農耕開始のシグナル
土器の発生は縄文時代草創期と西アジアでは5000年以上の差がある。
小さい粒のマメ類採集の容器には土器が必要とされたものと考える。穂と芒のある麦類の採集には編み籠で十分だった。
土偶の造形は何を示すのか
造形の変化
中期に多く造られた
諸磯式期から勝坂式土器の時代には、マメ類の供献土器から、ダイズやアズキ、ヒエの栽培種が成立していたので、農耕が始まっていたと考える。
前期までの土偶は板状で、自立できるものでは無かったようだ。
それが縄文時代中期初頭の時期には、立像土偶の出現です(今福1998)という。
立像土偶とは、それ自体で自立することが可能な土偶の総称で、それまでの板状土偶と対比される土偶の構造を示す用語です。つまり、住居の壁などに立て掛けたり、また平面に安置して祭祀に供した土偶と異なり、あくまでも土偶それ自体で自立できるもの、これを立像土偶と呼称します。という
サイズ
それまでの板状土偶とは異なり、大きくなり集団での何らかの祈りを行うために立像土偶は造られたと推定されている。
それは地母神信仰に近いものでは、
諸磯式土器、勝坂式土器の時代、関東西から中部八ヶ岳辺りでは農耕が開始されていたと考えるので 豊穣を祈るものとして造られるようになったのでは無いだろうか。
石鏃もこの地域では少なくなっていたようなので、生業としての狩猟の比重は下がっていたのだろう。同じ時期に農耕具と考える打製石器、打製石斧などが増加している。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
?立像土偶の出現と祭祀の‘‘かたち”
発生・出現期の土偶で確立した表現要素は、その後も中部地方から東北地方の広い範囲でほぼ踏襲され続けました。これらの土偶には、頭部に複数の円孔が穿(うが)たれた、顔面表現の先駆を思わせる東海?関東地方の大曲輪(おおぐるわ)土偶型式や、土器文様から借用した幾何学文で土偶の胴部を飾る大木(だいぎ)土偶型式が含まれます。これらはいずれも板状で、その役割期待や背景に窺える祭祀の“かたち”には、早期段階と大きな差を認めることができません。
それに転機が訪れるのは、縄文時代中期初頭の時期でした。立像土偶の出現です(今福1998)。立像土偶とは、それ自体で自立することが可能な土偶の総称で、板状土偶と対比される土偶の構造を示す用語です。つまり、住居の壁などに立て掛けたり、また平面に安置して祭祀に供した土偶と異なり、あくまでも土偶それ自体で自立できるもの、これを立像土偶と呼称します。
この立像土偶への変化は、初め頭部の立体化に始まりました。中部高地周辺から北陸地方に分布する長山土偶型式(上図)や、五領ケ台式土器の時期に出現した通称、河童形土偶と呼ばれる一群の土偶がその嚆矢です。
その特色は、それまでの板作りを基本とした全身の造形に、“分割塊製作法”が導入されたことでしょう。分割塊製作法とは、山梨県釈迦堂遺跡から出土した一千を越す土偶破片の観察から、小野正文氏が提唱した中期の土偶に普遍的な製作技法です(小野1984)。つまり、土偶の東部、胴体、四肢それぞれを、あらかじめ作ろうとする土偶に合わせて個別の粘土塊でパーツを作り、それを互いに組み合わせて一つの人形(ひとがた)像に作り上げる……この技法の導入で、土偶はそれまでの正面と背面と言う、二次元の造形物から、はじめて側面・上面戟も加わった立体物として完成されました。
この変化は、縄文世界の土偶の歴史にとって、極めて象徴的なものでした。これ以後、土偶は小形で素朴な作りの、“下位土偶”などと呼ばれる量産型の多数の土偶と、長野県棚畑(たなばたけ)遺跡の国宝の土偶(上図)のように、大形で立体感に富み細部の造作から外面仕上げまで極めて入念に作られた“上位土偶”とも呼ぶべき、特殊個別型のごく少数の土偶とに分化していきました(永峯1977)。この背景には土偶祭祀の“かたち”の中に、それまでの竪穴住居単位の家族祭祀における呪具という枠を越えた集落単位、さらには複数の集落群を視野に入れた共同祭祀のための‘‘呪具・神像”として、これらの大形・精巧な作りの土偶像が位置づけられた可能性があります。
このような現象は、初め中部高地とその周辺の地域で顕著となり、それは程なく東北地方へと波及していったようで、山形県西ノ前遺跡における大形立像土偶(上図)の存在なども、その証しと考えられましょう(原田1995)。