きままな旅

きままな旅ときままな日記

2018/04/13 豊川市 龍源寺、財賀寺、西明寺、国分尼寺跡を散策した。

2018-04-15 | 尾張文化の会

2018/04/13 豊川市 龍源寺、財賀寺、西明寺、国分尼寺跡を散策した。
✿龍源寺(りゅうげんじ)曹洞宗
 創建ははっきりしない、建久年間(1190-99)建立と伝えられている。
・文化財
黒門は江戸初期(県)、ソテツは江戸(市)、板碑は江戸(市)その他数点有ります。
 
石碑

・黒門
 
 黒門  蟇股(獅子・牡丹の彫刻) 
 
 説明版
・山門
 
 山門
・本堂
 
 本堂 葵の紋
・ソテツ
 
 ソテツ
・板碑
  
 板碑の入口  説明板

 板碑
✿財賀寺(ざいかじ)真言宗
 神亀元年(714)聖武天皇の勅願により、行基が開創、弘仁4年(813)弘法大師が中興した。源頼朝が平家討伐を祈願、その御礼に本堂と仁王門を再建し千三百石の寺領を寄進した。
・文化財
仁王門(室町時代)、木造金剛力士像(平安時代)ともに国の重要文化財です。
本堂(江戸時代/文政)、文殊堂(江戸時代/寛政)三十三観音堂(江戸時代/安政)ともに登録有形文化財です。
・案内板
 
 説明板
・仁王門
 
 仁王門
・木造金剛力士像
 
 木造金剛力士像
・本堂
 
 本堂
・本堂内厨子(国重文)
 文政6年(1823)に再建された本堂内陣の仏壇上に置かれ宮殿ともいわれる。中には千手観音像が安置されている。厨子は文明15年(1483)に建立されたことが壁板の墨書により確認されたと云う。
(写真なし秘仏)
・文殊堂
 本尊の文殊菩薩は赤坂宿長者の娘「力寿姫」の御霊を大江定基(三河守)が安置した。
  
 文殊堂 説明板
・慈晃堂
 
 慈晃堂
✿力寿碑
 財賀寺に向かう手前約1kmの所に力寿碑がある。
 
 力寿碑
 
 説明板
✿西明寺(さいみょうじ)曹洞宗
 平安時代の寛和年間(985-987)三河国司大江定基が六光寺を開いたのが始まりです。      
(一説には大江定基が愛妾力寿姫の死を悲しみ、庵を営み六光寺と名づけ、冥福を祈ったのが始まりといわれています。)
 鎌倉幕府の執権北条時頼公(最明寺入道)が諸国巡歴の折り立ち寄った縁により最明寺と改めた。その後永禄7年(1564)には徳川家康の東三河出陣に協力し、家康の命により「西明寺」と改めたと伝える。
 
 山門
 
 本堂

 葵の門入り屋根瓦
・ベルツ博士の供養塔
明治政府に招かれたドイツ人医師ベルツ博士の供養塔があり、当寺が花夫人の先祖の菩提寺であったことにより建立されました。傍らに、水原秋桜子の句碑が建てられています。
「菊にほふ国に大医の名をとどむ」 水原秋桜子(俳人、医学博士)
 
 ベルツ博士の供養塔  句碑
・芭蕉の句碑
 姫街道沿いにある句碑は、寛保3年(1743)俳聖芭蕉翁50回忌の際に国府の俳人米林下(小沢才二)が建てた。東三河にある句碑の中で一番古ものです。
 刻印がぜんぜん見えない、案内版に「かげろうの我が肩に立紙子或 ばせを翁」と記載があった。
 
 西明寺の石碑   芭蕉の句碑
✿三河国分尼寺跡
 天平13年(741)聖武天皇は国家の平和と繁栄を祈るため、全国に国分寺と国分尼寺を設立する詔をだした。ここ三河国も国分寺と国分尼寺を8世紀に完成させた。
 

 

 

 

✿国分寺跡

 国分寺塔跡石碑
 
 国分寺塔跡 芯礎
✿赤坂宿 長福寺
 三河の国司大江定基との別れを悲しんで力寿姫(自害した赤坂の長者の娘)の菩提を弔うために聖観音立像を寄進したと伝える。

 本堂
 
 説明板(力寿姫の菩提を弔うために寄進した像)
 
