遺跡発掘時点で、金生遺跡の配石と冬至の関係は知られていなかったのだろうか、
または知っていたが隠していたのだろうか。
遺跡の公園整備で、巨大石棒のモニュメントと樹木で、冬至の日の出が完全に見えないようにしたのはどうしてなのか。
冬至の日の出方位
それは遺跡で観測する冬至の日の出は、入り口に立つ巨大モニュメントの石棒で、正確に見えないように隠されていた。
その理由は、日の出を山裾に置いているということから、金生遺跡の住人は、冬至の日の出に関心が無かったと判断していたからなのだろうか。
冬至も知らないような低レベルの金生遺跡の縄文人だとしていたからなのか。
茅が岳からの日の出位置
しかし配石は冬至の日の出と日の入りをデザインの基本としていたようだ。
イノシシの祭が関係していた様子なのに、何故このように公園整備で日の出を隠したのだろうか。
冬至日の出の拝礼を推測
日の出が見えないので、これが再現できない。
日の入りは配石デザインでは、立秋観測のキイポイントとされ、ノーモンの位置としていたようだ。
配石の示す方位図
配石方位の先に見える甲斐駒ヶ岳
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・5』 新津健
イノシシ飼育の問題②
ところで金子先生の鑑定によりますと、出土した下顎からの歯の生え具合からみて、生後六ヵ月から七ヵ月ということです。生まれたのが五月とすると、一一月から一二月に命が絶たれた、つまり死んだことになります。この死んだ原因が祭りに伴って殺された、あるいは犠牲に捧げられたとするとその祭りは晩秋から初冬という時期におこなわれたことになります。
一一月というのは今では狩猟が始まる時期、一二月は一年で一番日が短くなる冬至の頃でもあります。
こういう時期の祭りっていったいなんだろう。ひとつには狩猟の祭祀なのかな、あるいは日が短くなった時の季節に関わる祭りなのかな、などいろいろと考えさせられます(註9)。
ーーーーーーーーーーーーーー
冬至の日の朝は東側の茅が岳山頂ではなく南側裾野からの日の出となります。ちょっとずれています。
金生冬至日没
金生遺跡の冬至の甲斐駒ヶ岳への日没
金生冬至日没01
金生冬至日没02
金生冬至日没03
金生冬至日没04
金生冬至日没05
撮影:平成23年12月23日、金生遺跡から
金生遺跡から見える日の入りはこれ以上南へはいかず、甲斐駒ヶ岳を南限として以後北へ日没地点を移していきます。だいたい10日ごとに鋸岳の山頂と谷間への日没を繰り返していきます。そして夏至を北限として、その中間が春分、秋分となります。この冬至、夏至、そして春分、秋分を二至二分といい、世界中どこでもこの日は同じになり、各地でお祭りが催されています。
縄文ランドスケープ
金生遺跡ではまさに冬至の日没が甲斐駒ヶ岳と一致しており、その場所にムラを定めていると言えるでしょう。そして石を並べたり立てたりする記念物によって一年の暦を刻んでいるようです。
山梨県観光文化部埋蔵文化財センター
住所:〒400-1508 甲府市下曽根町923
電話番号:055(266)3016 ファクス番号:055(266)3882
ーーーーーーーーーーーーー
縄文時代にイノシシの造形が始まるのは縄文前期後半の諸磯b式土器の時期なのです。図17の1がその例のひとつです。これは山梨県天神遺跡から出土した深鉢形土器の口縁部に付けられたイノシシ装飾です。よく獣面把手とか獣面装飾とかいわれますが、イノシシの顔が表現されたものです。特に群馬辺りの遺跡にいきますとイノシシがもっとリアルについたのがいっぱい出てきます。縄文時代人がイノシシ装飾を最初に土器に付けたのが縄文前期なのです。その前期の諸磯式という時期はどういう時期かというと、この時期になって集落が非常に大きくなってきます。と同時にその周りに点々と小さなムラがみられる。例えば天神遺跡の場合は大規模な環状集落で四〇件くらいの住居があるのですが、その周りには一〇軒くらいの中規模なムラがあったり、一軒しかない小さなムラがあったり、また土器だけしか出ないような遺跡もある。つまり拠点的な集落を中心に、いくつかのムラがその周辺に点在するような土地利用が行なわれているのが、この前期後半という時期なのです。このことは山麓の広い範囲に人の行動が及んで行ったことを意味するのではないか。そうするとイノシシとも出会う。出会いがあるということはイノシシにとっても被害があるし、人間にとっても被害がある。お互いにいろんな軋轢がある。そういうところでイノシシというものが縄文人の意識の中に植え付けられて、悪者になったり神様になったりするようになる。その意識の一つが土器の装飾となって造形されたのではないかと思っています。後で述べますが、私はイノシシの多産や力強さといった特徴が縄文人の祈りの対象となっていったものと考えているのです。例えば図17の3や5~7、これらは縄文時代の中期のイノシシ造形です。先ほどの天神遺跡のような前期後半のイノシシは短い間しか作られず、その後すたれてしまいます。そして中期初頭になってまた出現するようになって、中頃になりますとまた盛んになる。特に3は大変リアルで立体的なイノシシの顔が土器に付けられている。山梨県の塩山市安道寺遺跡(註10)の出土品です。5は上の平遺跡の土器ですが、口縁の上に蛇とイノシシが向かい合っている造形です。土器の奥に渦巻きながら立ち上がっているのがヘビ、手前にあるカエルが潰れたようなもの、実はこれがイノシシなのです。本当は側面からみるとよく分かるのですが、深鉢形土器の縁につく二つの装飾の片方がヘビ、片方がイノシシであり、それが相対峙して睨み合っているという造形なのです。このようなモチーフも縄文中期の特徴です。
(図17)イノシシ造形
