シゲジイのgooブログです!

家庭菜園の様子や日々の出来事などを紹介しています。また趣味の活動状況などもをアップしています。

第29回坂東市いわい将門ハーフマラソン大会が晴天の11月10日開催されました

2019年11月11日 | アマチュア無線

 晴天のなか,第29回坂東市いわい将門ハーフマラソン大会が

11月10日 日曜日 坂東市総合体育館を中心とするマラソンコースで

坂東市主催 ハーフマラソン実行委員会により盛大に開催されました。

雲一つない絶好のコンディションの中,約八千人のランナーを迎え

健脚が競われました。

 

 マラソン大会の開催に合わせて,小生が所属する岩井中央ハムクラブ

(コールサインはJL1ZNO)ではクラブ員が競技場の一角でアマチュア無線の

公開運用を行いました。

 

近年,自然災害等の非常時にアマチュア無線が通信手段として効果を発揮することが

知られ脚光を浴びつつあります。

 

 当クラブでは,アマチュア無線の楽しさを市民の皆さまやマラソンで訪れる方々に

知ってもらおうと,毎年将門マラソンに合わせて公開運用を行っています。

 

当日は早朝からメンバー局が機材を持ち寄って,テントの一角を借りて設営しました。

市内の数か所にクラブ員各局が移動し会場と交信を楽しみました。

 

また,マラソン大会と同じ時間帯に市内のメイン通りを歩行者天国にして

将門まつりが行われ,こちらのほうも大賑わいだったようです。

 

 

     早朝のゴールポストの様子です

 

 

     陸上競技場に設けられたマラソンゴールです

 

   選手たちが最後に入ってくるゴール前直線コースです

 

         ゴールと救護所です

 

     岩井中央ハムクラブの公開運用ブースです

 

         片隅に運用のアンテナを設置しました

 

今年のマラソンは,タイムもよかったように思います。

ゲストランナーは,吉田香織さんでした。

 

ランナーの皆さんお疲れさまでした。

 

クラブ員各局公開運用への参加お疲れさまでした。

 

 それではまた‼

 

 


アマチュア無線局開局50周年記念趣味の無線50年を振り返って 最近の無線機(愛機)事情

2019年02月17日 | アマチュア無線

アマチュア無線局開局50周年記念

趣味の中での無線を楽しんで来て50年を振り返って

使用してきた,あるいは使用中の無線機を振り返って見ます。

 

先にも書きましたが,開局時は,オール真空管の自作の送受信機を

使っていましたが,その後の通信方式がAM(現在のAMラジオ放送と同じ方式)から

時代は,SSB(シングルサイドバンド)方式へと変わりました。

 

こうしたことから,自作するのも技術的のも難しくなってきたことと,

メーカー製の機器が普及してきて,私のような無銭家?(無線家)でも手が届くようになり

メーカー製の機器にとってかわる時代となっていきました。

 

これまで,いくつもの変遷をして,現在の機器があります。

 

   これが,今当局の一番最新の使用無線機です。

まだ,購入して間もないので,使いこなすまでには至っておりません。

次に紹介するのは,上の機器のその前まで使用した機器です。

しばらく使用しないでいましたら,ディスプレイに不具合が出たので思い切って処分して

新たな機器の購入費に充てました。

これが愛用したメインの無線機です

 

 

左側に少し写っているのは,多分30年以上は経っている無線機です。

未だに完動品です。

 

 次は当局の愛読書で CQハムラジオ というアマチュア無線の雑誌です。

戦後間もなくの発刊から現在までずっと続いている,アマ無線のバイブル的な雑誌です。

もちろん開局の頃から現在までほとんどを購入しています。

 

 

 

 

昔は発売日に本屋さんへ行くのが楽しみでしたが(月刊誌)現在は,

年間購読していますので,発売日の1日,2日前に宅配されます。

開局の頃は,この雑誌の製作記事を見て,せっせと自作に励みました。

今では,無線界の情報源です。

 

この雑誌の付録です。

様々な情報源として重宝しています。

 

この中にも以前の使用無線機がまだ後継機として掲載されています

 

こちらはハムライフの楽しみ方を解説した付録です。

 

このCQ誌は,まとまると結構な重量になりますので,現在は1年分ぐらい溜まると

子供会や小学校の廃品回収時に処分しています。

 

50周年記念で,少しはお空に出ようと思うのですが,最近はビデオ編集や

パソコンで,音楽ビデオ編集などをしていることが多く,ままなりません。

 

少し暖かくなって来たら,気合を入れて交信しようと思います。

 

   それではまた!

