でした。



今、生きています。昨日は恩師と大分で会うことができました。
友人・恩人とも何人かはここ2年で会えました。
一番会いたい人に会ったら、楽しかったけど苦しかった人生は終結です。

来年の春、桜が満開の時、一人で知覧へ行こうと思います。

トラ・トラ・トラ

2008年11月24日 12時54分43秒 | 親父考
大分は本日、雨 
久しぶりに、ゴロゴロできる日です。

先週の知覧で感激し、涙しましたが
考えていると昔、見た第2次世界大戦のきっかけになった
真珠湾攻撃「トラ・トラ・トラ」が見たくなり
先ほどまで見ていました。



日米合作の映画ですが、アメリカサイドからの見方が多く
現実とは違ったと思いますが、日本が奇襲したことは事実であり
これから、4年間第2次世界大戦が起こったことも事実です。

涙するような場面はまったくなかったですが
千葉駅伝が終わった後
石原慎太郎原作の知覧の鳥濱トメさんの物語
「俺は、君のためにこそ死ににいく」を見ようと思う。

別府の湯 40年ぶりの恩師との修学旅行

2008年11月23日 19時25分53秒 | 親父の人生・思い出
朝から別府湾を右に高崎山を左に一路、別府へ
恩師も親父も昨晩の良き酒もすっかり抜け、快調

別府八湯、浜脇・観海寺・堀田を通り、明礬温泉へ
硫黄の匂いがスゴイ。湯の花小屋を見学。
ちょっと足を伸ばしてAPU(立命館アジア太平洋大学)へ
日本一、高い所にある大学と違うかな?

急降下し、亀川へおり竜巻地獄・柴石を過ぎ
海地獄へ。観光客でいっぱいです。
全部の地獄を回れば良いが、今回は此処だけです。


いよいよ、恩師との裸の付き合いです。
鉄輪(かんなわ)の「ひょうたん温泉」です。


うたせ湯に恩師と並び。
40年前に大分別府でこんな事が出来るとは
本当に有難いことです。感謝・感謝
1時間ぐらいゆっくりと骨休め。
ポカポカしたまんま、大分へユーターン。



昼食は臼杵ふぐの「良の家」大分店。
今話題のKEIKOの「山田屋」より有名店です。
いつもながら、ここのふぐは最高です。
昔話・教育の話・ライン工事の話等、盛り上がりました。

3時過ぎの電車で帰られるので、大分駅へ。
先生は18時間の大分滞在でしたが
親父の勝手なスケジュールで忙しくしてしまった。
このブログをアップした頃は、帰宅されるだろう。

次回は奥さんと、本当にゆっくりできる
大分温泉旅行に来ていただきたいと思う。



恩師との再会

2008年11月23日 07時26分29秒 | 親父の人生・思い出
まさか、大分で会えるとは。
昨夜、親父が小学校5.6年生の時の恩師がみえました。
大分駅で会った時、感じたことの無い感動がありました。

その後、焼酎居酒屋で昔話に華が咲きました。
懐かしい級友の名前が次々と先生・親父から出てきます。
親父から出るのは当たり前なんですが
何千人という生徒を教育してこられた
先生から親父の年の生徒の名前が出ることに
教育者の凄さを感じました。
まぁ教育者はみんなそんなことは無いと思います。
さすが、全国的に有名な先生です。
そんな、すばらしい教育者に教えられたことを
有難く思うと共に、親父が今、何とか生活できているのも
あの頃の教育のお陰であると再認識しました。

悲しいことがありました。
小学校1・2年生の担任の恩師が
今年、亡くなられたらしいです。
良い先生でした。よく怒られました。
大好きな先生でした。
ご冥福をお祈り申し上げます。     合掌

今日はこれから
別府へ40年ぶりの修学旅行です。

便利な時代

2008年11月22日 12時52分25秒 | 親父の人生・思い出
朝から現場作業。
昼からの現場は若い者に任せておこう。

先日の鹿児島旅行の写真をCDに焼きつけ。
いつもはマジックで題名を書くのだか
プリンターで印刷が出来るという事なので
説明書を読み、試してみた。

ビックリするくらい綺麗に出来る物である。
便利な時代になったなぁと歓心しきりである。

今晩、親父のブログにもコメントを寄せてくださる
小学校5・6年の担任だった恩師が大分にみえる。
今晩は焼酎を飲みながら語り
明日は別府の温泉へ
米持参で行った伊勢への修学旅行から40年
別府の温泉に共に入れるとは・・・・・・
本当に有難く、感激である。

関東煮

2008年11月21日 19時06分44秒 | 親父の食い物
今もテレビでおでんをやっとる。
関東煮は死語かな。
大分の都町に「かんさい」言う一杯飲み屋がある。
そこの暖簾には関東煮とデカデカと書いてある。
年中関東煮と西京味噌の土手焼き、関西の出し巻きがある。
最近、あんまり飲みに出ないので行かんけど
親父の好きな店です。関西弁で話していても違和感が無いですから。
おでんは関西へ伝わり、濃いだしで炊いた煮物やったから関東煮になったらしい。

名古屋は味噌味らしいし
静岡のおでんはこの頃流行りみたいやな。

親父にとっては子供の頃おとうちゃんと食った
市場の関東煮と玉かけ飯が旨かった。

3色すみれ

2008年11月21日 17時17分09秒 | 親父の普段の生活
寒さもひといきついた。
只今の大分の気温は16度。
二日間寒く、参った。

寒い日がもうちょっと続くと思い
昨日、おでんの材料を仕入れているのに・・・

今日、昼の260円弁当のミニスーパーに
1株50円で三色すみれ(パンジー)が売っていた。
この前、プランター2個分植えたけど
まだ、5・6個あいていたので28株買った。
安いから色はほんまに3色です。
紫系や大輪の2色の苗は無いけど
来春には、メッチャきれいやと思います。



