アマチュア無線局を開局50周年記念 50年を振り返ってその3 goo.gl/hYqfFo
— シゲじい (@shigeZii26) 2019年2月6日 - 11:00
アマチュア無線局開局50周年記念50年を振り返って その3
1979年に設備類を新たにしてからは,
ほぼ毎日QSO(交信すること)を行っていました。
当時は,通信状態の良し悪しを判断するソーラーフラックスといって
太陽黒点数が上昇期にあったのでしょう。とてもいい時期に差し掛かって行ったようでした。
通信の世界では,この太陽黒点の数が上昇と下降を11年周期で繰り返されます。
これによって通信状態が良くなったり悪くなったりします。
これをサイクルといいます。
これが発見されてからだと思いますが,サイクルに番号を付けて
呼んでいて,例えばサイクル21ですとか,サイクル19の時はとか言うように言われています。
1980年代の初めの頃は,サイクル21のピーク時期に当たるようで,何しろアマチュア無線の
バンドは,大変にぎやかだったと記憶しています。
2019年の現在は,サイクル24から25への変換期に当たるようでいわば谷底状態ですから
バンド内は,静かな状態が続いています。
話を1980年代に戻しまして,コンディションがとてもよく,ある時 韓国の局から
声がかかり,日本語の上手な方で,日本語での交信が出来ました。
これはほかの海外局とも更新するには,英語を覚えるしかないなと思い,
無線の世界では,ラバースタンプQSOといって,必要最小限の言葉を覚えて,
それで更新することができます。
当時,海外交信のし方を収録したカセットテープが販売されておりまして,購入して
毎日それを聞いて少しづつ覚えました。
このテープは,アマチュア無線連盟に米田治夫さん(だったと思いますが)
というOMさんが居てその方とNHKの番組の
ひょっこりひょうたん島にドンガバチョ役で出演していた今は亡き
藤村有弘さん(彼もまたハムの仲間)が
英語でQSOするという内容のものでした。これをよく聞いたのを覚えています。
そして実際の交信(QSO)には,ノートにフレーズを書いて置きそれを見ながらの交信をして,
少しづつ慣れていきました。
当時の小生はまだ電話級資格でしたから,出力も10ワットという小出力のものでしたが,
そのアンテナを指向性の強い性能のものを使いカバーしました。
そのかいあって,遠くは南アフリカや南北アメリカ,ヨーロッパなどたくさんの交信が出来ました。
こうした交信をしていく中で,もっと大きな出力の無線機を使いたいという思いが募っていき,
のちの上級資格の取得に繋がっていったように思います。
当時の海外QSOを思い起こしますと,よく海外に赴任されている方が現地から
アマチュア無線局を開局して母国日本とQSOしているケースが多々あります。
例えば当時イランにいた日本人の方と何回か更新しましたが,
其の後の政情不安で出来なくなるなどのケースもままあります。
日本やアメリカヨーロッパ各国など自由に無線が出来るのは,大変うれしいことですが
中には,日々の生活で無線どころではないところもあるでしょうし,国の方針で許可を
されてない国もあります。
日本から近い国で無線上最も遠いのは,北朝鮮という国です。
こちらは,アマチュア無線の許可がおりないので電波を出すことができません。
早く,韓国のように開かれた国になり,自由な生活が出来て趣味のアマチュア無線が許可され,
世界と交信できる日が来るといいですね!
ここで,当時の交信の中から,得たQSLカード(昔からアマチュア無線局は
交信のしるしとしてお互いのカードを交換する習わしがあります。)
このQSLカードの一部を掲載します。
ボスニアヘルツゴビナ の局
イスラエルの局
ベトナムの局
パプアニューギニアの局
トンガ王国の局
イランの局(日本人の局)
ルーマニアの局
ソビエト連邦モスクワの局
ポルトガルの局
当時アフリカのケニヤに赴任していた丸山さんのカードです
つくばの関学万博の記念局です。(1985年=昭和60年)
つくばエクスプレスの開業に伴う記念局
当時当局から各局に送ったQSLカード
次回は,上級資格の取得などを回想してみたいと思います。
本日も最後までご覧いただきありがとうございました。
ではまた!
