金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

数詞について

縄文人は土器に突起や波形を付けて、早期には4、6を知っていたと考える。

 

縄文後期には縁に3突起を持つ土器が作られていた
この時になって初めて3 を知ったのだろうか

早期に4,6の突起を持つ土器が作られていたのに3突起は後期頃まで作られなかった。
そこには何らかの意味が込められていたはずである

   写真はお借りしました

引用ーーーーーー

★日本と中国の数詞
竪穴式住居を建てると言っても最終的には数字があって均衡のとれた建物でないとすぐに潰れてしまう。中国では最初から日本的に言う大規模団地が造られているので早くから「数」の概念が発達していたと思われる。ここでは主に日本の数詞について検討してみる。

古代の日本の数詞

A説 倍数関係の構成法を有するという。

fito(1) mi(3) yo(4) itu(5)
futa(2) mu(6) ya(8) towo(10)

B説 一と二の組み合わせによる数表現。

fi(1) mi(3) (y)i(5) na(7) ko(9)
fu(2) yo(4)  mu(6) ya(8) to(10)
おそらく、元々はyo(4)とmu(6)はyo<yu>(6)とmu(4)だったのではないか。na(7)とya(8)、ko(9)とto(10)は母音がそろって1から6までとは異質で、後世、十進法が導入された際、追加されたものではないか。

ところで、数名称として二語しか知らなかった民族は多いらしく、数字は1と2(対を意味する言葉を用いる)しかなく、3は2と1と言い、4は2と2と表現するそうだ。4より上の数字は「たくさん」という。中国語の「三」も不明文献らしいが、上の横棒二本と下の横棒一本とを離して書く例があるそうな。あるいは、中国の原初には数字は1と2しかなかったのかも知れない。それに比べて、日本は曲がりなりにも6までの数字はあったようだ。その起源については、日本もご多分に漏れず、1と2しかなく、1は潮の引くことを表し、2は潮の増えること(満<みつる>こと)を言ったという説もあるやに記憶しているが、潮の干満の時間差は長く、にわかに信じがたいような気がする。但し、諸説がある。また、上述のA説は元の数字を2倍にするという高度な計算技術を用いており、何事にも単純な原初の発想としては採りがたい。そこで、私見を述べさせてもらえば、

日本の数詞の起源は「人間」にあったのではないか。上述のように数字の「2」は「対」を意味する言葉で表すとなれば、人間の体は「対」で構成されているものが多い。「眼」「耳」「鼻の穴」「腕」「足」「手足の指」「肘、膝」などであるが、あるいは大地によって立つ「足」を持って基数を表したか。fi(1)、fu(2)を持って一単位(一人・夫)<この場合、fiは彦(ひこ)のfiか。fiの対の語はfuか>とし、mi(3)、yo<muか>(4)を一単位(一人・妻)<この場合、miは女(め)の転か。miの対の語はmuか>とし、(y)i(5)、mu<yuか>(6)を一単位(一人・子供)<この場合、愛子(いとこ)とか妹(いも)の(y)iか。(y)iの対の語はyuか>とする三人一家族を意味していたのではないか。1を意味するfitoは「人」のことか。おそらく、当時は幼児死亡率が高く、標準的な家庭で親子三人が一般的だったのではないか。現在の少子化社会と何ら変わらないようだ。核家族化も思いの外早かったと言うことか。しかし、我が国を見るなら1から6の数字でかなり善戦している方だ。例えば、三内丸山遺跡の「6本柱で長方形の大型高床建物」は著名で、この建物で言えば、35cm単位の「縄文尺」ばかりが有名だが、「6」の数字にももう少し注目してほしいものだ。まず、そのものズバリ6本柱である。また、縄文尺は35cm単位の12進法と言うが12の半分は6である。即ち、35cm×6=210cmが基本の長さで210cm×210cmの正方形を組み合わせて大型建物を建てようとしたのか。

偶数と奇数
中国は国土が広いので偶数文化圏と奇数文化圏があるようだ。例えば、鳥越憲三郎博士「古代中国と倭族」(中公新書)によると後李遺跡に関し「原始的な三つ石を置く地炉の竪穴式住居であったことは注目してよい」とあった。一般に、日本ではカマドや炉は壁に寄せて造るにせよ部屋の真ん中に造るにせよ四角形であり、三角形の炉などと言われれば奇異に感じる。また、「鼎の軽重を問う」の鼎も三本足であり、「規(き)」(規の下に鬲と書く)も三本足で、いずれも黄河文明の遺産とも言うべきものであり、どうして「3」という数字に安定を求めたのかは分からない。奇数は一般に不安定要素ではあるまいか。上述したように日本では2の倍数が用いられており、同じ「6」でも日本は2の3倍であり、中国は3の2倍で、その意味するところは倍数を作る場合の基数において異なるようである。従って、十進法に統一されるまでの日本と中国の数字は根本的に違っていたのかも知れない。また、現今では日本は奇数文化圏、中国は偶数文化圏と言われるが、三星堆遺跡(長江文明)で出土した「太陽輪」の支柱が5本というのも不思議だ、と言う人がおり、結局、中国は先史時代は奇数文化圏で日本が偶数文化圏ではなかったか。日本の五節句にせよ、奇数は陽の数などというのは中国から入って来た思想(陰陽思想)であり、とても日本古来のものとは考えられない。
よって、「数(すう)の文化」は、日本と中国はその発祥において異なると考えられる。


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