 力寿姫の墓
     以上

コメント

2018/03/31_掛川城の周辺散歩。

2018-04-02 | 尾張文化の会

2018/03/31_掛川城の周辺散歩
 自宅を朝7時ごろ出発してJRの快速、普通で掛川駅に9時54分着いた。葛川までバスに乗り10時10分頃に馬喰橋に着き、旧東海道を京都方面に向かい十九首塚まで散策した。
✿一里塚跡・秋葉山常夜燈
 日本橋より十八里目の一里塚
 
一里塚の石標  常夜燈
✿常夜燈

 常夜燈
✿枡形・七曲リ
 掛川宿東番所あった。掛川宿東口
 
七曲り  道路で遊んでいた子供の絵
✿天然寺
 
山門 本堂
  
ケイスベルト・ヘンミィの墓
✿真如寺(しんにょじ)曹洞宗
 天正18年(1590)掛川城主山内一豊が叔父の在川謙昨(ざいせんけんさ)大和尚を駿府長源院より招いて開創と云う。
松平定吉(まつだいらさだよし)霊廟がある。
 
参道  山門

本堂
✿大日本報徳社
 報徳運動は、明治維新の前後に二宮尊徳の唱えた報徳思想を全国に広めた。尊徳の弟子の岡田良一郎の指導活動が盛んだった掛川は、やがて報徳運動の中心になり「大日本報徳社」が開設された。
・二宮尊徳
 日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。
・報徳思想(ほうとくしそう)
 二宮尊徳が説き広めた道徳思想であり、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く。
・報徳の教えは四つの柱
「至誠」人間関係や仕事において正直に誠実に接する。
「勤労」食べるために働くのではなく、天地人の徳に感謝しながら働くこと。
「分度」自己の力量と物事の関係性をよくわきまえて行動すること。
「推譲」蓄えたお金や力を、世のため人のために使うこと。
・報徳訓 (二宮尊徳)
父母の根元は天地の令命にあり
身体の根元は父母の生育にあり
子孫の相続は夫婦の丹精にあり
 (中略)
今年の衣食は昨年の産業にあり
来年の衣食は今年の艱難にあり
年々歳々報徳を忘るべからず
(大日本報徳社のパンフレットより)

報徳訓の拓本
【国指定重要文化財】
・大講堂と大広間 
大講堂(旧遠江国報徳社)は公会堂で最初の建物、明治36年(1903)に建設。
  
大講堂  

大広間
【静岡県指定文化財】
・正門 明治42年(1909)の設立。「道徳門」「経済門」と刻まれている。

正門
・仰徳(こうとく)記念館 明治17年(1884)霞ヶ関の有栖川宮熾仁(たるひと)親王邸として建て、昭和13年(1938)宮内庁から下賜、移築された。
 
仰徳記念館
・仰徳学寮 昭和13年(1938)移築された有栖川宮邸の一部と云う。
 
仰徳学寮
・冀北(きほく)学舎 

冀北学舎 
・淡山翁記念報徳図書館 昭和2年(1927)に建てられた。

報徳図書館
✿旧松本家住宅・竹の丸
 明治36年(1903)掛川城下の中町で葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家当主が竹の丸に本宅を建てた。
 
入口  玄関

貴賓室より
 
ステンドグラスの欄間

外から見る貴賓室
  
枯山水の廻遊式
✿大手門庭園
 平成5年(1993)の発掘調査で礎石根固め石が確認され、平成7年(1995)に復元された。当時の位置から50mほど北に復元された。
 
大手門の入口   出口

礎石根固め石

番所
 
大手門より観る天守閣
✿掛川城
 16世紀(永正10年(1513))駿河守護の今川氏の命により朝比奈泰熙(やすひろ)が掛川古城を築城し、二代目泰能(やすよし)の時に現在の地に新たに掛川城を移し、のち天正10年(1590)山内一豊は大幅な拡張を実施し近世城郭として体制を整えた。

天守閣
 
掛川城御殿玄関
 
天守閣
 
四脚門 
✿山内一豊・千代像
 
山内一豊・千代像 
✿円満寺山門
 掛川城の城内門(蕗の門)であった四脚門で明治5年(1872)移築したもの。
 
山門  本堂
✿常夜燈

常夜燈
✿東光寺
 
東光寺の入口    東光寺の本堂と成田山の祠
✿伊藤嵐牛句碑「桜見し心しづまる牡丹かな」

入口石標横にある歌碑
✿十九首塚
 藤原秀郷が「将門の乱」平定し、将門以下十九名の首実検を行い、敵将の藤原秀郷によって埋葬された。
 
石標  五輪塔と名前が刻まれた石標
   以上

コメント