2019/04/21_明智光秀ゆかり(伝/生誕)の地を訪ねた。
明智光秀の幼少は謎が多く、生誕地は3から4か所あると云われて、岐阜県恵那市明智町「明知城(白鷹城)」、岐阜県可児市瀬田「明智城(長山城)」が優良候補の地と名のっている。
✿明知城跡(白鷹城跡)県史跡
小高い城山(約530m)の頂上にあり、宝治元年(1247)遠山影重が築城したと云われる。影重は源頼朝の重臣である加藤次影兼の孫といわれた。
明知城跡の説明版
本丸
城門石垣跡 二の丸跡
✿天神神社(光秀公学問所)
祭神は菅原道真公とある。
明智光秀公が幼少の頃、京都の学僧(嵯峨天竜寺の雲水・勝恵)を招いてここで学問に精通した所と云われている。
拝殿 神殿
✿於牧の方墓所
明智光秀公の母、於牧の方の墓所。
墓標 墓標横の大木
✿千畳敷砦(落合砦)また土岐明知城(多羅砦)
明知城が築城されたころ、千畳敷台地に出城として砦が築かれた。またここには伝説の「光秀公産湯の井戸」もある。
上り口 城跡
山頂から眺める明智町
✿光秀公産湯の井戸
明智光秀産湯の井戸の伝説はここ岐阜県の恵那市明智町と恵那市瀬田(現在痕跡なし)また山県市中洞の伝説の「井戸」がある。
✿光秀公供養塔(明智光秀公御霊廟)
御霊廟と石標(明智光秀公出生地)
・明智遠山氏と土岐明智氏の系図版
✿代官所陣屋跡
✿八王子神社(金幣社)
天照大神の八人の王子(王女三人・王子五人)を祀り、平安時代の天暦三年(949)に創建。
参道 拝殿
✿龍護寺(りょうごじ)臨済宗
明智遠山家の菩提寺である。
大永元年(1521)頃ここに搒厳院(りょうごんいん)という草庵があり、慶長元年(1596)明知城城主遠山利景は城の北に一宇を設立。そして搒厳院を改め龍護寺とした。
本堂 三門
以上
2019/04/18 岐阜市にある寺、城を訪ねた。
『尾張文化の会』のメンバー36名と今年度最初のバス旅行で岐阜市にある常在寺、正法寺、大龍寺、岐阜錠を訪ねた。当日の天気は快晴でこの数日20度を超し上着は要らずカッターシャツで行動していた。また、天皇皇后殿下は退位の報告に伊勢神宮に来られでこの地域は皇室フィーバーしていた。(No409)
〇鷲林山常在寺(じょうざいじ)日蓮宗
室町時代の宝徳二年(1450)土岐家守護代として美濃を支配していた斎藤妙椿(みょうちん)公が建立しました。
斎藤道三の菩提寺とし、のちの斎藤道三三代の菩提寺と云う。
・本堂内には斎藤道三と斎藤義龍画像(重文)の複製が展示してあった。
・境内には斎藤道三供養塔・斎藤家五輪塔がある。
・住職は寺の話の中にいわゆる「長良川の戦い」で斎藤義龍は道三の実子ではなく、かつての主の土岐頼芸(よりよし)の落胤(らくいん)と言われていました。そのため道三は義龍に家督を譲るのを良とせず、実子である孫四郎(次男)や喜平次(三男)を可愛がり家督を譲ろうと工作しました。そして道三を討ち取った者「小牧源太(こまきげんた)」の話になり源太は大殿の斯様な姿など見たくはないと密かに川の土中に埋めた。現在は対岸に史跡「道三塚」として江戸後期に移されたと語っていました。
石標 本堂
〇金鳳山正法寺(しょうぼうじ)黄檗宗
天和三年(1682)に大休(だいきゅう)禅師の命を受け廣音(こうおん)和尚がここに草庵を結んだことに始まり、開山は大休禅師の祖翁の千呆(せんがい)禅師とし、黄檗山萬福寺の末寺であると云う。
・岐阜大仏(県重文)
当山の門徒が少なく、各地への托鉢を重ね浄財を仰ぎ寛政六年(1794)には頭部だけの出来上がり後に、全体像は文政十二年(1829)に完成を迎え、天保三年(1832)の開眼供養には尾張尾州候の使者を賜り、38年の歳月をついやしたと云う。
日本三大仏の一つに数えられるこの大仏は乾漆仏としては日本一の大きさであり、仏像(坐像)は高さ13,7mで大イチョウの直柱を中心に骨格は木材で組み外部は竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたものであると云う。
・大仏のまわりを取り囲んでいる五百羅漢像(江戸中期)が配されている。
・大仏殿(県重文)
大仏殿は中国の様式が感じられる。
〇金粟山大龍寺(だいりゅうじ)臨済宗妙心寺派
この地域では「だるま観音」大龍寺で親しまれています。
寺伝では、第四十一代持統天皇の御世(686~697)に鎮護国家の為に創建されたのが始まりと云う。本尊の腹帯子安観世音菩薩は、第七十七代天皇であった後白河院が安元元年(1175)に、孫の安徳天皇の托胎安泰の勅願所として安置した霊尊です。
住職のお話は「仏のことば 丁度よい」、丁度よいのだと聞こえた時 お前はお前で丁度よい、顔も体も名前も姓も お前はそれで丁度よい、・・・仏様と二人ずれの人生 丁度よくないはずがない 憶念の信が生まれます 南無阿彌陀佛 で多くのことばの最後に「丁度よい」が付く素敵な言葉と感じました。