 

 

 


アマチュア無線開局50周年記念 50年を振り返るその4

2019年02月11日 | アマチュア無線

振り返るシリーズその4

アマチュア無線開局50周年記念 50年を振り返るその4

今日は、50周年の我がアマチュア無線とのかかわりの中で、上級資格への取り組みについて振り返ります。

 しばらくの間は、電話級の資格で続けてきたハム(アマチュア無線の総称でHAMとも書きます)でしたが、

前の回でも書きましたように電信級を受験した際に、モールス符号を覚えましたので、もったいないので

もっと速いスピードの受信ができるように、カセットテープの模擬問題を購入し、

そして小型のカセットレコーダーも購入して

暇な時間に聞いて、書き写すことを始めました。

最初は間違いも多いのですが慣れてくると、少しずつ速いスピードでもとれるようになります。

そうなると面白いので、練習も楽しくなります。

当時は勤めがありましたので、お昼休みの時間に昼食を済ませた後かなりの時間がありますので、

毎日練習しました。

そこで、無線クラブの友人と2級を受けましょうということになり、再度受験に臨むことになりました。

これは平成に入ってからのことです。

2級のモールス試験は、1分間に45文字のスピードで送られる符号を書き取っていくもので、

当時は2分間の受信で行われていたと記憶しています。


そこで練習は、それより早い、1分間に60文字のスピードで練習しました。


これは1級資格の試験のスピードです。練習では70文字くらいまではとれるようになっていましたが、

実際の試験で戸惑わないよう60文字くらいで毎日練習しました。

実際受験するとなると学科が問題となってきます。

というのも学校を卒業してから数十年たっていますから、今更ながら数式を覚えたりそれを解くなどとは、

夢のまた夢状態です。

学科の中でも、法規の問題は、記憶が頼りですので過去の数年あるいは10数年の間に試験で

出題された既出問題集を購入して、徹底的に覚えました。(覚えるだけです。)


法規はひたすら覚えるのみですので、クリヤーし易かったです。

さて、難関の無線工学です。こちらも既出問題を数多くこなし、理屈などはどうでもよいとばかりに、記憶あるのみです。

しかし肝心の記憶力も相当落ちている状態ですから、数多くやる以外に手はありません。


この当時は既出問題が7~9割ぐらいで、新問題は少しだったと記憶してますが細かくは覚えていません。


既出問題を確実にして、新問は半分あきらめて、万が一解けたら儲け? 的に考えることにしました。

そんなこんなで、受験の日を迎え気を引き締めて会場に向かいました。

会場は晴海の見本市会場だったように思うのですが、記憶があやふやです。

特に緊張したのは、実地試験のモールス受信です。

何しろ、広い会場でテープレコーダーを使用するので、音が悪く とても聞き取りにくいのです。


練習では、いつも同じテープレコーダーでかつ、きれいに聞こえる環境での練習しかしていないので、

これで大丈夫かと不安でしたが、やるしかないと心に言い聞かせ聞き取りに集中しました。

そして、当時の受信実技試験での採点方法が、1字間違うと3点の原点、1字わからずに飛ばすと1点減点と

言われていましたので、わからない字が出た時は、あやふやな文字を書かずに飛ばすことに

決めてかかりました。

ですから、1文字間違った気になれば、3文字飛ばしても原点は同じなのです。

もう一つ会場で、緊張するのが受験者が答案用紙に書く鉛筆の芯のすべる音です。

シーンとした会場で聞こえるのは、テープの符号音とこの鉛筆の音なのです。

シャッシャ ザッザッザ というような百人以上の人が書くまとまった音は 普段は経験しない異常な音でした。

 こうして、試験が無事に終わり会場から出て、当時は試験問題用紙を持ち帰れましたので、

自己採点をしてみると学科は大体の予想はできますが、 実技は手元に何も残らないので、わかりません。

そんなわけで結果の通知で初めてわかるのですが。

 

