2015/10/15 西美濃・秋の古刹を訪ねる。
『尾張文化の会』のメンバー36名と見学に行って来ました。(No372)
今回は美濃地区を訪問することで、大垣市、垂井町の観光協会と調整しました。コースは来振寺→真禅院→美濃国分寺→美濃国分寺跡です。しかしながら訪れたい寺社仏閣等は多く有ります、たとえば、南宮大社(祭事中で日にちが悪い)、明星輪寺、垂井町街道沿いの寺など多くの見どころは有ります、残念ながら大型バスが近寄れないことから断念しました。
宝雲山明星院来振寺(きぶりじ)
霊亀元年(715)に行基が建てた法相宗新福寺が始まりであると伝えられています。 神亀2年(725) に、寺の裏山である白山に黄金色の雪が降り積もり「加賀の白山権現、菊理姫神天下る」それを伝え聞いた聖武天皇の勅号により、来振寺と名を改めたということです。
・入口 ・境内図
◇西国三十三観音堂
三十三ヶ寺の砂を台座下に納めるミニ霊場
・参道
◇弁天堂
竜宮の乙姫と美青年農夫との恋物語の伝説が残る。
・放生池 ・弁天堂
◇山門(四天王・鐘楼門)
・三門
◇本堂(観音堂)
本尊十一面観音です。
・本堂
◇不動堂 / 聖天堂
・不動堂 と 聖天堂
◇大師堂
本尊弘法大師・脇侍左・・・興教大師 右・・・地蔵菩薩
・本堂
〇脇内陣天井の左右「阿吽の竜」
裏山の白山中腹にあった樹齢九百余年の霊木大杉の板(3m四方)に、京都の樋口富麻呂画伯が画いたものである。
・阿吽の竜
○国宝に指定された。奈良国立博物館に寄託。同寺大師堂に複写。
○絹本著色五大尊像の5幅、不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・烏蒭沙摩明王
・大威徳明王・烏蒭沙摩明王・不動明王・降三世明王・軍荼利明王
◇来振寺の義山僧正
義山僧正は二十一歳の時、来振寺の住職弘意法印に師事して出家得度。その後、京都六波羅普門院住職と転住の後、真言宗の智山派総本山智積院の第十二世管長となった人物である。
朝倉山真禅院(しんぜんいん )
行基(ぎょうき)が創建し、南宮大社の別当寺(南神宮寺)となったと伝えられています。南宮神社同様、関ケ原合戦の兵火により炎上。家光が再建し、明治初年の神仏分離令によって現在地に移されました。
・寺号碑 ・入口
◇ 本地堂(ほんちどう) (国重文)
本尊は阿弥陀如来
・本地堂
◇ 三重塔 (国重文)
本尊は大日如来(金剛界)
・三重塔
◇観音堂 (町文化財)
本尊は十一面観世音菩薩
・観音堂
◇梵鐘 (国重文で奈良時代)
美濃国最古の鐘で除夜にのみ使用される。
・梵鐘
◇鐘楼 (県重文で寛永十九年再建)
・鐘楼
◇鉄塔 (県重文)
北条政子が源頼朝の菩提を弔うために寄進。現存は全国に僅か三塔のみ関ヶ原合戦時に破損し初層と二層部分のみが残っています。
・正面 ・裏面 ・全体図
美濃国分寺(みのこくぶんじ)
天平九年(737)、人皇四十五代聖武天皇様が、この尊い御仏の御教えを日本全土に広め、国民生活の安定と国運の隆昌を祈るため、古の国々に一ヵ寺あて、国分寺を建立しました。 その国内の仏教伝道の先駆としようとの有難い御勅願によって、行基大僧正が勅を拝し、美濃国の国府、府中に近い青野ヶ原に来て、住民の除災招福を祈念し、自ら一刀三礼(一刀彫る度に三礼)、ケヤキの大木一本にて、一丈六尺(約4メートル)の薬師如来の尊像を彫刻して本尊とした。
・本堂 ・全景
◇木造薬師如来坐像
●欅[けやき]材 一木造 彫眼 ●像高:304.8cm 膝張:112.5cm 膝高:22.7cm
・収蔵庫 ・薬師如来坐像
美濃国分寺跡歴史公園(みのこくぶんじあとれきしこうえん)
伽藍はその国々の事情によって異なりますが、大体は寺域二町四方(4ヘクタール)に南大門、中門、金堂、講堂、回廊、七重塔、鐘楼、軽蔵、僧房等のいわゆる七堂伽藍があった。
・石碑 ・模型
以上