アマチュア無線局開局50周年記念開局を振り返って
回想第2回目
昭和45年春には,社会人として第1歩を踏み出しました。
生まれ育った茨城に別れを告げ,横浜市の住民になりました。
少しの間は,無線をやれる環境ではなかったため遠ざかっていましたが
落ち着いたころにはまた,無線をやってみたいという気持ちが強くなり
会社の寮住まいのためそれまでのように無線機を置いてというわけにも行かず
そのころにメーカーが出していたショルダータイプの移動ができるものが欲しくなって
行きました。
当時は,価格が今のようにこなれているわけではなく,凄く高いものでした。
社会人になって直ぐの会社の給料は,月額28,500円だったと記憶しています。
で,先ほどの無線機はトリオから発売されたTR1100という機種だったと思いますが値段は
3万円か4万円弱だったように思いますが,給料よりも高いので,初めての月賦での買い物を
しました。 買ったのは何故か秋葉原ではなく,上野の松坂屋でした。
購入後は,休みなどに近くの公園などで電波を出して,楽しんでいました。
会社勤務の時は,こんな形で過ごしたように思います。
そして,無線のほかにオーディオに興味がわき,アンプやレコードプレーヤーなどを
何とか買い求めて,費用を抑えたいとの思いから,スピーカーは,半分自作のような
もので,秋葉原に電車で何度も通い,スピーカーユニットを買ったり,エンクロジャー
を1本づつ買って電車で持ち帰りました。今のように宅配便でもあればよかったのですが
当時は,駅のチッキなどしかなく自分で住まいの寮まで人力で運びました。
当時のエンクロージャーは,かなり大きく数十キロもあるものでしたので
今から思うと,若いときしか出来ないことだなあ! とつくづく思います。
そうこうして3年ほど月日が流れて,当時流行ったUターン現象に小生も乗っかり
生まれ故郷に帰ることになりました。
そして,いつしか無線も再開して,楽しんでいました。
故郷に帰ってからは,縁あって勤めが変わり以降定年を迎えるまで
勤務しました。
当時の無線の記録簿であるログ帳も記録してありましたし,集まったQSLカード
自作の無線機などが実家にあったのでが,その後の水害で家が水没するなどのこと
が何回かあるなどで
水に浸ったり流されたりと,全部失くしてしまいました。
従って,当時の記録は何にもありません。
其の後は,少し遠ざかった無線でしたが,現在地で再度始めることになり
また,秋葉原で新しい無線機などを調達して,続けていくことになりました。
このころからは,自作無線機というのではなく市販の無線機を使うようになりました。
このとき再開したのが1979年(昭和54年)のことでした。
この時からのログはすべて保存してあります。現在は,パソコンを使って処理しています。
さて,この辺で免許の取得について,期したいと思います。
小生は,第1回目で述べた電話級の資格を取得してからしばらくはそのままで
無線を続けていましたが,ある年に資格の試験の方法が変わることになり,
電信級の資格が,電話級があれば今の内なら実技試験のみで良いということになり
翌年からは学科と実技の両方を受けないとダメということになりました。
そこで,モールスの実技試験だけなら今の内と思い,受験することにしました。
申請書を出して,試験日を待ちました。このころになると前述の医師の診断書は
必要がなくなっていました。
東京で受験しましたが,当日はミスがあり自己採点では落ちたかもしれないと
がっかりして,帰ってきましたが,後日届いた通知は見事合格でした。
1990年(平成2年)の受験でした。
電信級試験の合格通知
其の後免許制度が大きく変わり,それまでの電話級,電信級,第2級,第1級だったものが
電話級が第4級に,電信級が第3級に変りました。そして無線機の出力もそれぞれ変わりました。
試験は電信級でしたが免許は其の後に変った第3級になっています
其の後に,状況資格を目指すことになり受験をしていきました。
この辺からは,後の回で回想したいと思います。
今回も最後までのお付き合い有難うございます。
それではまた!
アマチュア無線局 開局50周年記念
開局時を振り返って
小生がアマチュア無線局を昭和44年2月(西暦1969年)に開局してから
今年2019年2月で丸50周年を迎えました。
長いような短いような半世紀でした。
今日は,その頃を振り返ってみたいと思います。
小生が電気のことやラジオに興味を持つようになったのは,小学校の高学年の
4年生か5年生の頃だったと思います。
たまたま学校の理科室か図書室で目にした本の1ページに鉱石ラジオの記事があり,
こんなものでラジオが聞こえるんだと思い,興味を持ったことが始まりです。
当時は,本にあった鉱石を町の電気屋さんで買い求めてラジオを作りました。
同じころ,当時のラジオ雑誌に載っていた真空管のラジオに惹かれ,
6年生の頃に友人と二人で,部品を集めて真空管のラジオで,
並三ラジオという真空管を3本使うラジオを作り,音が出た時の感動は
今でも忘れられません。
中学生になってからは,学校の近くに本屋さんがありそこで当時からあった
無線雑誌のCQハムラジオを買って読みふけりアマチュア無線を知りました。
50年経った現在もCQ誌は毎月定期購読で愛読しています。
