東海道と伊勢街道の日永の追分
2019/01/28 伊勢街道沿いにある圓光寺・四天王寺を訪ねた。
我々の歩く仲間は『歴史探訪街道ウォ―キングの会』で、メンバーは約15名で街道を中心に寺社仏閣の歴史を勉強しながら探索しています。今回は伊勢街道(参宮街道)十八里を三重県四日市の東海道と伊勢街道の追分から伊勢神宮へ向かって街道を三里に刻み歩き始めています。今回のこの古刹は2018/11/21と2019/01/23日に散策した寺です。
✿ 圓光寺(えんこうじ)臨済宗東福寺派
延文3年(1358)後光厳(ごこうごん)天皇の勅願寺として開創される。開山は恵寂禅師(東福寺第九世「癡兀大惠」(ちこつだいえ)の高弟)である。弘治年中(1555)頃、長野工藤氏の流れをくむ分部氏が圓光寺住職であった文叔西堂和尚とともに圓光寺をここに移した、分部家初代光嘉(みつよし)によって分部家の菩提寺とした。
光嘉とお市の関係は、天正元年(1573)浅井長政の小谷城は信長軍によって落城し長政は自刃、お市・茶々・初・江は落城寸前に逃れ伊勢上野城主(織田信包のぶかね)の元に預けられたとき、城代である分部光嘉が6年間お市と三姉妹の世話をした。
本堂の辯財天は参拝者が膝をなでるので“ピカピカ”でした。また、6月には山門の処にある「沙羅」の木を目当てに参拝者が多くこられるそうです。
山門と「沙羅」の木
本堂
分部家墓所 <光嘉、光勝(子)、万(公室)、光高(義父)>
✿ 光勝寺(こうしょうじ)臨済宗
慶長6年(1601)分部光嘉が長子光勝の菩提を弔うために創建し、光勝寺と名付けた。
参道 山門
本堂
✿ 蓮光院初馬寺(れんこういんはつうまでら)真言宗
推古22年(614)聖徳太子の建立と云う。四天王寺建立の際、病に罹られた太子が馬頭観音を自ら刻み病気平癒の祈願をされた草堂を起源とする。江戸時代には津藩主藤堂家の祈願所も勤めた。現在はこの地域では『津の初午さん』と親しまれている。
入口
本堂
恵比寿天
✿ 四天王寺(してんのうじ)曹洞宗
推古天皇の勅願寺であり、聖徳太子が全国に建立した四つの四天王寺のうちの一つ。
本堂の大黒天は三面の顔がある貴重な仏像と感じました。
入口
山門
山門の瓦模様(巴)
鐘楼
・本堂
昭和20年の空襲により焼失した。現在の本堂は52世密禅定行和尚によって再建された。
本堂
・土田御前墓所(花屋壽栄禅尼墓所)
津城の織田信包を頼ったと思われ、文禄3年(1594)に亡くなるまで当地で晩年を過ごしたと伝える。
・久芳院墓所(領主藤堂高虎正室)
・芭蕉文塚
元文2年(1737)津を代表する俳人二日坊が設立
以上
2019/01/24 長久手古戦場を散策した。
『尾張文化の会』のメンバー14名と愛・地球博記念公園(モリコロパーク)沿いを走るリニモ(東部丘陵線)の1DAYフリーきっぷを利用してトヨタ博物館、名都美術館そして長久手古戦場跡を訪ねた。(No406)
〇トヨタ博物館では担当者の説明で常設展示の2階になる「自動車の誕生から1950年まで」、3階には「車の進展と多様化の現代まで」の車が展示されており、いずれも動態展示の状態で所々ドアを開き車の内部など約1時間半の説明を受けた。また新館には企画展示室、3階は図書館で自動車関連の書物が閲覧でき場所であった。
トヨタ博物館
トヨタのエンブレム
常設展示 RR1910 ヘットライト
企画展示 デロリアン DMC-12
〇名都美術館では小山硬(おやまたかし)の「潜伏キリシタンを描く」そして、平山郁夫の藍色(群青色)で描かれた砂漠等の風景が展示され学芸員の細かい説明を約1時間半受けた。
名都美術館の入口
〇長久手古戦場公園にある郷土資料館にてボランティアによる「小牧・長久手の戦い」の説明を30分受け、『勝入塚』、『武蔵塚』、『庄九郎塚』の現地へ向った。
長久手古戦場公園
長久手古戦場(国史跡)の碑
・勝入塚(しょうにゅう)国史跡
秀吉の武将である池田恒興(つねおき)の戦死地をしるす塚です。
晩年に入道(出家・剃髪)し「勝入」と号した.
