2017/08/23 京都鞍馬山と貴船を訪ねる。
青春18切符を利用して京都御所の真北に鞍馬山がある。その南中腹の杉の巨木が茂る中の標高410mに鞍馬寺のお堂を目指す、この寺は源義経(牛若丸)の天狗伝説の地であり訪ねた。
これより標高約513mの山頂近くの尾根を越え牛若丸の修行地を通り、貴船川に並ぶ川床の雰囲気を味わってきた。
行程はJR名古屋駅→山科→三条→出町柳→鞍馬→ケーブル→徒歩(山越え)→貴船→貴船口→国際会館→JR京都→JR名古屋駅へと長い一日であり、目的地までの交通機関は8回、帰宅までは7回と慌ただしくまた落ち着かない列車、バスの旅でした。
✿叡山電車
出町柳駅 鞍馬駅行き
八瀬比叡山口行き 二軒茶屋駅から単線となる
貴船口駅は大勢の観光客が降りる。 鞍馬駅
✿鞍馬駅前
鞍馬駅前 鞍馬の天狗
火祭りのたいまつ
✿由岐神社
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っている。 天慶三年(940)御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請(かんじょう)したのが当社の初めといわれる。
由岐神社の名前は社前に靭(ゆき)<矢を入れる器具>をかかげて平安を祈ったため靭社の名がついたと云われる。
鞍馬の火祭(里人がかがり火を持って神霊を迎えとか)は毎年10月に、この社の例祭である。
参道 鳥居
大杉社の神木(願掛け杉) 神殿
拝殿(重要文化財)は割拝殿といい、慶長15年(1610)豊臣秀頼によって再建された。
狛犬(重要文化財) 吽(向右) 阿(向左)
✿仁王門
石標 参道
仁王門(山門)
✿ケーブル普明殿(山門駅)
等駅よりケーブルに乗り2分間で多宝塔駅に到着。
普明殿
●多宝塔駅にて昼食をとり、出町柳駅で購入したサンドイッチと休息を取る。
✿多宝塔<13:00>
多宝塔
✿参道
参道
✿弥勒堂
弥勒堂
✿九十九折参道と合流<13:08>
左が九十九折参道方面
✿巽の弁財天社
弁財天社
✿転法輪堂・洗心亭<13:12>
転法輪堂には木造阿弥陀如来座像(丈六)を安置するお堂である。
台座を拝見に行ったら、阿弥陀如来像の右手に「金糸」が結ばれていました。
転法輪堂(2階)・洗心亭(1階)
✿寝殿
貞明皇后の行啓の際、休息所として建造されました。
入口 寝殿
●多宝塔から本殿まで転法輪堂等を御参りしながら、ゆるい登りと階段を経て20分掛かった。
✿金堂(本殿)<13:21>
宝亀元年(770)に鑑真和上の高弟・鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天をお祀りし、延歴15年(796)には藤原伊勢人が堂塔伽藍を整え千手観世音も祀って「鞍馬寺」が創建された。
「阿吽」の虎は本尊毘沙門天のお使いである神獣です。
金堂
阿吽の虎
中央の尾根に延暦寺が有る。
光明心殿
奥の院参道
◇与謝野晶子・寛 歌碑
与謝野晶子「何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」
与謝野寛「遮那王が背比べ 石を山に見て わがこころなほ明日 を待つかな」
◇冬柏亭
昭和5年(1930)東京荻窪に建てた与謝野晶子の書斎を昭和51年(1976)に移築された。
冬柏亭
◇息つぎの水
牛若丸は毎晩、奥の院へと天狗に兵法修行に通う途中、この湧水を飲んでのどの乾きをうるおした場所と伝える。
息つぎの水
✿地蔵堂
地蔵堂
✿屏風坂の地蔵堂
屏風坂の地蔵堂
◇背比べ石<写真なし>
牛若丸16歳のとき、奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を下る際に名残を惜しんで、この石と背比べをしたと伝承されたと伝える。
●金堂から息つぎの水を過ぎた頃からかなり急坂の手すり付き階段が始まり、地蔵堂が見えるまでは最大の難所であった。
◇木の根道<13:50>
岩盤が固く根が地下に根を張れない杉の根が表面を這い固まった。
牛若丸も「木の根道」で兵法修行をしたと伝えられています。
木の根道
✿大杉権現社
拝殿の奥に杉の巨木(樹齢千年)は魔王尊影向の杉として信仰されている。
大杉権現社
杉の巨木
✿僧正ガ谷 不動堂
この辺りは僧正ガ谷と呼ばれ、謡曲の「鞍馬天狗」が牛若丸と出会った場所と伝える。
不動堂 僧正ガ谷の謡曲の看板
◇義経堂
義経堂 屋根に覆われた義経堂
✿魔王殿<14:10>