本堂
鐘楼
地蔵堂
・達磨大師
大きさは高さ約5m(丈六)の達磨大師坐像です。
・花の庭園 満天星(どうだん)
一面真っ白に見える木は近くによるとスズランのような花が鈴なりです。
〇岐阜城
三重塔 一ノ門
天守
今回の岐阜城は「山上部発掘調査」で発見された場所を見たく出かけた、簡単に発見できると甘い考えであったと反省する。
ロープウェイより天守までの道をじっくり探したが素人には難しく、帰り道に「二の門」下で偶然パンフレットを入手したが団体行動で集合時間が迫り、・・・結果的に場所はパンフに有り、「今回の発掘調査で確認した石垣は、「下台所」に入る「二ノ門」の下位置します。・・・信長の入城の際に築かれたと考えられます」と写真入りの概略図も付いていました。目視できなく残念であった。
パンフレットに載っている調査位置
調査位置の近く「下台所」 近くの調査位置
以上
2019/04/05 醒井宿から番場宿・鳥居本宿まで歩いた。
◎蓮花寺(れんげじ)浄土宗本山(旧時宗大本山)
約1400年前聖徳太子が創建され、健治2年(1276)落雷により焼失した。その後弘安7年(1284)一向上人(法然上人の法曾孫)が諸国行脚の錫を留めて念仏を宣布して広く民衆を化導せられ、時の鎌刃城主(土肥三郎元頼)は深く一向上人を迎えて開山上人と仰ぐ。歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅使寺として勅許を賜り、寺紋として「菊の紋」を下賜される。
南北朝時代、足利尊氏の寝返りにあって鎌倉へ落ち延びる途中、足利尊氏に攻められた六波羅探題北条仲時は番場宿まで逃げたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、ついに蓮華寺で仲時以下430余名が自刃。寺に残された「過去帳」に自刃した武士の法名が残されている。
堂宇は、室町時代に応仁の乱の余波を受けて再び焼失したため、戦国時代に再興されたと云う。
また、長谷川伸の小説「瞼の母」の舞台として知られ、番場の忠太郎の故郷として、境内に忠太郎地蔵尊が立てられています。また、蓮花寺49代和尚の門弟であった斎藤茂吉の歌碑が建っています。
〇参道(入口)
〇三門(勅使門)
〇銅鐘(重文)
〇本堂
〇寺号額(後水尾天皇ご宸筆)元禄11年(1698)
〇「陸波羅南北過去帳」(重文)
「過去帳」に自刃した武士の法名が寺に残されている。
〇八葉山蓮華寺時代の山額「八葉山」
〇北条仲時以下430余名自刃の供養墓碑
〇番場忠太郎墓碑
〇番場忠太郎地蔵尊(長谷川伸が設立)
〇斉藤茂吉歌碑(第49世佐原和尚の門弟です)
「松風の音聞くときは古への聖の如く我が寂しむ 茂吉」
〇一向杉
樹齢700年の巨木で開山一向上人が弘安10年(1287)に植えられたと云う。
以上
2019/04/05 奈良県桜井市の大神神社を訪ねた。
愛知県のJR金山駅より奈良県桜井市のJR三輪駅まで青春18きっぷを利用して4回の乗り換えをへて4時間30分の工程であった。当日は春うららかな天気で「大美和の杜展望台」ではソメイヨシノ、枝垂桜が咲き誇り疲れと心あらわれました。
✿大神神社
大神神社のご神体は拝殿の後ろにそびえる「三輪山」です、全山が杉・松・檜に覆われ太古より神が鎮まる山と仰がれてきた。大国主神(おおくにぬしのかみ)が自らの魂を大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の名で三輪山に鎮めたことが『古事記』『日本書紀』神話に記されていると云う。
ご祭神の大物主大神は国造りの神であり、農、工、商、全ての守護神で、「三輪の明神さん」として仰がれています。
〇二の鳥居(扁額は三輪明神)
〇拝殿(重文)
寛文4年(1664)徳川家綱により再建と云う。
ご神体の三輪山を神の山と拝殿を区切る場所に立つ「三ッ鳥居」(重文)をとおし拝む姿を留めています。
✿祓戸神社(はらえどじんじゃ)
体と心を祓い清めてくださる祓戸の神様。
〇夫婦岩
〇衣掛の杉
〇巳の神杉(みのかみすぎ)
〇くすり道
✿活日神社(いくひじんじゃ)
✿磐座神社
✿狭井神社(さいじんじゃ)
三輪の神様の荒魂をまつる神社です。
✿薬井戸
✿三輪山登拝口
✿清月の記念碑
三島由紀夫の「清月」記念碑を篤信家が建立
✿皇后殿下御歌(昭和45年)
歌碑「三輪の里 狭井のわたりに 今日もかも 花鎮めすと 祭りてあらむ」東宮女官長 松村淑子謹書
✿市杵島姫神社(いちきしまひめじんにゃ)
✿大美和の杜展望台
大鳥居の西にある三角の山は「耳成山」です。
✿久延彦神社(くえひこじんじゃ)
久延毘古命は『古事記』に知恵の神様とある。
〇大直穪子神社(おおたたねこじんじゃ)(重文)
三輪の大神様のご子孫である大直穪子命(若宮様)を祀る。
以上