・武蔵塚(むさし)国史跡
森長可(ながよし)は蘭丸の兄であり「鬼武蔵」と呼ばれた武将である。また美濃国金山城主でもあった。
・庄九郎塚(しょうくろう)国史跡
池田恒興の長男、池田元助(もとすけ)の戦死地をしるす塚です。
庄九郎塚の左に「勝道九兵衛秀胤討死之処」と刻まれた碑がある。
公園内に有った、道標の破片
以上
2019/01/09 ウォーキング仲間と初詣で大津駅から近江神宮まで散策しました。
✿長安寺(ちょうあんじ)時宗
時宗(じしょう)の祖である一遍(いっぺん)が開祖した寺院で、関寺(創建は不明)の跡地に建てられた。
時宗は鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教であり、開祖は一遍で鎌倉仏教のひとつである。
石造(牛塔)宝塔 (重要文化財、平安時代後期)
万寿二年(1025)の「関寺縁起」によれば、天延四年(976)の地震で破損した関寺を復興する際に、労力として使われた一頭の牛が、迦葉菩薩(かしょう)の化身であるという噂が立った。万寿二年(1025)、霊牛は関寺の工事が終わると死んだ。この霊牛を供養し祀ったのが「牛塔」と呼ばれている本宝塔である。
入口標柱 本堂(迦葉菩薩)
牛塔(うしとう)と呼ばれる宝塔(重要文化財)。 小野小町供養塔
一遍上人供養塔 超一房(一遍上人の妻)供養塔
百体地蔵
✿犬塚の欅(市文化財)
蓮如(れんにょ)が迫害から逃れ大津にいたとき、蓮如の食膳に毒をもった。この時、愛犬が不思議にもそれを察知し身代わりに食べ、うちに死んだ。蓮如は供養のため犬を手厚く葬りその地に欅が植えられたと伝える。
✿大津事件記念碑
明治24年(1891)来日中のニコライ(ロシア皇太子)が琵琶湖を観光しこの地(大津市京町2丁目)を通行中に津田三蔵巡査に斬りつけられた場所と伝える。
石碑 案内板
✿長等神社(ながら)
参道 楼門 拝殿
✿琵琶湖疏水第一トンネル東口洞門
✿園城寺(三井寺)
山門と石標
✿総本山圓満院門跡(天台宗)
寛和三年(987)に、村上天皇の第三皇子悟円法親王(ごえんほつしんのう)により創建された寺院です。園城寺三門跡の一つであり、宸殿(しんでん)、池泉式庭園がある。また、大津絵美術館が見学できる
門跡とは、一般の僧侶とは違い、皇族その他の出身者が住職をつとめる寺院をいい、歴代天皇のお位牌を泰安し、ご供養されているそうです。また、全国で17ヶ寺しかない貴重な寺院であり、よく知られるお寺は三千院、仁和寺、随心院、勧修寺、知恩院などです。
勅使門 石標
車寄
本堂
宸殿(国重文)の玉座 欄間 部屋(お座敷遊び「投扇興」)
庭園(国史跡)池泉式庭園 宸殿と庭園
庭園に繋がる井戸の形
大正天皇御手植
湧き水「三井の名水」
大津絵(江戸時代に大津の宿場で街道を行き交う旅人に「縁起物として神仏画」を描き売ったことが始まり。)
✿弘文天皇陵参拝道石碑
今回は行程の関係で散策できなかった場所で以前に散策した弘文天皇陵と新羅明神を祀る新羅善神堂の写真を参考に添付した。新羅善神堂は源義光(源頼義の子)がここで元服し「新羅三郎義光」となった。
御陵参拝道石碑
行程の関係で事前に写した写真です。
案内板 弘文天皇陵
参道鳥居 拝殿?
新羅善神堂本殿 案内板
✿蓮如上人御舊跡(おあと)石碑(長蓮寺)
石碑
✿近江大津宮錦織遺跡(国史跡)
天智天皇が白村江の戦い(663年)の後、明日香村よりこの地へ遷都したと伝える。
第1地点
石碑 案内板
第2地点
石碑 案内板
第7地点
第8地点
第9地点
石碑 案内板
✿近江神宮
祭神は天智天皇を祀っているが、創建は昭和15年(1940)に紀元2600年を記念してとのことと云う。
第一鳥居 第二鳥居
楼門
外拝殿
水時計
以上