「カモノハシ」の愛称を持つ新幹線のN700系が、静かに
引退する。新型コロナウィルスの影響で、今日予定された
ラストランが中止となった。
1999年に投入されたN700系は「新幹線の進化の最終形」
と言われ、高速鉄道の車両として完成度が高い。いたずらに
最高速度の塗り替えを狙わなかったという。
同系統のN700Aが今の主力、夏にはN700Sも登場する。
その設計思想は脈々と引き継がれている。
(今朝の「天声人語」より)
N700系が登場したころは、全国の生産拠点を回る仕事。
東京から関西へ単身赴任となったこともあり、最低週一回、
多いときは週2回お世話になった。
冬をやり過ごして再開した中山道ウォーク、上州最初の
新町宿の(その2)は、半端ない強風の中、埼玉と群馬の
県境である神流(カンナ)川橋を渡るところからである。
神流川橋の直前で、国道17号は少し右に振れる。この
まま真っすぐが、神流川の渡しの方向だったという。
前方には上信越県境の山が連なるが、ほぼ正面と思われる
浅間山は雲の中のようだ。右手の下流側では新しい橋の工事
が進行中。今見えているのは国道17号の上り線側という。
橋の上は一段と強い向かい風で、かなりの前傾姿勢で歩く。
カメラを構えようと立ち止まって体を起こすと、思わず後ろへ
よろけるほど。
一段と強い突風を避けようと後ろを向く。青空が見える
前方とは全く違う空である。まるで橋の向こうで何かが
爆発したかのようである。
橋の工事現場の吹き流しが水平に翻るのは風速15m以上の
場合だが、時には更に上へと跳ね上がる。間違いなく瞬間で
20mを越えるだろう。その中でも作業する姿が見える。
やがて上州側の常夜灯に着く。これは渡りはじめの武州側
にもあったが、「見透(ミスカシ)燈籠」のレプリカである。
暴れ川である神流川は度々の洪水で川筋が代わり、旅人や
伝馬、人足を悩ませたため、本庄宿の戸谷半兵衛が建立した
と説明されている。本物は近くの寺に移されている。
橋を降りたところは自衛隊新町駐屯所。その先で旧中山道
は国道17号を離れ、新町の宿場へと向かう。
あれ?そう言えば、この手前にあるはずの神流川古戦場碑
を見逃した。というより多分無かった。橋の袂まで約300mを
戻って、土手下の河川敷まで降りてみるが何処にもない。
橋へ向かう国道17号の付け替え工事で一時移転している
のかも知れない。また、橋を渡る前の勝場(カッパ)一里塚跡
も見当たらなかった。これも国道付け替え工事の影響かも
知れない。
改めて新町宿へ向かう分岐点まで戻る。ここの常夜灯は
「見通し燈籠」と説明され、その建立発起人も専福寺住職
と宿役人と説明される。武州上州両論ありということ。
脇の石柱は「依是 右碓氷峠十一里 左江戸二十四里」
とある。
ここから数分でその専福寺前を通り、新町郵便局のある
交差点となる。ここから約1キロが新町宿である。
このあたりの中山道は玉村宿経由の烏川北岸から南岸に
変更されたため、この新町宿は他の宿より五十年ほど遅れ
て発足した。よって「新町宿」と呼ばれた。
風変わりな東屋は行在所(アンザイショ)公園。明治天皇行幸の
折の休憩所跡が残されている。強風が吹き抜けるが灰皿缶が
用意されているので、まさに「一服休憩」とする。
本陣御手前にあるのが「旅籠高瀬屋跡」。江戸と信濃を
頻繁に往復していた小林一茶が川留めでここに泊まった
明け方、専福寺の提灯を持った男たちに起こされた。
神流川の燈籠が流され新たに作るので寄進しろという。
路銀が少なかったが止む無く十二文を寄進したと、一茶の
「七年日記」に書かれているという。
その先が二つあった新町宿の本陣の一つ「小林本陣跡」。
向かいの久保本陣は跡形もない。
日本橋から本庄宿まで十一点連続で英泉が描き、上野国
(上州)に入って初めて広重画となる。富士のような円錐の
山が赤城山で、右が日光連山。川は温井川である。
この絵に見えている弁天橋が新町宿の終わり。その
弁天橋脇にある弁財天に降りてみる。以前は温井川の
中の島だったが、昭和の中頃改修されたという。
ここに滾々と湧き出る泉があり旅人の喉を潤したという。
そして文政二年建立という芭蕉句碑にも、
むすぶより はや歯にしみる 泉哉
とある。もちろん脇の説明を見ないとわからない。
ここがやっと今日の中間点、倉賀野宿への続きは次回。