縄文時代草創期には、土器に突起を付けることは行われていない。
縄文時代早期になると、2,4,6の突起を持つ供献土器が現れてくる。
縄文時代前期には、8,12突起の土器が現れる。さらに24突起の土器もこの時期には現れていたようだ。縄文時代中期になると 3突起の土器が現れている。縄文時代後期以後には 5,7突起の土器も作られていた。
縄文時代後期には金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設が、立春を観測していたことが分っている。
これは太陽暦の存在に基づく観測点であり、太陽暦が存在することを明白に示す証拠である。
それが分ることにより、縄文時代早期からの供献土器の突起に描かれて、変化してきた理由を解明することが出来る。
先ず、太陰暦は182日/30日=6回の周期となる。海の潮の干満の動きから、30日/2=15日ということはすぐ気が付いていたものと思う。これは上弦と下弦の潮の動きの違いを知るための暦である。
これ以後月の暦は24弦の暦、15日区切り、上弦と下弦の月を表すものと成ったと考える。
他方で、太陽暦の進化してきた経緯は、365日/2=182日 /2=91日 /2=45日
四季の変化を捉え、このようにして立春は四立八節のような暦が成立していたことを示すものである。
太陽暦は次に二十四節気の暦になるのだが、其処まで来るのには前期から中期までの長い時間が掛かったものと思う。それは1/2ではなく、45日/3=15日という計算をすることが必要とされるからである。
この段階に進むには2000年近い時が掛かった。
縄文中期に太陽暦の区分暦が、15日の区分暦に進化すると、月の暦とシンクロすることが分ったのだろう。このことは縄文社会に大きな影響与えたようで、 3 という数については、縄文時代中期には大変な興奮が起きていた様子が見える。それは供献土器の 3突起でも、土器の表面の 3を示す模様としても、土偶にまで 3という数が表されているということで分る。この進化は海辺の人々と内陸の人々の交流にとっての難問を解消するためであったと考える。
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は、縄文時代中期より後の、縄文時代後期に作られたものと推測されているようなので、この 3 による興奮が起きた後から作られていたものと思う。
つまり太陽暦 二十四節気の暦と太陰暦 24弦の暦と正確にシンクロさせるために作られたものと推察する。それは太陽と月の周期をメトン周期で合わせることであり、朔旦立春の観測ということである。これは19年に一度、完全にシンクロすることである。
そればかりか、毎年立春の日の出観測と同時に朔望を見ることで、毎年の太陽暦と太陰暦の日にちを校正することが出来る。海の生業の地域の人と内陸の太陽暦を使う人とが、暦の違いを超えて、同一日を知ることが出来ることになる。それまで内陸の住民と海辺の住民は、異なる暦を使っていることにより生じていた不都合を解消できることになり、縄文社会が大きく進展して、縄文時代の人々が 3 について大変に興奮していたことは、何故なのかが理解出来る。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設はそれを明確に示している大変重要な遺跡で有る。
その後も暦の進化は進み
供献土器として 5,7突起の土器が作られていた。
縄文時代のこれまでの時代区分は恣意的に行われてきたので有ると思うが、太陽暦の存在が分ってきたことから、太陽暦の進化に応じた時代区分に変更することが良いのでは無いかと思う。
土器の進化については大変詳細に正確に解明されていると思うので、既に解明され尽くしてきたから、供献土器の進化を軸として再編することには何の問題も無いものと思う。