脱炭素46%、こども庁と選挙向けの大風呂敷を広げる
菅政権だが、一番いい選挙対策を教えよう。
「自民党やその政策を批判する思想信条で差別したこと
を真摯に反省し、可及的速やかに6名を学術会議員に任命
します」と言うだけでよい。簡単ではないか。
さて、水戸街道ウォークの最終回は、水戸の手前、最後
の宿「長岡宿」に入る。
「川を渡り坂道を上ると宿だった」、水害のない高台に
宿はある。旧水戸街道は涸沼前川を渡り、県道18号から
県道40号へと分岐する。
上り坂が始まった最初の交差点、左には高架の国道6号
が見え、反対側の古屋脇にはフジの花が伸び伸びと咲く。
坂が次第に急になったところに「春の紅葉」。街灯の看板
は「一寸木造園」、ちょっとぎ、と読むのだろうか。
急坂が続き息が切れ始める頃、石垣や白壁の塀が多くなり、
街道宿の雰囲気が濃くなる。
高岡神社の先、坂を上り切った右手の「木村家住宅」。
本陣があったともなかったとも言われる長岡宿の脇本陣で、
問屋(トイヤ)、庄屋も兼ねたという。
この歩行記では、薬医門ではなく高麗門と書いて来たが、
控え柱の上にも小さな切妻屋根(瓦)が付くのが「高麗門」
とのことである。よってこれは薬医門。
この木村家の薬医門は常に閉ざされているらしい。塀の
隙間から中を覗いてみる。茅葺きのどっしりとした母屋の
前に立派な庭が広がる。
奥まった住宅の庭に鯉のぼり、そうだもうすぐ五月だ。
この長い屋根を撮るのに道幅では足りず、向かいの家の
駐車スペース深くまで入らせてもらう。
これは茨城の街道筋で見る、もっともスタンダードな家
のスタイルである。
長岡十字路という名の交差点を過ぎると、長岡宿を挟み、
1キロ半真っすぐ続いた水戸街道は国道6号に合流する。
下り方向は進入禁止?そんな馬鹿な!
出てみてわかる、国道6号には中央分離帯。こちら側は
上り車線である。改めて車用の交通標識であることを認識
させられる。
この合流点あたりに長岡一里塚があったというが、痕跡
や標柱などは一切なし無し。国道6号は東京からちょうど
100キロのこのあたり、長岡一里塚は江戸から二十八里目、
約112キロである。
合流して約1キロで北関東自動車道の茨城町東ICへの
出入口(取付道路)となる。前回(その1)で北関東道路
と書いたのは「東」関東道路の間違いだった。
歩道橋を二つ続けて上り下りすれば、このランプを真っ
直ぐ抜けられるが、膝への負担を考えて迂回する道を選ぶ。
その先で水戸市に入る。水戸街道の終点まで残り6キロの
地点である。
すぐ先で国道6号から分岐するが、この道も6号並みの
広さで、分岐を忘れたかと思うほどである。すぐ先の信号
も、そこに出て来る6号からの道路も地図にはない。
昼には早いが、生ビール狙いで大きなうどん店に入る。
25度を超す日、夏のような薄い装いでもとにかく暑い。
喉も腹も充ちて午後の部を歩き出すと、左手の自動車
教習所の遠くのビルは茨城県庁。二十五階の展望室からの
眺望が素晴らしいと言う。往復5キロではパスしかない。
この先の吉沢地区を3キロほど真っ直ぐ続く道。歩道は
狭い上、小道や家ごとにアップダウン。15センチとはいえ
膝への負担は大きい。車が少ないので時々は車道を歩く。
熱田神社、天満宮など小さな神社を覗きながら進むと、
日本橋から二十九番目の、木沢新田(吉田とも)一里塚。
一里塚のシンボルは榎。樹齢は百年というから大正時代
に植え替えられたのだろう。明治政府による一里塚廃毀令
のほとぼりが覚めたころを狙ったか。
残念ながら向かい合う左(西)塚は民家の庭になって
しまっている。けしからん家だ。いや、この家が建つ前の
ことかも知れない。
国道50号を大きな「吉田小南」交差点で渡るとゴール
までは3キロ。続きは(その3)最終回で。