なぜ縄文時代に太陽暦が完成できたのか
そして何故縄文人のみがそれを完成できたのか
北杜市の八ヶ岳山体崩壊地形の中で、金生遺跡・大配石で、現代の太陽暦と引けを取らない正確無比の太陽暦が完成していた
縄文時代に現代と同じレベルの太陽暦が何故完成できたのか
太陽暦を作るのには現代天文学のような高度な数学などは必要としていない
文字も必要としていない
一年間の日数を数えて、それに少し洞察を加えて、割り算をしていけば出来上がるものである
その正確さの維持には、極簡単な設備で、太陽の直接観測のみで足りる。
それにしてもなぜ星を見なかったのか、月を見なかったのか。
月については太陰暦を作っていた。
太陽暦を直接観測で作ることが出来たので、シュメールなどの他の文明のように、星を見る必要は無かったのだろう。他の古代文明では太陽観測をしないで高度な知能を使い、星を見るなど計算により暦を作り、星占いをして、その暦が季節から狂ってくると、改暦を繰り返してきた。
縄文人は太陽と月の動きに従う暦を作り、それに従う生活を継続していた。
太陽暦と太陰暦の完成、地理と立地によりそれは決まったもののようだ。
世界中を探し回り見つけたのがここ北杜市の地形と天候だった。
ここ以外の何処にも無いようだから、ここの地理と山が無くては出来なかったことから、世界で唯一のものだろう。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
第 3 章 こよみとは何か
2 太陽暦のあゆみ
(pp. 94-97)
現在、世界中で、ほとんど統一的に使われているこよみは「太陽暦」である。正確にいえば、古代エジプトで生まれ、ローマでほぼ現在の形となり、その後少し改良されながら、全ヨーロッパに、そして全世界に広まったグレゴリオ暦という名の太陽暦である。
エジプト暦 太陽暦が、農耕と密接にかかわりをもちつつ発生したことは、明らかである。現行の太陽暦の起源となったエジプト暦を作り出した古代エジプトは、ナイル川の三角州に高度な農耕文明を築き上げていた。
ナイル川は定期的に起こる洪水によって、肥沃な土壌をエジプトの平野にもたらした。したがって、ナイル川の洪水はエジプト人にとって、災害であるより恵みであった。しかし、そのためには洪水の時期を正確に予知して、それに合わせて農作業を行う必要があった。
ナイル川は毎年、きまった季節に洪水を起こしたが、それは、おおいぬ座のシリウスが日出の直前に東の空に姿を現わすころに、はじまったという。このため、真剣な天体観測が行われた。そして、西暦紀元前四〇〇〇年ごろには、一年の長さは三六五日では短すぎ、三六五日と四分の一日に近いことを知っていた。
気がつかれたかも知れないが、シリウスと太陽との関係で一年の長さを決める方法は、厳密にいうと間違っている。このやり方で求まるものは一恒星年であって、一太陽年ではない。前章でのべたように、約一万三〇〇〇年で、星と季節との関係は逆転してしまう。したがって、このシリウスの観察による洪水の予知法が、数千年にわたって行われたと考えることはできない。
うるう年 それはともかく、太陽暦は、もっぱら季節の変化に忠実であろうとだけ努める暦法であって、月の満ち欠けは、最初から無視している。したがって、太陽暦の暦法上の技術といえば、いかに一年の長さを、一太陽年に合致させるかということのみにあるといってよい。
ところで、一太陽年の長さは三六五・二四二二 …… 日であるから、どうがんばってみても、一年を毎年同じ日数にすることはできない。そこで、三六五日の年と、三六六日の年を適当に置くことになる。エジプトの初期の民間暦は、三六五日に固定されており、ひとり僧侶階級のみが、四年に一回、三六六日のうるう年を置いていた。しかし、西暦紀元前二三九年に、四年に一回のうるう年を置くことが制度化された。
ローマ暦 私たちが使っているこよみは、ローマで制定されたものをほぼ受け継いでいる。ローマは初期には、一年が一〇ヵ月、三〇四日から成る妙なこよみを使っていたが、後に二ヵ月を加え、一年を三五五日とする太陰暦を用いるようになった。そしてさらに、ときどき、うるう月を挿入して季節と合わせる太陰太陽暦を採用した時代もあった。
追加した二ヵ月は、当然、年の終りに置かれたが、つぎにのべるユリウス・カエサルの改暦のときに、これが最初にもってこられた。つまり、現在の二月は、かっては年の最後の月であった。現在、九月 ……、一二月を表わすラテン語系の名前、英語でいえば、セプテンバー、……、ディセンバーの語幹である、セプテム、オクト、ノベム、デセムがそれぞれ、七、八、九、一〇を表わすラテン語であるのは、そのためである。
ユリウス暦 やがて、ヨーロッパを制覇し、エジプトを征服したローマは、エジプトの暦法をそのまま取り入れ、西暦紀元前四六年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のときに、平年を三六五日、四年に一度のうるう年を三六六日とするこよみを制定した。これを「ユリウス暦」という。
