サウジアラビア、王子の死刑を執行 殺人事件で有罪
2016.10.20 Thu posted at 09:22 JST CNN
(CNN) サウジアラビアで殺人罪に問われて有罪判決を言い渡された王族の死刑が執行されたことが20日までに分かった。内務省が明らかにした。サウジ王族の死刑執行は極めて異例。
サウジ国営通信によると、死刑を執行されたのはトゥルキ・ビン・サウド・カビル王子。集団乱闘事件で男性を銃撃して殺害したとして殺人罪で起訴され、有罪判決を受けていた。死亡したのはサウジ国籍の男性だった。
死刑は18日に執行された。サウジアラビアの死刑は通常、斬首によって行われるが、今回どのような形で執行されたのかは公表されていない。
王子に対する有罪判決は控訴審で支持され、最高裁も承認。王室は裁判所の判断に従うよう指示していた。
サウジの英字紙によれば、被害者の遺族は慰謝料による解決を拒んで法による裁きを求めていたという。
同国では1975年にファイサル国王を暗殺した罪で、ファイサル・ビン・ムサイド王子が斬首による死刑を執行されている。
内務省は、「政府はアラーの神が定めた規範の徹底を通じて秩序と安定を守り、裁きを受けさせなければならない」と強調した。
米シンクタンク、ブルッキングス研究所の専門家は、「サウジでは王族も含めて誰もが法の支配を受けるという前例を確立した点で、今回の死刑執行は高く評価される」と指摘する。
サウジ国内でも、国王が法の下での平等を尊重して王族の死刑を断行した対応を評価するソーシャルメディアの投稿が相次いだ。
サウジアラビアで死刑となる大半は殺人や麻薬密売で有罪になった人だが、今年1月には1日の間に「テロ罪」で50人が処刑された。
この中には高名なイスラム教シーア派指導者のシェイク・ニムル・アル・ニムル師も含まれていた。
リヤド郊外のキャンプ場で口論の末に発砲して1人を殺害し、1人を負傷させ、王子は自分で警察に通報した。
日本なら、初犯で自首だと情状酌量されて死刑にはならない可能性がありますが、イスラム教戒律は厳しいのですね。
王族といえども、どれだけ厳しいかもう1つの事件をあげておきます。
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サウジアラビアのワッハーイズム・・・・姦通したサウジ王女の公開処刑事件
サウジの社会はワッハービズム(イスラム原理主義)により厳格に律せられており、戒律は別格的に厳しいのです。
それではサウジの戒律とは一体どんなものなのか?
今日はそのイメージを持っていただくために有名な「プリンセスの処刑」のエピソードを紹介します。
1977年に起きたサウジアラビアのプリンセス(王女)の公開処刑のニュースは世界に衝撃を与えました。
この公開処刑をたまたま現地の建設現場で働いていたイギリス人技師が激写したことから世界的な反響を呼びました。
BBCがこのエピソードを放映したとき在サウジアラビアの英国大使が国外追放になったほどです。
このイギリス人技師は仕事を終えて投宿していたホテルに帰ると町の雰囲気が異様なことに気がつきます。ホテルのフロントの人から「今日、近くで公開処刑がある」という話を聞いたのでタバコの箱に穴を空けて小さなインスタントカメラを隠し、処刑の現場を撮影したのです。
公開処刑では先ずダンプトラックが大量の砂を運んできてそれを山のように盛り土しました。
処刑されるプリンセスと相手の男は別々のバンで現場に運ばれ、車から引き摺り降ろされました。
まず盛り土の前に跪いたプリンセスが拳銃で数度撃たれました。
次に不倫相手の男性が跪いた姿勢で大ナタで首を斬り落とされました。
このプリンセス(当時19歳?)のお祖父さんは当時のサウジ国王、ハリードの実兄、モハメドです。
モハメド本人は1964年にサウド国王が死んだとき王位継承をする筆頭の順位にあった人です。(つまりサウジアラビアの初代国王であるサウド国王から数えてNo.2という高い位の人です。)
