縄文海進前からの撚糸文土器の時期は
夏島第一貝塚から出土した遺物からは、貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。
出土量が多いボラ、クロダイ、スズキ、ハモ、コチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、銛やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。特に釣り針による魚釣りの開発は、撚糸文土器に表されていたものと思う。またマグロやカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。
撚糸文土器
貝殻沈線文系土器が出現する早期中葉には、それまで消極的であった北海道でも土器使用が一気に開化する。この時期が縄文海進の時期と考える。
たとえば函館市中野 B遺跡の貝殻沈線文系土器の出土量は 18万点以上にも上る膨大なものである(北海道埋蔵文化財センター1995)。
このような土器文化の飛躍的発展は、集中的な堅果類利用や、海進に伴う水産資源開発の本格的利用を軸とした、生業全体の構造的変化に起因していたことは間違いない。という
この沈線文様式の土器は広く影響を及ぼしていて、関東地方の撚糸文土器に取って変わり、東日本の沈線文土器、西日本の押型文土器と、東西を二分する文化圏となりました。という
このように縄文文化の形成 ・確立と発展には、土器も不可欠の役割を果たしていたことが分る。
それに加えてこのような貝塚を残すほどの海産物の利用は、太陰暦の開発により潮の満ち引きを予想できるようになったことが、各種の生業全体を効率的に進める上で、大きく影響していたものと考える。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
土器出土量の飛躍的な増加が認められるのは縄文時代早期初頭のことであり、完新世の持続的な温暖気候の下で、土器文化の完全な定着と飛躍的な発展がはじめて実現する。
関東から南九州に至る広い範囲で数万点もの大量の土器を出土する遺跡が出現するが、これは定住的集落の増加や貝塚の出現などとも連動しており、土器の用途が幅広くかつ不可欠の文化的要素になったことを明示している。
貝殻沈線文系土器が出現する早期中葉には、それまで消極的であった北海道でも土器使用が一気に開化する。
たとえば函館市中野 B遺跡の貝殻沈線文系土器の出土量は 18万点以上にも上る膨大なものである(北海道埋蔵文化財センター1995)。
このような土器文化の飛躍的発展が、集中的な堅果類利用や、海進に伴 う水産資源開発の本格化を軸とした、
生業全体の構造的変化に起因していたことは間違いない。その限りでは縄文文化の形成 ・確立に土器が不可欠の役割を果たした事実は否定しがたいが、そこにいたる4000年以上の長い過程の実態にも目を向けなければ、土器出現の真の意味は見えてこない。
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そして、間もなく、今度は土器の文様施文具に貝殻を多用する、サルボウやアカガイなどの二枚貝を押し当ながら引いて沈んだ線状の文様(沈線文)などを施す貝殻沈線文土器(かいがらちんせんもん)様式に移行した。
この時代になると、極めて密度の高い縄文社会が確立していき、目まぐるしく土器様式は様相を変えていく。他の地方の比ではなく、東北地方における縄文人の急速な生活様式の変革が読み取れる。
この様式は、細かな型式の変化で、古い方から白浜・小船渡平(こみなとたい)、寺の沢・物見台、吹切沢の各型式に別れる。物見台式や吹切沢式の時期には、青森県千歳や岩手県長瀬などで7~8 軒から10数軒の規模を持つ集落が各地につくられていた。 もちろん、一時期に存在した竪穴はせいぜい2~3軒だ。まだ中期の大集落とは較べものにはならない規模ではあるが、縄文時代の地縁的集団の芽生えが、ここには確かに認められた。
長瀬の遺跡では長径10m近く、竪穴の堀込みの深さが1mにも達する堅固な住居跡が発見された。何よりも、この貝殻沈線文土器様式は、北は津軽海峡を越えて北海道南部まで、南は撚糸文土器様式の後に生み出される関東地方の沈線文土器様式にまで、驚くほどの浸透力でその影響を及ぼし、中部地方以西の土器様式を代表する押型文土器様式とともに、日本列島を東西に二分するほどの文化力を示した。
この段階で、竪穴住居、集落、貝塚、土偶、磨石(すりいし)・凹石(くぼみいし)など植物性食料加工具としての石器など、縄文文化の主な要素をすべて獲得し、縄文時代前期以降揺るぐことのない“縄文王国”としての「東北」の地位が確立した。
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貝殻沈線文土器(かいがらちんせんもんどき) 縄文時代早期。
サルボウやアカガイなどの二枚貝を貝殻を押し当ながら引いて沈んだ線状の文様(沈線文)などを付けています。
北日本では底の尖った尖底(せんてい)土器が数多く出土しています。
①早期前半、関東地方で撚糸文(よりいともん)土器が作られます。
②その影響を受け、西日本で押型文(おしがたもん)土器が作られます。
③その押型文土器が日本海側ルートで東北地方にやってきて、日計式(ひばかりしき)押型文土器が作られます。八戸市の日計遺跡にちなみ名付けられました。
④その後、程なく、文様を施すのに貝殻が使われるようになり、貝殻沈線文土器が作られるようになりました。
⑤この沈線文様式の土器は広く影響を及ぼします。関東地方の撚糸文土器に取って変わり、東日本の沈線文土器、西日本の押型文土器と、東西を二分する文化圏となりました。
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夏島第一貝塚は、3つの貝層が貝殻をほとんど含まない黒土の層をはさんで整然と堆積し、それぞれの層から縄文早期の土器が出土した。
下の層から順に撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器が出土しており、これらは早期初頭から終末までの土器である。
特に最下層の褐色土層からは、厚いところで15センチメートル 、長さ約2メートル程のヤマトシジミやマガキを主体とした土混じりの貝層(混土貝層)が検出された。
この層の撚糸文系土器は単純な文様で底が尖っており、特に夏島式土器と呼ばれる。
第二貝塚からは縄文早期後葉の土器が出土している。
第一貝塚から出土した遺物からは、貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。
出土量が多いボラ、クロダイ、スズキ、ハモ、コチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、銛やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。
またマグロやカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。
貝層下(ローム上面)から炉跡を検出し、遺物散布地も認められるので、住居跡の存在することが想定される。そのほか貝層からは、固い殻で覆われたドングリやクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿や磨石などの石器の道具類が出土している。また、シカやイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。
これらの出土物を総合して、秋には木の実を採集し、森では動物を狩猟し、四季折々の海での漁労活動などがうまく組み合わされて、豊かな生活を送っていたと考えられる。