魔王殿は大昔(650万年前)、金星から降臨した護法魔王尊を祀るお堂で、周囲にある岩(磐座)はパワースポットの雰囲気がする。
魔王殿
●下り坂は痛む右膝をかばいつつ一歩一歩進んだ、事前調べでは15分、しかし23分掛かった。
下り階段
◇鞍馬寺の西門<14:33>
西門
✿貴船神社
石碑と鳥居 参道
貴船神社の一の鳥居(貴船口のバス停付近)
✿貴船の川床料亭
よしず屋根が川床料亭
川床桟敷
帰路は貴船を15時37分発のバスに乗り、国際会館から京都駅に出て、名古屋駅に着いたのは18時43分、3時間6分の公共交通機関の旅でした。京都駅では乗り換え時間がなくお土産を買う時間も有りませんでした。
以上
2017/08/09井伊直虎と井伊谷を訪ねる。
金山駅から快速で豊橋駅に向かい、豊橋駅で浜松行きに乗り、新所原駅にて天竜浜名湖鉄道で掛川行きに乗換え、気賀駅に着いたのが10時09分、遠鉄バスで龍潭寺行に乗換えて現地に10時30分に着きました。
○天竜浜名湖鉄道
フルラッピング列車「直虎号」
・気賀駅(登録有形文化財)
気賀駅上屋及びプラットホーム
駅舎
プラットホーム 入線の列車
○井伊共保公出生の井戸(伝)
寛弘7年(1010)井伊家の初代共保公が出生したという伝説のある井戸です。
井伊家出生の井戸 井戸
祖霊之地(「井伊氏祖備中守藤原共保出生之井」浜松市HPより)
・井伊大老直弼公は詠を歌って先祖をしのんだ。
「わきいづる 岩井の水のそこ清み くもりなき世乃 影ぞ見えつつ」
句碑
○龍潭寺(りょうたんじ)臨済宗
天平5年(733)行基菩薩により開創され、天文年間(1532~55)井伊直盛が黙宗瑞淵(もくしゅうたんえん) 禅師を招いて中興開山とした。永禄3年(1560)井伊直盛の死後、直親が父の戒名をとって現在の龍潭寺とした。宗良親王と井伊氏歴代の菩提寺である。
入口 参道
・山門 明暦2年(1656)(県重文)
・仁王門(県重文)
・本堂 延宝4年(1676)(県重文)
本堂に祀られているご本尊は虚空蔵菩薩(秘仏)です。
本堂
本堂
・釈迦牟宇尼佛坐像(丈六大佛)
享保14年(1729)建立の木彫寄木造り
遠州の大仏さん
・開山堂 元禄15年(1702)(県重文)
遠州地方に禅宗を広めた黙宗瑞淵禅師など代々住職の位牌を祀る。
開山堂 黙宗瑞淵禅師
・御霊屋 寛保2年(1742)
井伊家千年(40代)にわたる祖霊をお祀りしています。正面の右は共保公、中央は直盛公、左は直政公です。
御霊屋
直政公(左)直盛公(中央)共保公(右) 井伊家40代にわたる祖霊
・井伊直政公出生之地 石碑
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで活躍し、井伊の「赤鬼」と恐れられた。関ヶ原合戦では東軍の軍艦を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根十八万石城主となる。直政公は24代で幕末の大老井伊直弼公は36代である。
石碑
・名称龍潭寺庭園(国指定名称)
この蓬莱庭園は小堀遠州作の池泉鑑賞式庭園で中央に「守護石」で三尊を表現し左右に「仁王石」を配置し、手前には「心字池」で心を表現、池の中央付近に「蓬莱岩島」、池際には「亀出島」と「座禅石」を配置してある。そして書院から眺めは御霊屋へ「遥拝のお庭」で西方浄土のご先祖にご挨拶する。
庭全体の中央で中心に「守護石」で三尊を表現 池際には「座禅石」池の中は「蓬莱岩島」
池の左右に大きな「仁王石」を配置
手前には「心字池」 御霊屋へ「遥拝のお庭」
・井伊家墓所
正面の右は初代共保公、左は22代直盛公(直虎の父)で、左側の前から直盛夫人(松岳院・祐椿尼)、直虎(次郎法師)、23代直親(亀之丞)、直親夫人、24代直政と並んでいる。
初代共保公(右)22代直盛公(左) 奥から松岳院、次郎法師、亀之丞、直親夫人、直政と並んでいる。
○宗良親王御陵墓
後醍醐天皇の皇子で宗良(むねなが)親王を祀る。
入口(閉鎖)
○井伊谷宮
後醍醐天皇第4皇子、宗良親王を祀る。
石柱(神社の格で官幣が刻印してある) 鳥居
参道 拝殿
○妙雲寺(みょううんじ)臨済宗 「旧自耕庵」
直虎の菩提寺。直虎の死後、自耕庵へ葬られたと云われる。『妙雲院』は直虎の院号である。
(平日の御参りで境内には入れませんでした。)
山門 本堂
○渭伊神社(いいじんじゃ)
南北兵乱の時、龍潭寺から移った。井伊氏の発祥で氏神
石碑(渭伊神社と刻印) 拝殿
御神木
○天白磐座遺跡
