きままな旅

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2024/12/12 熱田神宮近辺の散策です。

2024-12-17 | 尾張文化の会

2024/12/12熱田神宮近辺の散策です。

JR熱田駅⇒熱田神宮⇒蔵福寺(ぞうふくじ)⇒林桐葉(はやしとうよう)宅跡⇒から円通寺(えんつうじ)⇒JR熱田駅

熱田駅
✿熱田区役所
 
熱田区役所

区役所南の広い土地

✿熱田神宮
 三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀ったのが神宮の起源で、社が鎮座されたのは景行天皇の末年頃(2世紀初め)とされる。古くから「熱田さん」と呼ばれ、6月5日の熱田まつり(尚武(しょうぶ)祭)で親しまれている。本宮、拝殿、神楽殿などのほか、別宮の八剣宮、摂社の上知我麻神社など、境内には摂社8、末社18が鎮座。歴史的建造物として、清雪門、西楽所、龍影閣、信長塀、佐久間灯籠、二十五丁橋などがある。宝物館には、刀剣、鏡など6,000余点があり、公開されている。

山門

拝殿

鞭掛け 千木 鰹木
   
東入口(四季桜、紅葉、銀杏)
 
ならずの梅 説明版

大幸田神社
  
八百万神社(東)  八百万神社(西)

信長塀

大楠 説明版
 
佐久間灯籠(東) 説明版 
 
佐久間灯籠(西)
 
二十五丁橋

✿蔵福寺(ぞうふくじ)
 浄土宗西山禅林寺派、山号は宝亀山(ほうきざん)。延宝4年(1676)、当初は市民の生活のため、後には七里の渡し航行のためにも使われた、時を告げる鐘を設置。鐘楼は戦災で焼失したが、鐘は残る。

本堂

✿林桐葉(はやしとうよう)宅跡
 桐葉七左衛門は、芭蕉の友人であり門人。芭蕉は、貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の旅以降、たびたび熱田を訪れ、桐葉宅で句会を開いた。また、桐葉は臨高の号をもち、書の大家でもあった。

宅跡

説明版

✿松姤社(まつごしゃ)
 熱田神宮(あつたじんぐう)の境外摂社で日本武尊(ヤマトタケル)と宮簀媛命(みやずひめ)が出会った地と云われています。

鳥居、石柱
 
祠  

祠の鰹木

✿海国寺(かいこくじ)玉竜山 臨済宗妙心寺派
 布曝女町(そぼくめまち)にあり、天文八年(1539)、叔榮(しゅくえい)が開山する。叔榮は加藤図書助順盛(かとう ずしょのすけ のぶもり)の一族なので、海国寺は加藤家(加藤家は織豊時代ごろに熱田で勢力を伸ばした一族)の菩提所である。叔榮の弟子で海国寺二世の仁峯(にんぽう)は順盛の三男である。その他に忠岳和尚(叔榮の弟子)・潔堂和尚(けつどう)なども住持した。

山門
 
本堂  庭

門前の六地蔵

✿喜見寺(きけんじ)雲龍山
 当寺の由緒は、熱田の地を支配していた西加藤家の祖である「加藤隼人佐延隆」が弘治二年(1556年)に創建 し、権大僧都「堯瑜」によって開山された寺院になります。前回紹介した「臨済山龍珠寺/紹介 記事」を創建した加藤隼人佐延隆が創建した寺院になります。
 一時は本堂となる観音堂の他に慈眼院、吉祥坊、延命院、春養坊、甚光院、宝泉坊の支院六 坊を有していたが、徐々に荒廃し、貞享三年(1686年)に開創した加藤家と協力し再建するが、 延享二年(1745年)に支院六坊の内春養院のみを遺し廃亡に帰し、残った春養院を喜見寺と合併 した。
 境内には弘法大師が掘り当てたという井戸が残っていたそうです。
 また、その昔、現在喜見寺が立っている場所は「布曝女町(そぶくめまち)」と呼ばれていました。
 「日本武尊」が東征の途中に尾張国のこの場所を訪れた時、川辺で布をさらした美しい女性が 一人いた。その女性の名は「宮簀媛」である。
 その後、日本武尊と宮簀媛は結ばれた。このよ 「うな話から「布曝女」という名が付いたと云われている。

山門

本堂

燈籠

名古屋二十一大師霊場めぐり【看板】

✿祠、井戸
 
祠  井戸

✿新宮坂神社
 由緒諸々不詳のようです。
 
鳥居 参道

聖堂

✿栄立寺(えいりょうじ)清正山
 榮立寺の本堂に祀られる衣冠束帯姿の清正公像(写真)
 境内に祀られている名古屋城の石垣と同じ巨石がある。
 御利益は「何かを成し遂げたい時に祈りをささげると良い」
〇清正公力石が鎮座する熱田の霊場
 清正の座右の銘は「履道應乾(りどうおうけん)」。一歩身を引き、成すべき事をしていれば必ず道は開けるという意味だ。徳川家康の名古屋城築城に豊臣恩顧の大名が動員された際も、清正はその信念のもと、天下普請に参加。築城の名手として天守台の石垣を単独で任されるなど大いに活躍した。なかでも、三河湾の篠島から切り出した石を、港のあった熱田から城まで大勢の人力でにぎやかに曳いた話が有名だ。沿道の店から酒や餅をすべて買い上げて人々に振る舞ったので、見物人も皆喜んで石曳きに加わったという。名古屋城で最大の石垣石材は(天守台のものではないが)表面実面積が10畳もあり、「清正石」と呼ばれている。
 また、清正が熱田の港で陸揚げしたものの、大きすぎて動かなくなった石もある。「中村の清正公さん」に対して「熱田の清正公さん」と呼ばれる榮立寺の「清正公力石」だ。第二次世界大戦の空爆で砕かれ、小さくなったそうだが、今もどっかりと境内に腰をおろしている。触れればパワーがもらえると、わざわざ撫でに訪れる参拝者が後を絶たないそうです。

山門

本殿
 
清正公力石  石標(昔在金城苑清正公力石)

清正公霊場石標

✿圓通寺(えんつうじ) 補陀山(ほださん) 曹洞宗
 尾張氏が熱田社内に神宮寺として建立し、弘仁年間(810から824)弘法大師が自刻の十一面観音像を安置し、円通寺と命名したといわれる。
 参拝者は「秋葉山」とこの辺りでは言います、
 
秋葉山山門   本堂
 
圓通寺山門  本堂(左側)秋葉山本堂(右側)

構内(東向き)
 
大黒天
 
弁財尊天
 
子持石

 
桜三波
 
紅流

圓通寺の尾張名所図会(前編3-35、36)
 
尾張名所図会前編3-35と36

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