後日、結果の通知があり合格できました。

 

これが平成2年の秋の国家試験でした。

 

        第2級アマチュア無線技士国家試験合格通知

 

2級になると、出力の制限はあるものの、アマチュアに割り当てのあるすべての周波数に出ることができます。

 

              合格後にすぐに申請して、発給された免許証です

 

これでも十分にアマチュア無線の世界を楽しむことはできますが、せっかくここまで来たのだから、

1級もどうかと思うようになり、上に挑むこととなりました。

 

挑戦するとなると、モールス試験は、スピードが速くなるだけで、幸いこのころには、

和文の受信がなくなり欧文の受信だけになりましたので、こちらも幸いしました。

しかし、1級の無線工学の問題は難解なものが多く、このころ図書館にっ行って専門書を借りるなどして、

一からのお勉強となりました。

しかし、固まった頭がやおら柔らかくなることもなく、苦労の連続でした。

この時も、2級のときと同じく既出問題に賭けて新問題は捨てる覚悟で 確実に旧問題を

クリアーすることに集中することにしました。

この時に、小生がひそかに編み出したのが、次のようなものでした。


所詮、ロガリズムだの因数分解だのと言ってもどうにもなりません。

そこで、既出問題に答えを書いて置き、その問題を公式で解くのではなく、

その中にある数字でかけたり割ったり足したり引いたりで出る方法を探しました。

そしてうまくいった問題はその方法を書いて置きそれを覚えるようにしたのです。

他のいろいろの法則に基づく計算問題もそんな風にして、解くことを覚えました。

したがって公式などはまったくわからなくても、その問題の答えがあっていればよいのです。 

この時は、暇があると既出問題を読み、相当の期間没頭しました。

 

いざ試験では、モールスの実技試験は、練習の甲斐あって問題なくクリアーしましたが、

学科のほうで、法規は何ら問題なかったのですが、やはり無線工学は新問もかなりあったりで、

1回目の国試は残念な結果(実技合格、学科不合格)になりました。

このころの制度では、学科が落ちても実技が合格していれば向こう2年間の実技試験免除制度があり、

最大3回の学科のみの受験が可能でした。

 

そこで一度落ちた失敗を胸に、今度こその気構えで挑戦することしました。

もちろん今度は、緊張の実技試験がないので学科のみに集中することができます。

この時クラブの友人も同じ境遇でしたので、お互い励ましあいながら臨みました。

このときも前回より新問題が多かったようにも思いましたが、運よく進問題でもクリアーしたものもあったようでした。

 

 こうして後日の通知は、見事に合格でした。


 

       第1級アマチュア無線技士国家試験合格通知

 

この時も最初の電話級ほどではなかったと思いますが、大きな喜びを味わいました。

このようにして、晴れてアマチュア無線の最高位の資格を手にできたのでした。

 

                  これが小生の夢であった最上位の免許証です

 


平成8年ということは、今年ももうすぐ終わる平成という年の31年ですから、

もうあれから23年も経つのだなあと思うと 感慨もひとしおです。

 

今回は受験顛末記のようになってしまいましたが、

私の50年の無線史の1ページにしたいと思います。

 

 今回も最後まで拙い文章をご覧いただきましてありがとうございます。

 

それではまた! 


