定住してインフラ作り、太陽暦 生業の安定
そこに欠けているのは、インフラとしての最重要なものは暦では無かろうか
定住すれば太陽と月の周期的な動きは見えてくるはず
定住には太陽との関係は最初から配慮するだろう
何処の山から日が出て、何処の山に日は沈むのかという立地
引用ーーー縄文人は大陸の中国同様に最も古く定住を始めているが、縄文時代を通じて農業には転じておらず、採取生産で定住を継続させることができたのは、世界でもおそらく縄文人だけであろう。それは、縄文時代の自然環境が農業生産に匹敵する食糧事情を備えていた事を示しており、縄文時代が他の地域に比べていかに豊かであったかを示している。ーーー
縄文草創期からそのような食料豊かな状況が続いていたのだろうか。
まだ気候が安定しないで、単作穀物では食料維持が難しいときだったのでは無いか。
縄文人は狩猟採集、雑穀栽培という複合食糧確保を生業とせざるを得ず、そのために自然の移り、季節変化を正確に把握する必要があったのだろうと思う。
それを可能にするためには、季節を支配する太陽の運行を観測して如何に正確な暦を作り上げられるかがキイポイントだったものではないか。
草創期には二至を把握して、早期には早速二至二分の暦を編み出していたのだろう。
早期には4突起の土器が作られていた。
海に近い縄文人は、6突起の土器も作っているから、海岸に近い住民は、潮の満ち干の影響、月の満ち欠けを見て、半年に6回の月の満ち欠け周期を知り、潮の満ち干を正確に捉える太陰暦を作っていたものと思う。
こうしたインフラ開発は、早くから定住していた縄文人が、世界で最初に手にしていたのでは無いだろうか。
それを邪魔なものにもかかわらず土器の縁に突起として作り、記録を残し、それを祝うための祭を行っていたものだろうと考える。
写真はお借りしました
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●計画的な集落景観の出現やインフラの整備など定住生活も発展していく
前回お話ししたように村を作ると、例えば、ここにはクリを植える、そこには漆を植える、あそこでは何をする、などさまざまな場所決めを行います。また、居住地域に関しても、ここに家を建てるので崖の斜面はゴミ捨て場にしよう、といった場所決めを行います。そうして、崖の斜面が貝などの捨て場所に決まると、そこに貝塚が形成されていきます。さらに、人が亡くなった場合には、墓地を立てます。
このように、計画的に集落の中を区分していったのです。少し大げさな言い方ですが、都市計画を彼らは考えているのです。われわれはこれを、「計画的な集落景観の出現」と呼びます。これは縄文時代の大きな特徴の一つです。
また、定住生活をすると、多くの道具立てが必要となり、さらにそれを用いた作業を村の中ですることになります。例えば、石器を作ったり、土器を作ったり、いろいろなものを編んだり、動物を解体したり、などです。そのために、さまざまな作業場を作ります。こうしたインフラの整備がなされていきます。
さらに、村の内部に水さらしが必要だとすると、村から小川の方に下りていく場所に木を使って木道を作ります。まさにインフラです。そして、水さらしをするために大きな水槽を作ります。堅果類の加工場、それから食料の貯蔵場所、そこに至るまでの道などを整備していきます。
それから、沢の方に下りていきたいが、ぬかるみが強くて入れない場合、そこに大量の土砂を入れ込みます。あるいは、その土砂の中にわざと土器をまぜて、足で踏んだときに沈み込まないようにしています。このような痕跡も、山形県の押出(おんだし)遺跡などで見つかっています。
このように、縄文人は自然をそのままに利用するだけではなく、使いやすいように改良していきます。こうした中で、集落の中にさまざまな形で都市計画が張り巡らされていきました。
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【温暖化がもたらした定住革命】