子供の頃はパンジーとは言わず3色すみれやったと思います。

暖かいけど、おでん(子供の頃は関東煮)を煮て黒霧を飲もう。

野洲の来来亭

2008年11月20日 17時57分33秒 | 親父の食い物
親父が滋賀にいた15年前には
「来来亭」と言うラーメン屋は無かった。

昨日、親父がとてもお世話になった野洲に住む恩人が
来来亭のカップラーメンを送ってきてくださった。


来来亭を検索すると福岡には店があるみたいです。
そういうとバリバリバリューに出ていた
一発屋みたいな社長のチェーン店やった。
ただ、この社長の経営方針とかを見ていたら
親父がやりたかった商売の展開や。
昔、命名した名前は「組商法」です。
やる気のある組は大きくなり
あかん組は潰れる。
大きくなりたかったら、頑張れ!!

親父、天下一品・ラーメン藤・第一旭・東洋軒・金賞ラーメン・ビッグラーメン
が、好きでした。今も全部あるのかな?



親父、昨晩ラーメン食ったので今日はパスです。
HIDEが昼に食ったのですが、旨かったみたいです。
ラーメンの上蓋に来来亭の100円割引券が付いていました。
すぐにでも、行ってみたいけど
大分には無いのでしょうがない。

明日の昼めしに食ってみよう。
送ってくださったIさん、有難うございました。
来月、甕雫をおくります。

いきなりダウンジャケット

2008年11月19日 19時37分12秒 | 親父の普段の生活
大分の竹田・熊本にはいきなり饅頭と言う物があります。
まったく関係ないですが

今の大分の気温は4度です。
寒いです。さっき、味噌ラーメンを買いに新鮮市場へ。


半袖Tシャツから今日はいきなり迷彩のダウンジャケットです。
去年は12月にいきなりでした。
日田や由布岳・久住は雪が降ったみたいです。

今日はブレスサーモのパッチとシャツで別府の現場へ行きました。
もちろん、作業服は着ていますよ。

地球冷却化現象みたいですね。
そのうち、夏と冬しかない日本になりそうですね。
ならない為にも暖房は控えめにしましょう。

暑いから寒い

2008年11月18日 20時09分45秒 | 親父の普段の生活
粕汁を食いました。美味かったです。



数日前まで半そでTシャツ1枚の日がありました。
今年の夏に買った窓用クーラーを外し、ヒーターを出しました。
この灯油ファンヒーターは14年選手です。
ベテランの201(ニオワン)ですが、ちょっと匂いますし
気まぐれで急に止まります。
二酸化炭素中毒になったら困るのでそろそろ、買い替えの時でしょう。




恩師のコメントで鹿児島の疲れが飛んでいきました。
今週末は大分での再会です。
修学旅行以来の温泉が親父は楽しみです。

桜 真っ赤っ赤

2008年11月18日 18時00分53秒 | 風景&花
帰り道、いつもの橋の上から桜の木を見た。
大分は本日、冬です。
二日前の鹿児島は暑かった。
昨日の大分もシャツ1枚でした。
今から窓のクーラーを外してヒーターを出します。
その後、酒粕を買ってきたので、粕汁を作ります。
粕汁は大分の食堂には無いです。美味いのになぁ。
豚汁も無いです。
今日の晩めしは粕汁とにぎりめしです。

旅行の疲れはまだ取れません。

2・3日のうちに、桜の葉っぱも散るでしょう。

鹿児島市は日本一

2008年11月18日 10時36分43秒 | 県外への旅
知覧から鹿児島市へ戻り
照国神社・城山等を巡った。



市電の軌道の横を走りながら鹿児島中央駅へ。
親父の子供の頃の同級生が国から出向し市の№2です。
3年6ヶ月前に鹿児島へ単身赴任です。
その彼がこの鹿児島市電を軌道緑化し、ユートラムを導入しました。
本当に美しく。すばらしいです。





鹿児島に素晴らしい足跡を残し、春には国へ帰るみたいです。
彼みたいな立派な役人に滋賀の大津駅前も何とかしてもらいたいものです。

町自体もとても美しく、路肩等にゴミも見当たらないです。
灰の町のイメージですが10年以上灰も降っていないらしいです。
ただ、過去に灰が振っていたための逆効果で
掃除の習慣等があるのではないでしょうか。

親父は鹿児島市が日本一美しいと思います。
大分市もゴミゼロで、多くの市民が掃除に参加しギネスに載りました。
けど、路肩にはゴミはあります。
記録作りが目的であってはならないと思います。



商売柄、交通安全施設に目が行きます。
中央駅前の横断防止のポストコーンはおもしろいです。
施工も早いし、目立ちます。撤去も簡単なので
歩行者天国などにも使えそうです。



歴史と近代の調和の町、鹿児島へはまた来たいと思います。



特急きりしまで宮崎までそして、にちりんで大分へ
6時間の帰途です。
親父が生きているうちには高速も鹿児島とつながる事は無いやろし
新幹線も通らんやろうから。ただ、将来宮崎へは1時間
鹿児島へは2時間ぐらいで行ける様になってもらいたい。

たった、1泊2日でしたが実のある良い旅でした。