ヘビとイノシシとはともに縄文人が大切にした造形であり、そこには縄文神話というか物語と言うか、大変重要な問題が隠されているようなのです。機会があればこの辺の話をしてみたいなあと思いますが、この辺は田中基さんがご専門ですね。なお、蛇とイノシシの関係については民俗例からも紹介されている事例があります。例えば伊那谷でのことが松山義雄さんによって法政大学出版局から出版されています。伊那谷の猟師さんの話ですが、イノシシが増えてくるとマムシが減るそうですね。イノシシは雑食性ですが、特にヘビ、それもマムシが大好物だそうです。マムシと出会うとイノシシが鼻でブーッと息をかける。するとマムシはビックリして止まってしまう。そこをバーンと踏みつけて喰っちゃう。そのよう自然界のことが書かれているのです。また、猟師さんがイノシシの牙を腰に付けて行くとマムシに襲われないというような伝承もあるくらい、イノシシはマムシの天敵だとのことです。
上の平遺跡の土器に対峙しているのは、別に天敵同士ということよりも、縄文人が抱いたヘビとイノシシというイメージの表現かと考えております。例えば山梨県立考古博物館の館長に今年から就任しました渡辺誠さん(註11)は、イノシシというのは女性の原理に基づく多産を表しヘビは男性を表すと指摘しています。ヘビとイノシシつまり男性と女性が向き合う、つまり両者の和合によってその土器の中の生命が育っていくのだという考え方でもあります。同じ考古博物館の小野正文学芸課長(註12)は、イノシシとヘビというのは食べ物の起源及び種の起源に関する神様でして、それらの2つの神様が土器に宿ることによって豊富な食べ物が得られるというようにとらえています。
次に図17の6と7です。これは中期独特の釣手土器という縄文人のランプですが、これらにもイノシシやヘビが付きます。6は甲州市塩山にある北原遺跡の釣手土器ですが、アーチの上にイノシシが三匹おります。左側の図が正面からみたものでブタ鼻が三つ揃っています。右側が側面からみた図でして、可愛らしい感じのイノシシがしっぽをぴょこんと立てた造形です。7の西桂町宮の前遺跡例では、イノシシは相当に象徴化されてしまっていて、正面から見ると大きな円で表現されています。でもアーチの中央高所に大きな親イノシシ、その両側に二匹ずつ計四匹に子イノシシが並んでいる様子かと思われます。
図の4は晩期のイノシシ土製品、つまり土で作ったイノシシの「人形」ということになります。このようなイノシシをかたどった土製品が、後期以降晩期までつくられるようになります。地域的には北海道南部から中国地方までみられますが、やはり東北や関東に多いようです。もっとも中期前半という早い時期にも中部から関東ではつくられています。イノシシへの祈りが、このような製品を生み出したのでしょう。
++++そうなのか
ということで、縄文時代の前期以降晩期までイノシシの造形は縄文人の得意とする、あるいは必要とするものであったのかなという感じがします。では弥生時代にはイノシシはどのようなとらえかたがされていたのでしょうか。この時代、銅鐸には犬に追われたイノシシとか、シカとともに描かれることはありますが、土器にイノシシが付くとか土製品が多く見られるというようなことはあまりないようです。しかしイノシシ類とされる動物の下顎の骨が特徴的な出土状態を示す事例が知られています。佐賀県唐津の菜畑遺跡、これはイノシシというか、西本豊弘先生などは形質的にはブタとみられていることからイノシシ類と表現されているものですが、その下顎のちょうど頤のところに三㎝から四㎝の穴を開けてありましてそれに棒が通っているものです。棒によって何かに懸け下げられていたものとみられています。岡山県南方済生会遺跡の下顎配列もイノシシ類の下顎骨が一二個並べられ、そして真ん中辺りにシカの頭が置いてあります。下顎骨にはやはり穴が開けられている。ただこれは棒が通ってないことから、置いた際に棒をそうっと抜いたんじゃないかなどとも言われております。このような弥生の例は春成秀爾先生とか西本先生は、中国大陸から伝わってきた祭祀の一つであって、東アジア全体に共通する文化の流れだとおっしゃっています。特に春成先生は、中国や台湾あるいは東南アジアに行きますと家にかけていると。要するにお守りです。厄除け、悪魔よけという意味からだとおっしゃっているのですが、西本先生は中国から伝わってきた農耕文化の祭りに伴うものだと言われております。縄文時代とは異なった意味があるようでして、その辺については今後の課題だと思いますが、弥生時代にもこういうふうなイノシシあるいはブタを使った祭りの痕跡が出てくるわけです。
それで実は私も、縄文や弥生のイノシシの祭りということに大変興味を持っていたところ、宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)地区というところでイノシシに関わった神楽があるということでおととしのことですが、いろいろと見学させていただきました。国指定の民俗文化財にもなっている、大変魅力ある祭りです。機会があったらどうぞ行ってみてください。宮崎空港から二時間半くらいバスに乗るのですけども、西都市に入ってさらに一時間ちょっとバスに揺られていくことになります。神楽は一二月一四日の夕方七時くらいから翌一五日のお昼くらいまで、特に明け方までぶっ通しで三三番が演じられるのです。ずーっとえんえんと。そのお神楽を見守るところに天照大神が祀られているのですが、その前にイノシシのオニエ、つまりご供物があるのです。その年のお祭りまでに獲れたイノシシをここに供えるのですが、図18のようにこの年は七頭ほどがありました。胴体から切り離された頭なのですが、切られた角度によって高くそびえていたり、低かったりするのです。このようなイノシシの頭が並べられたその前でお神楽が奉納されるのです。