渭伊神社の本殿背後の丘にある古墳時代の巨石祭祀の遺跡で「水神」「井の神」が祀られている云われる。本殿横を登ると爽やかな風が吹き古墳時代より神様が降りてくる祭祀場所で、この巨石は神聖なる石(磐座)であり「パワースポット」の霊気が伝わって来ます。
頂上付近の巨石群
巨石の中からたくましい木が。
パワースポット感を臭わせます。
神社の入口に「鳴岩」の標示が有った。
○井伊直虎公墓所
一般住宅の置くにひっそりと祠が建っていた。民地に真新しい手製の参道が作られて有り難く思い感謝しました。
参道(新しく整備された跡が残る) 祠
祠 墓石(直虎)
○浜松市地域遺産センター
「戦国の井伊谷」を開催している。
ジオラマで井伊谷戦国絵巻、直親ゆかりの「青葉の笛」触れるレプリカ、そして発掘された井伊谷の遺跡の出土品が数多く展示して有ります。
写真なしです。
○井伊谷城跡
野面積みの石垣で城跡を感じる。
途中の休憩所より望む井伊谷
・城山稲荷大明神
参道 本殿
○気賀関所
慶長6年(1601)徳川家康によって創設された姫街道の関所です。
冠木門 本番所
○大河ドラマ館(有料)
ドラマ館
以上
2017/08/02 京都市伏見を歩く。
今回は仲間6人でJR奈良線桃山駅を11時に出発して「伏見酒造のまち」を観て15時に当駅に戻ってきた。
✿御香宮神社(ごこうのみや)
神功皇后を主祭神として仲哀天皇、応神天皇ほか6柱の神を祀る。一説には平安時代、貞観4年(862)に、境内から清泉が湧き出し、これを飲んだ病人の病が癒えたことから、清和天皇より社殿を修理するよう勅旨くだされ、以後、御香宮とよばれた。
道路上の鳥居 東入口の鳥居
表門は元和8年(1622)御三家水戸徳川家の祖・徳川頼房(黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進した。(国重文)
拝殿(割拝殿)(府重文)
拝殿入口の模様
本殿(国重文)
御香水は伏見の七名水の一つで、徳川御三家それぞれの初代、尾張の義直、紀伊の頼宣、水戸の頼房が産湯をつかったとい云われる。
✿桃山天満宮
参道 拝殿
○伏見義民跡
天明5年(1785)時の伏見奉行小堀政方の悪政(重税・重罪を課して暴ぎゃくがその極みに達した)を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自ら悲惨な最期遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。
石碑 石標の入口にある狛犬(?)
✿伏見銀座の碑
鋳造を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所を徳川家康は特権商人によって構成させた銀座町である。
石標
✿会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが始まる前日の夕刻、薩摩藩の先鋒隊が大坂から船にて伏見京橋で上陸しここ伏見御堂を宿陣としたと云う。
山門 石標
✿油懸地蔵尊(西岸寺境内)
寺伝によれば、昔、山崎の油商人が門前で転び、この地蔵尊にこぼした油の残りをそそいで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたという。
石標
地蔵尊堂 地蔵尊(油で光ってます)
芭蕉の句碑
・芭蕉の句碑(我衣に ふしみの桃の 雫せよ)
貞享2年(1685)住職の宝誉上人を訪ねた折に詠んだ詩である。
✿白菊水
延宝5年(1677)の酒作りに使われ、「御香水」と同じ水脈と云う。
水汲みの列
✿伏見土佐藩邸跡
石標
✿寺田屋
坂本龍馬が定宿と場所で、慶応2年(1866)お龍(龍馬の妻)の機転で難を逃れた襲撃事件と文久2年(1862)薩摩藩士との寺田屋騒動が有名である所である。
薩摩九烈士遺蹟志の石碑
坂本龍馬像
石碑(坂本龍馬先生避難の趾と刻印)
✿寺田屋はま
京橋よりみる「寺田屋はま」
石標 船着場
✿伏見口の戦い激戦地跡
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが始まる前日の夕刻、薩摩藩の先鋒隊が大坂から船でこの辺りで上陸したと云われる。
石標
✿京橋
江戸時代、舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋辺りと云われる。
伏見港と思われる
✿伏見長州藩邸跡
土木事務所内石標
観月橋(古く昔ここに橋が有ったのかな?)
