金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

加曽利式土器は太陰暦を示す

太陽暦と太陰暦
太陽暦と異なり、太陰暦はそれを必要とする地域で作られていたものと考える
海に近く干満の影響を受けるシュメールでは太陰暦がつくられていた。
月の変化を見れば良いだけなので月が情報源となる太陰暦は簡単に出来る。
太陽暦は作ることが難しいが農耕には必須なので情報として広く伝えられた
縄文人の太陽暦は、天候やその他から縄文前期に関東中部地方内陸で作られたものと考える。その聖なる数は二至二分から 4だった。
それから4つの突起を持つ土器が発生していたものと考える。
飾り付きの4突起土器

 

加曽利式土器の作られていた地域では海の干満の影響が強く感じられる地区であること
当然月の満ち欠けに敏感であった。
同様な土地としてシュメール文明では海岸近くに有ったことから、太陰暦が作られたとされる。
シュメールの暦に対して海の影響が少ない内陸のエジプトではナイルの洪水が問題であり、太陽暦に似せたシリウス暦が作られていた。
海岸に近い縄文人も海の影響を受けるので、太陽暦はそこの土地の要求するものに応じる暦ではないので、月の満ち欠けを加えたものを望んだものと思う。
ここでは縄紋土器の縁に四突起を持つ土器が作られていたが、それには波の模様が入ってきている。

海産物が生業として、海の干満を知ることが重要だった、加曽利地域では太陰暦が作られたと思う。
加曽利式土器の模様は波に見えるとされて、その通りと思う。
6突起の土器は何れも海の波の表現が模様となっていた。
その上に土器の縁までも海の波のようにうねっていた。

月の満ち欠けは半年に6回、1年には12回で、
太陽暦が四立八節のレベルにあれば月の周期との関係は簡単に分る。
太陽暦四立八節の暦、これが半年一年暦であれば、合わせることは簡単で、
この刺激から月の周期を取り入れて半年に当たる六突起の土器が作られた。
さらに上弦と下弦で 6*2 12弦としたものか。二至二分の91日は 91日/3 30日 月の周期になっている。そうして6+6の12突起の土器が作られたのだろう。つまりこのような地域では 3と6と12が聖なる数であった。

この事から見て、縄文人の暦のベースは半年一年暦としていたのだろう、太陽暦と月の満ち欠けは朔旦立春で一致することは直ぐに分る。 
干満を考えて満潮まで15日、干潮までに15日として半年12月-半月 これが半年一年暦となっていたのだろう。
この方が海のある土地にはなじむものになる。

     写真はお借りしました


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