縄文時代は1万1千年前(縄文早期)に温暖化に移行します。
最盛期は前期で気温は現在より平均気温で1度~2度高く、三内丸山のある青森は現在の関東地方ぐらいの気候条件でした。この時期の温暖化がその後の縄文時代の考える力を決定的にしていきます。
縄文時代に獲得したものの第1が定住です。
日本は世界でも最も定住の歴史は古く、既に9千年前には鹿児島県上野原遺跡で数世代に渡る定住跡が確認されています。気候の温暖化と適度な湿潤、豊かな採取条件と特化した漁労技術、さらにそれらを継続して営む土器技術が揃っており、早くから定住を可能にしたのです。
旧石器時代の末期に起こった温暖化という変化は人と環境の緊張関係を醸し出した。そのなかからさまざまな生活戦略が生み出された。細石刃の集団のようにフットワークを追求するするものも、神子柴遺跡型の集団のようにネットワークを強化するのも、ともに環境への変化の対応の新たな展開といえる。
結局次の縄文時代にたくさん生き残り、その主役になっていったのは、ネットワークを重視するタイプの社会だった。腰を落ち着けての生活に必要なたくさんの道具や不動産をつくりだし、個人どうし、集団相互の関係作りに大きな役割を果たすためのさまざまな凝りを人工物に盛り込むネットワーク社会のひとつの典型がこれから見ていく縄文社会だ~列島創世記より
それらの条件に恵まれた関東、東北、中部地方において7千年前頃から人口が増えていき、局所的には縄文時代とはいえ異なる集団が互いに縄張りを接近させる緊張状態を作り出します。これが縄文時代のモノを“考える”力を作り出した原動力なのです。その象徴物が装飾に溢れた縄文土器であり、土偶であり、モニュメントや環状になった集落の形であるのです。縄文時代に獲得した第2の物とは縄文土器であり、それが日本人の“考える”思考の原点にあたるのではないかと思います。
【なぜ土器に凝りが登場したのか?】
定住して集団間が恒常的に接近するというそれまでの人類史にはなかった状況が登場します。定住していなければ接近すれば移動するという手法もとれましたが、定住しているとそうもいきません。
そこで土器は一気に複雑化しています。さらには土器の模様が異なる集団間で統一性を示すなど土器を通じた集団間の約束事、連帯を生み出すことになります。
それは縄文土器の複雑化(=凝り)がある地域に限定されて登場した事で反証できます。
「文字がない社会で個人や集団がみずからの生存や利益を図るとき、その意思や自己意識、みずからの優位や他者の連携などの主張は人の目をひく振る舞いや、その為の道具立て、持ち物など、特別な行為や物に頼る部分が大きい。つまり、文字や制度を活用して他者の理解を求める術をもたない代わりに、視覚や聴覚を通して、他者の感情や認知に直接訴えるやりかたが圧倒的な比重を占めるのである。7000年前から4500年前の縄文時代前期から中期にかけては、このようなメッセージの表出が、とりわけ土器をにぎやかに飾り立てる事や、集落を環状に演出することに顕著に現れた。とりわけこの現象は定住と人口増によって、個人どうしの関係と、物流ネットワークに連なる集団間の関係が最も複雑化した関東、甲信越や東北南部において一番典型的に進んだのである。」~列島創世記より
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縄文中期の凝った縄文土器事例(左から馬高式(新潟)、阿玉台式(関東)、勝坂式(中部))
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縄文前期から中期の簡素な文様の土器事例(左から里木貝塚2点(岡山)北筒式(北海道)
「縄文土器の代表とされてきた土器たちは、みな関東、甲信越および東北南部を中心とする東日本の産だ。ではそのほかの地域の土器はどんな顔をしていたのだろうか?
