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アマチュア無線局開局50周年記念開局を振り返って 回想第2回目

2019年02月04日 | アマチュア無線

アマチュア無線局開局50周年記念開局を振り返って

                               回想第2回目

昭和45年春には,社会人として第1歩を踏み出しました。

生まれ育った茨城に別れを告げ,横浜市の住民になりました。

少しの間は,無線をやれる環境ではなかったため遠ざかっていましたが

落ち着いたころにはまた,無線をやってみたいという気持ちが強くなり

会社の寮住まいのためそれまでのように無線機を置いてというわけにも行かず

そのころにメーカーが出していたショルダータイプの移動ができるものが欲しくなって

行きました。

当時は,価格が今のようにこなれているわけではなく,凄く高いものでした。

社会人になって直ぐの会社の給料は,月額28,500円だったと記憶しています。

で,先ほどの無線機はトリオから発売されたTR1100という機種だったと思いますが値段は

3万円か4万円弱だったように思いますが,給料よりも高いので,初めての月賦での買い物を

しました。 買ったのは何故か秋葉原ではなく,上野の松坂屋でした。

購入後は,休みなどに近くの公園などで電波を出して,楽しんでいました。

会社勤務の時は,こんな形で過ごしたように思います。

そして,無線のほかにオーディオに興味がわき,アンプやレコードプレーヤーなどを

何とか買い求めて,費用を抑えたいとの思いから,スピーカーは,半分自作のような

もので,秋葉原に電車で何度も通い,スピーカーユニットを買ったり,エンクロジャー

を1本づつ買って電車で持ち帰りました。今のように宅配便でもあればよかったのですが

当時は,駅のチッキなどしかなく自分で住まいの寮まで人力で運びました。

当時のエンクロージャーは,かなり大きく数十キロもあるものでしたので

今から思うと,若いときしか出来ないことだなあ! とつくづく思います。

そうこうして3年ほど月日が流れて,当時流行ったUターン現象に小生も乗っかり

生まれ故郷に帰ることになりました。

そして,いつしか無線も再開して,楽しんでいました。


故郷に帰ってからは,縁あって勤めが変わり以降定年を迎えるまで

勤務しました。


当時の無線の記録簿であるログ帳も記録してありましたし,集まったQSLカード

自作の無線機などが実家にあったのでが,その後の水害で家が水没するなどのこと

が何回かあるなどで

水に浸ったり流されたりと,全部失くしてしまいました。

従って,当時の記録は何にもありません。


其の後は,少し遠ざかった無線でしたが,現在地で再度始めることになり

また,秋葉原で新しい無線機などを調達して,続けていくことになりました。

このころからは,自作無線機というのではなく市販の無線機を使うようになりました。

このとき再開したのが1979年(昭和54年)のことでした。

この時からのログはすべて保存してあります。現在は,パソコンを使って処理しています。

 

さて,この辺で免許の取得について,期したいと思います。

小生は,第1回目で述べた電話級の資格を取得してからしばらくはそのままで

無線を続けていましたが,ある年に資格の試験の方法が変わることになり,

電信級の資格が,電話級があれば今の内なら実技試験のみで良いということになり

翌年からは学科と実技の両方を受けないとダメということになりました。

そこで,モールスの実技試験だけなら今の内と思い,受験することにしました。


申請書を出して,試験日を待ちました。このころになると前述の医師の診断書は

必要がなくなっていました。

東京で受験しましたが,当日はミスがあり自己採点では落ちたかもしれないと

がっかりして,帰ってきましたが,後日届いた通知は見事合格でした。

1990年(平成2年)の受験でした。

   

       電信級試験の合格通知

 


其の後免許制度が大きく変わり,それまでの電話級,電信級,第2級,第1級だったものが

電話級が第4級に,電信級が第3級に変りました。そして無線機の出力もそれぞれ変わりました。

 

       試験は電信級でしたが免許は其の後に変った第3級になっています

 

 

其の後に,状況資格を目指すことになり受験をしていきました。

この辺からは,後の回で回想したいと思います。

 

 

今回も最後までのお付き合い有難うございます。

 

  それではまた!

 

 



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