アマチュア無線局を開局50周年記念 50年を振り返ってその3

2019年02月06日 | アマチュア無線

 

アマチュア無線局開局50周年記念50年を振り返って その3


1979年に設備類を新たにしてからは,

ほぼ毎日QSO(交信すること)を行っていました。

当時は,通信状態の良し悪しを判断するソーラーフラックスといって

太陽黒点数が上昇期にあったのでしょう。とてもいい時期に差し掛かって行ったようでした。

通信の世界では,この太陽黒点の数が上昇と下降を11年周期で繰り返されます。

これによって通信状態が良くなったり悪くなったりします。

これをサイクルといいます。

これが発見されてからだと思いますが,サイクルに番号を付けて

呼んでいて,例えばサイクル21ですとか,サイクル19の時はとか言うように言われています。

1980年代の初めの頃は,サイクル21のピーク時期に当たるようで,何しろアマチュア無線の

バンドは,大変にぎやかだったと記憶しています。

2019年の現在は,サイクル24から25への変換期に当たるようでいわば谷底状態ですから

バンド内は,静かな状態が続いています。

話を1980年代に戻しまして,コンディションがとてもよく,ある時 韓国の局から

声がかかり,日本語の上手な方で,日本語での交信が出来ました。

これはほかの海外局とも更新するには,英語を覚えるしかないなと思い,

無線の世界では,ラバースタンプQSOといって,必要最小限の言葉を覚えて,

それで更新することができます。

当時,海外交信のし方を収録したカセットテープが販売されておりまして,購入して

毎日それを聞いて少しづつ覚えました。

このテープは,アマチュア無線連盟に米田治夫さん(だったと思いますが)

というOMさんが居てその方とNHKの番組の

ひょっこりひょうたん島にドンガバチョ役で出演していた今は亡き

藤村有弘さん(彼もまたハムの仲間)が

英語でQSOするという内容のものでした。これをよく聞いたのを覚えています。

そして実際の交信(QSO)には,ノートにフレーズを書いて置きそれを見ながらの交信をして,

少しづつ慣れていきました。

当時の小生はまだ電話級資格でしたから,出力も10ワットという小出力のものでしたが,

そのアンテナを指向性の強い性能のものを使いカバーしました。

そのかいあって,遠くは南アフリカや南北アメリカ,ヨーロッパなどたくさんの交信が出来ました。

こうした交信をしていく中で,もっと大きな出力の無線機を使いたいという思いが募っていき,

のちの上級資格の取得に繋がっていったように思います。

当時の海外QSOを思い起こしますと,よく海外に赴任されている方が現地から

アマチュア無線局を開局して母国日本とQSOしているケースが多々あります。

例えば当時イランにいた日本人の方と何回か更新しましたが,

其の後の政情不安で出来なくなるなどのケースもままあります。

日本やアメリカヨーロッパ各国など自由に無線が出来るのは,大変うれしいことですが

中には,日々の生活で無線どころではないところもあるでしょうし,国の方針で許可を

されてない国もあります。

日本から近い国で無線上最も遠いのは,北朝鮮という国です。

こちらは,アマチュア無線の許可がおりないので電波を出すことができません。

早く,韓国のように開かれた国になり,自由な生活が出来て趣味のアマチュア無線が許可され,

世界と交信できる日が来るといいですね!

ここで,当時の交信の中から,得たQSLカード(昔からアマチュア無線局は

交信のしるしとしてお互いのカードを交換する習わしがあります。)

このQSLカードの一部を掲載します。

 

            ボスニアヘルツゴビナ の局

 

                  イスラエルの局

 

              ベトナムの局

 

              パプアニューギニアの局

 

             トンガ王国の局

 

           イランの局(日本人の局)

 

                   ルーマニアの局

 

            ソビエト連邦モスクワの局

 

              ポルトガルの局

 

         当時アフリカのケニヤに赴任していた丸山さんのカードです

 

      つくばの関学万博の記念局です。(1985年=昭和60年)

 

           つくばエクスプレスの開業に伴う記念局

 

         当時当局から各局に送ったQSLカード

 

 


次回は,上級資格の取得などを回想してみたいと思います。

 

本日も最後までご覧いただきありがとうございました。

 

      ではまた!

