24節気の15日について
縄文前期までには二至 冬至と夏至を知り暦作り始める。
縄文中期には春分、秋分を計算して、二至二分の暦を作る段階となる。
縄文後期には二至二分に更に1/2とする四立 立春、立冬を計算して観測して加え、八節の暦を作り出したと考える。
これを更に進め節 45日を1/2としても、22,23日と中途半端な日数となってしまい、月の周期30日にも15日にも合う単位には成らない。
縄文人はこれ以上には進めなかったようだ、そのためなのか現代の暦に繋がる事は出来なかったものだろうか。
ここで注目するのはインドの暦です。インドではここでほぼ1/3としたようです。
インドの二倍年暦
インドでは16日を一月としていたようだ。
これは一年の24等分 15日にほぼ相当するので、15日となる24節気に相当する日数に近いようだ。
16*2とすれば32日となり月の周期29日に近いものとなる。
16日というのはどのようにして出したものなのか。
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それでは、当時のインドにおける二倍年暦とはどのような暦であったのか。現時点での結論からいえば、おおよそ現在の半月を一ヶ月とし、それが十二ヶ月で一年とする二倍年暦のようである。そのことを指し示す、たとえば次のような記事がある。
「人間の祖霊は、定められたる規則に従ひて、胡麻、米、大麦、マーシャ荳、水、根、或は果実を供ふることによりて一ヶ月間満足す。」(第三章二六七)
「魚肉によりては二ヶ月、又鹿の肉によりては三ヶ月、更に羊肉によりては四ヶ月、又、更に鳥肉によりては五ヶ月、」(同二六八)
「山羊の肉によりては六ヶ月、班鹿の肉によりては七ヶ月、エーナ(羚羊の一種)の肉によりては八ヶ月、されどルル(鹿の一種)の肉によりては九ヶ月」(同二六九)
「されど、彼等は十ヶ月間、野猪及び水牛の肉によりて満足し、更に、野兎及び亀の肉によりては十一ヶ月(満足す。)」(同二七〇)
「牛の乳、及び乳粥によりては一年間、ヴァールドリーナサ(諸説あり、犀又は山羊の一種といはる)の肉によりては、その満足、十二ヶ年間継続す。」(同二七一)
この一連の記事において、一ヶ月から十一ヶ月続いた次が一年間となっていることから、十二ヶ月が一年となっていることは疑いない。問題は一ヶ月が何日であるかだが、『マヌ法典」に記された日数表記の最高は十六日である。したがって、一倍年暦の半月に相当する日数が一ヶ月となっているようである。すなわち、月の満ち欠けにより、新月から満月、満月から新月をそれぞれ一ヶ月としているのである。たとえば、月が欠ける期間を「黒月」と称していることも、この理解を支持している。
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世界ではじめて月と太陽の運行周期を体系化したのは、メソポタミアである。早くも紀元前3000年の時点で、19年を単位とし、そのうち特定の年を12カ月、別の特定の年を13カ月とおくことで、月と太陽の運行のずれを吸収した。
一方、エジプトにおいては月と太陽の運行の関係は重視されなかった。これは一定の周期で氾濫を繰り返すナイル川の洪水のためである。天文学よりも水位測定が発達し、水位の変化によって1年が365日からなることを割り出した。エジプトの暦法は新月をくぎりとし、12回の新月の間隔を観測に基づかずに30日とおき、1年の最後に5日を足して洪水の周期と合わせるというものであった。エジプト歴は数学的には美しくないが、最も実用的であり、以後3000年以上にわたって利用された。現在の暦もメソポタミアではなく、エジプトの暦法を汲んだものである。
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ヘロドトス『歴史』の一倍年暦
以上のように、古代ギリシアにおいて二倍年暦が使用されていたことを論証してきたのだが、ここに注意すべき問題が残されている。それは一倍年暦との併存、あるいは暦は一倍年暦で年齢のみ二倍年齢を使用するという可能性の問題である。たとえば、古代ギリシアの歴史家で「歴史の父」と称されるヘロドトス(紀元前五世紀)の『歴史』には、天文暦に基づき一年を三六五日と明確に認識している記述が存在する。
「さて人間界のことに限っていえば、彼らの一致していうところは、一年という単位を発明したのはエジプト人であり、一年を季節によって十二の部にわけたのもエジプト人が史上最初の民族である、ということである。彼らはそれを星の観察によって発見したのだといっていた。暦の計算の仕方はエジプト人の方がギリシア人よりも合理的であるように私には考えられる。なぜかというと、ギリシア人は季節との関連を考慮して、隔年に閏年を一カ月挿入するが、エジプトでは三十日の月を十二カ月数え、さらに一年について五日をその定数のほかに加えることによって、季節の循環が暦と一致して運行する仕組みになっているからである。」
ヘロトドス『歴史』巻二 (12)
この記述からわかるように、当時既にギリシア人は一年を三六五日と認識している。従って、彼らは一倍年暦のカレンダーを使用していたと考えざるを得ないのである。そうすると、明らかに二倍年暦としか考えられない年齢表記はどのような理由によるものであろうか。本連載前回(「孔子の二倍年暦」)末尾にて指摘したように、古代ギリシア人はカレンダーは一倍年暦で、年齢表記は古い二倍年暦の慣習に従っていた(二倍年齢)、というケースが想定される。もう一つは、古い二倍年暦と新しい一倍年暦の混在・併存のケースだ。あるいはその両方のケースもありうるであろう。これらのうち、個々の史料や当時のギリシア社会一般がどのケースであったのか、現時点では判断し難い。慎重に留保し、これからの研究に委ねたい。