金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

纏向石塚古墳の立春観測と金生遺跡・大配石での太陽観測

立春と冬至の日の出位置を対比する
纏向石塚古墳の立春、冬至の日の出観測

     纏向石塚古墳の中心線とされる方位

 

   巻向駅からの三輪山

このような記載が見付かりましたが、纏向石塚古墳では正確な日の出観測が、ノーモンにより観測された記録はまだ無いようで、目見当でそうなのだろうとしているだけで、これは本当のところどうなっているのか分らない、というレベルの話です。


金生遺跡の立春、冬至の日の出位置


山容と日の出位置の設定はよく似ている
弥生末から古墳時代に掛けての時期とされる纏向石塚古墳は、縄文時代の太陽観測の姿を良く残しているように見える。
また、ノーモンに当たると思われる柱が出ているようであることも、観測施設として見るのが適当と思う。

引用ーーーーーーーーーーーーーー 石塚の発掘調査責任者の石野博信は、「纏向遺跡の検討」の座談会で、「南側のくびれ部の調査で、径が二〇センチぐらいの、きれいな面取りをした柱が立ってるんです。
濠の中に、それからころがって出てきているのもあって、何かそういう構築物がくびれの部分にあったわけです。そうすると古墳としては非常に異常なんで、祭の場の可能性があるんだろうかと思いました」と発言している(9)。

纒向石塚古墳 濠の中、つまり水中に建造物を建てるはずはないから、南側のくびれ部に建てられた柱が倒れ落ちたか、解体のうえ投げこまれたのであろうが、円丘の中心部からくびれ部の南端の柱の位置を通して見た冬至の朝日が三輪山の三二六メートルの標高点から出ることは、冬至の日、現地に立ってみれば観測できる。この標高点は、三輪山の秀麗な稜線がふくらみをもつ地点で、山頂とともに一つの目標点である。

 一方、石塚から見た立春の朝日は三輪山の山頂から昇るが、石塚の中軸線は、図のように山頂に向いている。
これらの事実からみて、石塚は「日読み」の構築物であることが推測できる。ちなみに、石塚の中軸線を延長すれば、八尾の鏡作坐天照御魂神社に至る。
ーーー引用終わり

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

太田の地は、その母胎となった初期ヤマト王権の「マツリゴト」としての「日読み」の地であった。
 そのことを示すのは、太田の他田坐天照御魂神社のすぐ近くにある石塚古墳である。これを「古墳」といわず「墳丘墓」という考古学者がいるのは、弥生時代の終末期の遺物を出土しているからだが、「古墳」とみれば、もっとも古い時代の古墳である。
しかし、発掘した結果、埋葬施設が出てこないので、森浩一は、古墳でなく、わりあい低い大きな円丘に短い祭壇のようなものがついた構築物とみて、中国で二至(冬至・夏至)の祭祀を行なった、円丘・方丘の円丘にあたるのではないかと推測している(7)。置田雅昭も、石塚は祭壇ではないかとみている(8)。
石塚の発掘調査責任者の石野博信は、「纏向遺跡の検討」の座談会で、「南側のくびれ部の調査で、径が二〇センチぐらいの、きれいな面取りをした柱が立ってるんです。濠の中に、それからころがって出てきているのもあって、何かそういう構築物がくびれの部分にあったわけです。そうすると古墳としては非常に異常なんで、祭の場の可能性があるんだろうかと思いました」と発言している(9)。

纒向石塚古墳 濠の中、つまり水中に建造物を建てるはずはないから、南側のくびれ部に建てられた柱が倒れ落ちたか、解体のうえ投げこまれたのであろうが、円丘の中心部からくびれ部の南端の柱の位置を通して見た冬至の朝日が三輪山の三二六メートルの標高点から出ることは、冬至の日、現地に立ってみれば観測できる。この標高点は、三輪山の秀麗な稜線がふくらみをもつ地点で、山頂とともに一つの目標点である。

 一方、石塚から見た立春の朝日は三輪山の山頂から昇るが、石塚の中軸線は、図のように山頂に向いている。これらの事実からみて、石塚は「日読み」の構築物であることが推測できる。ちなみに、石塚の中軸線を延長すれば、八尾の鏡作坐天照御魂神社に至る。

 石塚が箸墓[はしはか]古墳と関連した構築物であることは、多くの考古学者によって指摘されている。箸墓も含めて、当社の位置は広義の纏向遺跡の地といえるが、発生期の巨大前方後円墳を築造した権力者たちが、中国文明に無縁であったとは考えられない。そのことは、古墳の出土品からも証される。
 (p. 13)
 中国の暦法では、冬至は暦元といって暦法上の重要な基点であり、秦の時代までは冬至正月であったが、前漢の武帝の元封七年(紀元前一〇四)に太初元年と改め、立春正月にした。立春を正月とする思想が、いまわれわれの使っている二十四節気である。~~。
この立春正月の暦法にもとづいて、石塚の中軸線は三輪山々頂に向けられたと推測されるが、くびれ部にわざわざ柱を立てたのは、やはり冬至が日祀りの原点として強く意識されていたからであろう。
~~。
 「冬至」「夏至」は、右端と左端の位置から朝日が昇る日をいう。~~。冬至の日は、朝日が右の極限から昇る日であった。とすれば、その日に三輪山々頂から昇る朝日を拝する地は、重要な観測点、つまり「マツリゴト」の場であった。それが、次の項で述べる石見の鏡作坐天照御魂神社の位置である。
 この天照御魂神社の位置に対して、他田の天照御魂神社は、立春とその前後に三輪山々頂から昇る朝日を拝する位置にある。当社はおそらく、日祀部の設置に伴って、立春の「マツリゴト」の場として創建されたのであろう。
 


(3)  大和岩雄「天照御魂神社の位置」「東アジアの古代文化」二九号。
(7)  森浩一『日本古代史』一二四頁、昭和五十五年。
(8)  置田雅昭「座談会・纏向遺跡の検討」「古代を考える」二一号。
(9)  石野博信「座談会・纏向遺跡の検討」「古代を考える」二一号。


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コメント一覧

johmonkinseistar
石塚古墳とこの周りにあるあと3-4基の古墳は、どういう関係のものか調べてもよく分りません。
この時期のことは、記録も乏しいようですし、遺跡調査も余り進んでいるとも思えません。
謎が残るのがワクワクさせられてよいという所なのでしょうか。
遺物として吉備に関係するものは出ているようですね。
刮目天 一(はじめ)
いい情報をどうも有り難うございます。
纏向遺跡最初の前方後円墳の石塚古墳は、遺骸がないかも知れないようなので、吉備のニギハヤヒ大王を纏向の地で改葬し、首長霊を引き継ぐ儀礼を行ったようです。鏡作坐天照御魂神社の御祭神が天照国照彦火明命ニギハヤヒ大王ですからね(^_-)-☆
間違いないと思います( ^)o(^ )
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