朝日新聞土曜版の長寿コラム「サザエさんを探して」。
長く連載された四コマ漫画の主題を解説する、昭和の香り
プンプンの面白いコラムである。その最新回を。
サザエさんは仲人なのか、花嫁の控室で介添え中である。
花嫁衣装の着付けが終った頃、新郎がカメラを持って飛び
込んで来て「撮らせてくれる?」と言う。
一も二もなく頷く二人の前を通り過ぎた新郎が撮るのは
窓の外に見える東京五輪の聖火リレーなのである。
「今からこれじゃ先がおもいやられる」と泣き出す花嫁
を慰めるサザエさん。
もちろんこれは前回(昭和)の東京五輪だが、今年も
全国を聖火リレーが巡る。空しい聖火リレーとなるかも。
さて、水戸街道ウォークは、この日三宿目の小幡宿へ
向かって坂を上るところ。ちょうど茨城町の入口である。
坂を上り切りると早速、見事な瓦屋根の和風の家が建つ。
一二階とも高天井なので一層見栄えがする。しかし、家の
周囲はアスファルトの広場。やはり庭園が欲しいところだ。
その先の奥まったところ、え!紫陽花?もう咲くのか?
ズームするとやはり白い紫陽花のようである。
まだ宿場は始まっていないようで家並みは疎ら。1キロ
ほど歩くと愛宕神社の鬱蒼とした茂みが現れる。参道は長く、
地図では二百メートルほどある。
暗くてちょっと不気味な感じだが芭蕉の句碑があるという
ので寄ってみる。百メートルほどでやっと石段と社殿が見え
始める。
石段手前、その石段改修記念碑の脇に立つ芭蕉句碑は、
「蝶の飛はかり野中の日陰かな」と彫られるそうな。
何とか「野中」以降が読める。この神社の雰囲気とは
ずいぶん違う明るい感じの句である。
石段を上り、極めて簡素な社殿を拝んでから水戸街道に
戻るとすぐその先で国道181号を渡る。この先が小幡宿と
いうが、小さな宿場街で本陣も脇本陣もなかった。
水戸藩が泊まる時だけ本陣に充てられたという法円寺を
訪れてみる。本堂の棟にはやはり「葵」の紋である。
「一遇を照らす」これは日蓮宗。大きな切り株のある本堂、
庫裏前の庭園の趣が好い。
法円寺の先からやっと宿場らしい雰囲気となる。
小幡宿が終るあたり、小幡城址への矢印がある。東関東
自動車道を越え、片道1キロ近いのでパス。石岡の府中城
と同じく大掾氏の城だったが、やはり佐竹氏に攻められて
落城している。
前回、府中城を攻めた佐竹氏を「秋田の」と書いたが、
佐竹氏は当時は常陸太田城の城主で、その後で秋田に移封
されて佐竹藩となった。ここで訂正しておく。
ここで振り返る小幡宿である。嗚呼、電線電柱よ去れ!
今日のゴールまではラストの1キロ。川に向かって下る道、
その後は国道6号へと向かう上り坂である。
その川、寛政川を渡る界田橋から東関東道を眺める。
足元の寛政川は極めて清流だ。
国道6号に合流する直前の神社。大きな石には「青龍大
権現」と刻まれる。上に祠があるのかないのか。長い石段
と相まってパス。
ゴールのバス停は、このままこちら側を歩けばいいが、
最後の見どころは反対側。横断歩道のない交差点なので
嫌いな歩道橋を渡るしかない。
これから乗るバスが向かう石岡方面である。
「東京から94Km」の道標の先に「千貫桜の碑」。水戸
の御老公、徳川光圀が「千貫の価値がある」と絶賛した
桜の巨木があったところ。光圀の死後、強風に倒れたと
いうことである。
さて、光圀が詠んだと言う句碑新しくなったという。
「春風もこころしてふけ散るは憂し
さかぬはつらし花の木のもと」
石岡行のバスまでは約30分。少し先のコンビニで休憩
してから反対側のバス停に向かう。バス停の名「茨城東
高校」は目の前である。
2、3分遅れて来たバスは国道6号を走って石岡駅に着く。
一日かけて歩いた距離を30分弱である。
石岡駅でも30分近い電車待ち。「みんなのタロー」碑の
裏側の長い説明を読む。
昭和の中頃、石岡市の幼稚園に、霞ケ浦近くの玉造から
鹿島参宮鉄道(今は廃線)で通っていた女の子の飼い犬
「タロー」は、石岡駅で少女とはぐれ、石岡市被害小学校
に迷い込む。
以降、老衰で死ぬまで十七年間、東小学校の生徒たちに
可愛がられながら、毎日この石岡駅まで2キロ、女の子を
迎えに来ていたという忠犬だった。
本になり、歌になって全国的に知られ、その寄付金で
最近作られたのがこの像と言う。何かで読んだ記憶も
あるが、水戸街道ウォークの終盤の中継点となった石岡
の好い話である。
次はいよいよ最後の長岡宿へ、そして水戸へと向かう。
ゴール後は一泊して水戸観光としよう。