 

 


アマチュア無線局開局50周年記念開局を振り返って 回想第2回目

2019年02月04日 | アマチュア無線

アマチュア無線局開局50周年記念開局を振り返って

                               回想第2回目

昭和45年春には,社会人として第1歩を踏み出しました。

生まれ育った茨城に別れを告げ,横浜市の住民になりました。

少しの間は,無線をやれる環境ではなかったため遠ざかっていましたが

落ち着いたころにはまた,無線をやってみたいという気持ちが強くなり

会社の寮住まいのためそれまでのように無線機を置いてというわけにも行かず

そのころにメーカーが出していたショルダータイプの移動ができるものが欲しくなって

行きました。

当時は,価格が今のようにこなれているわけではなく,凄く高いものでした。

社会人になって直ぐの会社の給料は,月額28,500円だったと記憶しています。

で,先ほどの無線機はトリオから発売されたTR1100という機種だったと思いますが値段は

3万円か4万円弱だったように思いますが,給料よりも高いので,初めての月賦での買い物を

しました。 買ったのは何故か秋葉原ではなく,上野の松坂屋でした。

購入後は,休みなどに近くの公園などで電波を出して,楽しんでいました。

会社勤務の時は,こんな形で過ごしたように思います。

そして,無線のほかにオーディオに興味がわき,アンプやレコードプレーヤーなどを

何とか買い求めて,費用を抑えたいとの思いから,スピーカーは,半分自作のような

もので,秋葉原に電車で何度も通い,スピーカーユニットを買ったり,エンクロジャー

を1本づつ買って電車で持ち帰りました。今のように宅配便でもあればよかったのですが

当時は,駅のチッキなどしかなく自分で住まいの寮まで人力で運びました。

当時のエンクロージャーは,かなり大きく数十キロもあるものでしたので

今から思うと,若いときしか出来ないことだなあ! とつくづく思います。

そうこうして3年ほど月日が流れて,当時流行ったUターン現象に小生も乗っかり

生まれ故郷に帰ることになりました。

そして,いつしか無線も再開して,楽しんでいました。


故郷に帰ってからは,縁あって勤めが変わり以降定年を迎えるまで

勤務しました。


当時の無線の記録簿であるログ帳も記録してありましたし,集まったQSLカード

自作の無線機などが実家にあったのでが,その後の水害で家が水没するなどのこと

が何回かあるなどで

水に浸ったり流されたりと,全部失くしてしまいました。

従って,当時の記録は何にもありません。


其の後は,少し遠ざかった無線でしたが,現在地で再度始めることになり

また,秋葉原で新しい無線機などを調達して,続けていくことになりました。

このころからは,自作無線機というのではなく市販の無線機を使うようになりました。

このとき再開したのが1979年(昭和54年)のことでした。

この時からのログはすべて保存してあります。現在は,パソコンを使って処理しています。

 

さて,この辺で免許の取得について,期したいと思います。

小生は,第1回目で述べた電話級の資格を取得してからしばらくはそのままで

無線を続けていましたが,ある年に資格の試験の方法が変わることになり,

電信級の資格が,電話級があれば今の内なら実技試験のみで良いということになり

翌年からは学科と実技の両方を受けないとダメということになりました。

そこで,モールスの実技試験だけなら今の内と思い,受験することにしました。


申請書を出して,試験日を待ちました。このころになると前述の医師の診断書は

必要がなくなっていました。

東京で受験しましたが,当日はミスがあり自己採点では落ちたかもしれないと

がっかりして,帰ってきましたが,後日届いた通知は見事合格でした。

1990年(平成2年)の受験でした。

   

       電信級試験の合格通知

 


其の後免許制度が大きく変わり,それまでの電話級,電信級,第2級,第1級だったものが

電話級が第4級に,電信級が第3級に変りました。そして無線機の出力もそれぞれ変わりました。

 

       試験は電信級でしたが免許は其の後に変った第3級になっています

 

 

其の後に,状況資格を目指すことになり受験をしていきました。

この辺からは,後の回で回想したいと思います。

 

 

今回も最後までのお付き合い有難うございます。

 

  それではまた!