しかしモハメドの残忍な性格を一族が恐れ、合議で彼を国王にするのをパスしたのです。
サウジアラビアでは王位継承は先ず血筋による序列が重要ですが一夫多妻制ということもあり王位継承の順位を決めるには複雑で多様な要因を勘案しなければいけません。
たとえばサウジアラビアの建国の父であるアブドル・アジズ・イブン・サウドには9人の妻が居ます。
(アブドル・アジズは建国の父ですが当時はサウジアラビアが独立国ではなかったので「サウジ国王」という称号はありませんでした。確かKing of Hadjaというのが正式名称だと思います。それとアブドル・アジズのイメージは天下統一を目指した織田信長みたいな「武将」であり、国王という名称の持つ特権的なニュアンスは彼には当てはまらないと思います)
そして24人の男児を産ませています。(女児も当然、同じくらい生まれているのですが正確な数は報道されていません。)
この24人は1902年から1943年までの約20年間に生まれた子供たちであり、彼らの間で王位継承の順位を決めてゆかねばいけないのです。
上述したモハメドはこの孫娘を特別寵愛し、世界を漫遊する際連れて回りました。このプリンセスはなにひとつ不自由ない暮らしをしたわけです。そして適齢期になったとき同じサウド家のいとこと「お見合い結婚」をしました。
しかしこの孫娘がちゃんと結婚した相手が居るのに不倫をしたのです。
プリンセスの処刑を命令したのはモハメドその人であるというのが現在の定説になっています。
一方、プリンセスの不倫相手に関してはいろいろな「伝説」があり、どれが事実かわかりません。
ひとつの説は彼女がベイルートに留学した際、知り合った男と関係を持ったという説です。
また別の説では彼女が関係を持った男は海外留学の時ではなくサウジアラビア国内に居たというストーリーもあります。
さらに彼女は裁判にかけられた際、自ら進んで関係を持ったということを自白したため、極めて位の高い女性であったにもかかわらずワッハービズムの戒律に従って処刑せざるを得なくなったという説もあります。
つまり彼女は自ら自白し、死を選ぶことでサウジアラビアの社会に対する抗議をしたのだという解釈です。
もともとイスラム教の開祖、マホメットの教えではイスラムの女性は別に隷属的な存在ではありませんでした。
ベールを被るという規定もコーランにはありませんでした。
マホメットの死後1000年以上も経った後にオスマン帝国の時代にベールが導入されたのです。
さらに回教そのものは民主的な宗教で、もともと国王という概念はありませんでした。
コーランは「リーダーは人民によって選ばれなければいけない」と規定しており世襲を禁じています。
するとサウジアラビアのような一族支配はコーランの教えに反していると考えることも出来るわけです。
プリンセスは従って回教にではなく、回教の「ひとつのバージョン」であるワッハービズム(イスラム原理主義)という厳格な社会システムに抗議するために死を選んだという説はこのへんから来ているのです。
同じイスラムでもサウジアラビアのイスラムと南アジア(たとえばブルネイ)のイスラムでは雲泥の違いがあります。
だからバーレーンで反政府デモが起きた時、サウジアラビアのアブドラ国王が「おまえらのやっていることは手緩い!」とバーレーンの国王を叱咤したわけです。
また今日はお金の無いバーレーンとオマーンの政府に対し、GCC諸国(その中核はサウジやクウェートなどのお金のあるアラブの国々です)が100億ドルの社会保障の補助金を出すことを決議しています。
自分の国にお金をばらまくというのはわかりますが、他の国の「福祉」にまでカネを出すというのは越権行為ではないかと思いますが如何なものでしょう?
僕がバーレーンの王様ならその勢いでいずれサウジアラビアの国王に国を取られ、王権から追放されるのではないか?と冷や汗をかくと思います。