まず北海道の北東部、日高や大雪の山並みの後ろにいるのはバケツ型のような平底の分厚い土器だ。縄を巻いたり彫刻したりした棒を表面に転がしてつけた地紋をもつが、上半部を広げ、文様をつけ口縁を波立たせるという基本パターンはほとんどみられない。
いっぽう、甲信越より西の東海、近畿、中国、四国および九州東部では、基本パターンの影響は時にうっすらと認められるが、東日本の土器とは違い、総じて地味である。」~列島創世記より
「ここで注意したいのはもっとも派手な土器をつくりだした地域が環状集落が発達する範囲とぴったりと重なることだ。時代的にも土器の「爆発」の時期と環状集落のピークとは同じ中期で一致する。この2つの現象は互いに密接な関係をもち、共通の社会的条件から発したものに違いない。」~列島創世記より
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縄文土器を複雑化させたのは集団と集団の間に登場した同類圧力である事はここで明らかになります。逆に土器が簡素な地域は単に人口増の圧力がそこに至っていない事を示しています。
「爆発した」縄文土器の装飾が世界でも類を見ない様相を呈しているのはそれらの圧力が非常に高いものであった事を示しているのでしょう。しかし特筆すべきは同様に同類圧力が高まって文明が興ったとされる世界の他地域と比べ抗争を殆ど起さずに集団間の複雑な関係を作り上げた縄文の知恵にあるのではないでしょうか?
【縄文土器の凝りは何を作り出したのか?】
縄文時代とはそれ以前の共同体を引き継いで集団は営まれています。
共同体間に登場した縄張り上の緊張圧力を力で決着する支配関係にならないようにする手法を既に縄文人は身につけていきました。
集団と集団を繋ぐ手法に土器製作の技や中身の競争を組み込んだのです。また同じような文様を土器につける事で集団間の友好や相互理解を図ったのではないかと思います。土器の文様は集団内部ではなく外の集団に対して発する為のメッセージであり、それらの評価を巡って競争が起きていた事が伺えます。
縄文中期の土器の“凝り”とはこのように集団内、集団間での認識競争であり、その成果物を巡って切磋琢磨する共認闘争の時代の幕開けではなかったのでしょうか。
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<縄文心象様よりお借りしました>
さらにその認識競争をする上で定住し、採取生産という様式によって生まれた有り余る“考える“時間が有った事はそれを支える基礎条件になっていたように思います。
弥生に入り生産様式が農耕に変わり文様が失われていく様はその創造活動の過半が労働に取られていった事の裏返しとも取る事ができます。
次回は弥生時代です。
土器から銅鐸、銅剣、銅矛に変わった弥生時代、その考える方向性はどのように引き継がれ、また変化していったのか扱っていきたいと思います。
投稿者 tano : 2010年09月02日 List
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244233 日本列島で始まった定住革命をどう捉えるか?
田野健 HP ( 50 兵庫 設計業 ) 11/01/18 PM05 【印刷用へ】
世界の文明は農業と定住という2つのセットで始まっている。
世界で最も早く定住が始まったのが長江中流域で約12000年前、採取生産の定着、さらに農業の前段である栽培の始まりと共に定住が始まっている。
西側ではそれよりかなり遅れ、メソポタミアで農業と定住が始まったのは7000年前である。
定住するまでの人類は洞窟を出た後は(海洋性の漁労民を除いて)獲物を追いかけて移動する移動型居住をしていく事が常であった。石器を発明し、弓矢を発明していくが、土器を使うようになったのは定住し、貯蔵、食糧の加工が必要になったかなり後の時代である。その中でも縄文土器は既に1万5千年前頃には最古のものが確認されており、中国でも同様の時期には既に土器が作られていた。つまり縄文土器という土器文化の本質は定住にある。
そして定住する事が可能になった、或いは必然性が生まれた背景には急激な温暖化によって動物の生息域、生存種や植物の植生が変わり、それに適応する為に、それまでの移動型狩猟生活が困難になった事にある。
草原が森に変化することで、獲物である大型哺乳類が極端に減少した。逆に食料となる堅果類を有した落葉広葉樹が拡がった。急速な変化ゆえに移動すらできなかった地域の民は、変化した環境に適応する為に肉食から菜食に食生活を変化させていった。森の形成とは当時の人類にとっては逆境だったのであり、定住とはそれを突破する革命とも言える。
縄文人は大陸の中国同様に最も古く定住を始めているが、縄文時代を通じて農業には転じておらず、採取生産で定住を継続させることができたのは、世界でもおそらく縄文人だけであろう。それは、縄文時代の自然環境が農業生産に匹敵する食糧事情を備えていた事を示しており、縄文時代が他の地域に比べていかに豊かであったかを示している。