✿長建寺
本尊は弁財天を祀る。中書島開拓にあたって伏見奉行建部内匠上政宇(まさのき)が、元禄12年(1699)多聞院を移し、奉行の名と長命息災祈り「長建寺」と名づけた。
山門 楼閣
本堂
閼伽水 アリア燈籠(切支丹灯篭)
✿十石船発着場
弁天橋
発着場
○大倉記念館
記念館の入口
✿魚三楼(うおさぶろう)
「鳥羽伏見の戦い」の弾痕が連子格子に残されている。
魚三楼
連子格子の弾痕
弾痕の向きはこの方向かな?
✿伏見奉行所跡と伏見工兵第十六大隊跡
石標
・残念、今回は薩摩島津藩邸跡を廻ることが出来ませんでした。
以上
2017/07/26(水) 近江八幡市を訪ねる。
○近江八幡
安土城が焼失してから、城下に安土に集めたれた多くの商人たちが移住し、商業が発展しました。ところが間もなく、時代は徳川時代へ代り、近江八幡は幕府直轄の転領地となると商人は幕府の「通行手形」を手に全国を商いして廻って発展したと云われる。
○八幡堀めぐり
八幡堀は八幡山に築城した際、琵琶湖を結ぶ運河で重要な役割り、内堀として軍事的機能とともに、廃城となった後は琵琶湖との連絡用の水運交通として利用された。
八幡堀入口の石標
船より観る八幡堀風景 荷揚げ場 常夜灯と白雲橋
○八幡城跡
豊臣秀次(秀吉の甥)18歳で領地を拝領し、天正13年(1585)に八幡城を築いた。天正年(1590)秀次は尾張清洲に移り、京極佐々木高次が領主として入城した。翌年、秀次は文禄4年(1595)謀反の疑惑をかけられ自害に追い込まれた。同年、京極高次も大津へ転封となり八幡城は廃城とされた。
旧八幡城の野面積みに石垣
○村雲御所瑞龍寺(日蓮宗)
豊臣秀次の菩提を弔うため、生母日秀尼(にっしゅうに)が京都の嵯峨の村雲に創建し、「村雲御所」とよばれ、昭和37年(1962)この地へ移された。
石標 山門
本堂
○日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)
祭神は誉田別尊で他二柱です。
楼門
拝殿
鬼瓦(右三つ巴)・飾り打ち出し板金(左三つ巴)何か深い意味が有りそうです。
○明神鳥居(県重文)
元和2年(1616)の造営された木造の鳥居
明神鳥居
白雲橋
八幡堀一望スポット
○白雲館
明治10年(1887)に八幡東学校として建築された。現在は観光案内所と市民ギャラリーとして利用され、国重文である。
白雲館
○ウォーリズ像
明治13年(1880)アメリカのカンザス州に生まれ、明治38年(1905)に英語教師として八幡商業高校に赴任してきた。後に多くの建築を残した。近江兄弟社の創設者の一人でもありキリスト教の伝道者でもあった。
現在現存する建物は、一柳記念館、旧八幡郵便局、池田町洋風住宅街、旧伊庭家住宅が残っている。
ウォーリズ像
○歴史民族資料館付近(旧西川家住宅と森五郎兵衛宅)
○西村太郎衛門宅址 (バックは資料館)
屋号を「綿屋」と称し蚊帳・木綿の商いをしていた。また日牟禮八幡宮への奉納した絵馬「安南渡海船額」(国重文)がある。
西村宅石標(安南屋西村太郎衛門宅址と刻印) 西村宅石標の裏側の交差点(後方は資料館)
○旧伴家住宅
天保11年(1840)の建築住宅は朝鮮人街道(京街道)に面した場所で、蚊帳・畳表・ろうそくなどを商っていた。
入口 石碑(國學学家伴蒿蹊宅址と刻印)
○朝鮮人街道 道標
朝鮮通信師が江戸まで通った道で「朝鮮人街道」と呼ばれた。
○本願寺八幡別院(浄土真宗)
本堂(県重文)享保元年(1716)、表門(県重文)明和4年(1767)、鐘楼は文政8年(1825)頃に建造された。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した家康は、上洛の途中この別院に宿泊したと云う。
表門 本堂
八本柱の鐘楼
○池田町洋風住宅街
苔むしたレンガ塀が洋風の雰囲気を出している。
レンガ塀
○八幡小学校
旧入口門 旧校舎
以上