昭和40年の中学2年生の頃,東京オリンピック(前年の昭和39年10月)の
翌年のころです。 何とか国家試験を受けてアマチュア無線をやりたいと思い,
当時本屋さんにあった国家試験の問題集を手に入れて一生懸命覚えましたが,
当時はまだ受験(東京)に行くまでには至らず勉強しただけで終わりました。
その後,高校生になってから,2年生になったころ理科部という部活動があり
そこに入部しました。 理科部で知り合った同級生とアマチュア無線の試験を
受けようということになり,一緒に受験を試みることになりました。
当時のアマチュア無線の資格は,電話級,モールス通信のできる電信級
そして上級資格の第2級,第1級という資格がありました。
当時の試験は,4月期と10月期の年2回しか行われず,受験申請には,
当時あった欠格事項という項目をクリアーするために,医師の診断書を付ける
必要がありました。
今は,病院や医院などたくさんありますし,たやすいことですが当時の田舎では,
かなりの難関でした。かかる費用もそうでした。
こういったことを何とかクリアーして,高2の昭和43年4月期の試験を友人と
受けました。
当時の試験は,今のように択一試験や穴埋め試験ではなく,法規試験も無線工学試験も
設問は,〇〇について述べよ というようなまったくの記述試験でした。
中学時代に少し勉強していた小生は,タカをくくってあまり勉強せずに臨んだ結果,
見事に不合格でした。
一緒に臨んだ友人と,同じく受験していた先輩は,見事合格し
その後まもなく無線局を開局しました。
この時の悔しさと残念さは,今でも脳裏に残っています。
こうなったら,次の10月期には何が何でも合格しなくてはと,猛勉強して
2回目の試験でやっと合格の通知をもらいました。
合格は,通知をもらうまでわかりませんが,記述試験の問題すべてについて
答えることができましたので,いささかの自信はありましたが,
通知が来る頃には毎日学校から帰ると郵便受けを見に行く毎日でした。
ある日,学校から帰って郵便受けを見ると通知が届いていました。
恐る恐る見ると合格の2文字が見えて,その場で飛び上がって喜んだのを
50年経った今でも忘れられません。
写真にあるのがその時の電話級の国家試験の受験票と合格通知です。
当時実際に交付された受験票
試験会場は,当時国鉄蒲田駅前にあった日本電子工学院の教室でした。
これが夢にまで見た合格通知の原本です
この時の受験から,後年の上級資格受験までのすべての受験票と合格通知は保存しています。
小生の生涯の宝物です。
受験に前後して,晴れて開局できる日を夢見て,無線機作りに励みました。
ちょうどそのころに,無線機器メーカーのトリオ㈱(現在はケンウッド)から
受信機9R59という名前で,そして送信機にTX88Aという機種が発売されました。
この機種は,今でも保存している方がたくさんいると思います。
ただ小生は,高校生ですから,当然市販の機器を買うことなど夢のまた夢でしたので,
もっぱら自分で作るしかないと,街の古物やさんへ行き回収してあったテレビの壊れたものや
ラジオの壊れたものなどから真空管や使える部品を取り,なにがしかの金額を古物やさんの
おじさんに支払って,集めました。
どうしても買わないと手に入らないもの,例えば受信機用のコイルパックや水晶発振子などは,
夏休みなどに工事現場の土方のアルバイトなどで得た小遣いで買いました。
そうして自作の無線機も完成し,あとは申請した開局申請が通って,
無線局の呼び出し符号のコールサインが発給されるのを待ちました。
この無線局のコールサインは,すべての無線局に固有の符号が割り当てられる
もので,放送局なども例外ではありません。
例えば,こちらはJOAK(ジェイオーエイケイ)NHK第1放送局です。というような
アナウンスを聞いたことがあると思いますが,これが無線局コールサインなのです。
合格後に発給された無線従事者免許証
当時は二つ折りの免許証でした(現在はラミネート加工のもの)
こちらは,無線局免許状です
この免許状も当時のままのものです
当時は,免許になっても免許状が手元に届くまでにタイムラグがありましたので,
郵政省に電話を掛けるとコールサインを教えてくれました。
晴れて受け取った免許状そして世界に二つとないコールサインが
JH1TCA ジェイエイチ ワン ティーシーエー というものでした。
これ以後今日まで50年間このコールサインを使って無線活動をしています。
こうして晴れて開局を果たし,その後は日夜を問わず無線に明け暮れる毎日でした。
学校では,友人と先輩の方とそして後輩と学校に無線部を作りクラブ局を開局しました。
今でも残っているかどうかはわかりませんが,高校生活の良い思い出です。
高校を卒業して,晴れて社会人となり少し無線とは離れる生活になりました。
しかし,しばらくすると無線の虫は納まらず,次の展開へと入っていきます。
ここより先は,次の回で回想したいと思います。
これが現在の CQハムラジオ という専門雑誌です
昔のそれは,広告が山ほど載っていて,数センチの厚さがある本でした
現在は,広告が限られ相当薄い(昔と比較して)本になっています。
拙い思い出にお付き合いくださり有難うございました。
次回に以降の思い出話をしたいと思います。
ではまた!