はじめのころ、運用を間違えたりしたが、西暦紀元前八年、アウグスツス帝のときに、改正を行い、その後、一六〇〇年近く、このこよみはキリスト教文化圏で用いられた。
ユリウス・カエサルのときのこよみは、一ヵ月は奇数月が三一日、偶数月が三〇日であった。ただ、最後の月の二月のみは、平年は二九日であった。ユリウス・カエサルは、七月に自分の名前のユリウス(英語のジュライ)をつけたが、アウグスツス帝もそれにならい、八月をアウグスツス(英語のオーガスト)とした。ところが八月が三〇日であったのを嫌い、七月に続けて八月を三一日とした。そして、その後の大の月、小の月も適当に順序を変え、足りなくなった一日を、かつて年末であった二月から減らした。このため、それでなくても平年には二九日しかなかった二月が、二八日になってしまったといわれている。
7 太陰太陽暦と農業
(pp. 112-114)
月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。
したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。
置閏法 チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア支明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。
メトン周期と一九年七閏の法 ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。
一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。
一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。
問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。
中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。
朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。
8 旧暦のしくみ (pp. 114-116)
太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。
天保暦 その中で、もっとも完成された太陰太陽暦といわれる、日本の江戸時代末期の「天保暦[てんぽうれき]」を、ややくわしく見ることによって、太陰太陽暦の構造を理解することにしよう。
日本は推古天皇のころ(七世紀はじめ)、中国から輸入したこよみを、はじめて採用したといわれる。それ以来、中国輸入のこよみを用いてきたが、一六八五年に渋川春海によって、はじめて、わが国独自のこよみ、「貞享暦[じょうきょうれき]」が作られ、以後、宝暦暦、寛政暦と改暦を経て、一八四四年に、天保暦が作られた。
真の朔と平均の朔 中国、日本の太陰太陽暦では、月の第一日を決めるのに、平均的な朔ではなく、真の朔をもってしてきた。
平均の朔を用いる方法では、二九日の月(小の月)と三〇日の月(大の月)を交互に置き、これでは少し平均の一ヵ月が短くなりすぎるので、一六ヵ月か一七ヵ月ごとに大の月を余分に置く。しかし、この方法では、月の第一日と朔とが一致せず、日食が二日に起こったり、前月の晦日[みそか]に起こったりする。これを嫌ったのであろうか、月の第一日を平均の朔でなく、真の朔で決めるようにしたのである。
一口でこういうが、これは大変なことである。平均朔望月の長さをくわしく知っているだけでは十分でなくなる。月および太陽の運動の遅速を経験的に知って、それを考慮して、少なくとも一年先の真の朔の日付を予報しなくてはならない。これを中国および日本のこよみでは、実際に実行したのである。
The End of Takechan
古代ギリシャの天文学 と 数学
○ ダンネマン著『大自然科学史』には、古代ギリシャの天文学について、詳しく語られていました。内容は上記のものと重複しますが、引用文を再掲しておきましょう。
『大自然科学史 1』〈復刻版〉 〔フリードリヒ・ダンネマン/著〕
Ⅱ ギリシア人における科学の発展 アリストテレス以前
ギリシア天文学のはじめ1?
(pp. 282-285)
ギリシア人はこの時期に天文学では、哲学や数学の分野におけるほどの成績をあげなかった。彼らは天文学のはじめをメソポタミアの天文観測に負っている。たとえば、黄道、獣帯星座、惑星群などの知識が、それである。十二進法や六十進法、およびそれに基づく測度は、バビロニアの影響に直接接触していたイオニアの諸都市をへて、ギリシアに伝わった2?。時の計算は、ギリシア人にとっては大きな困難であった。彼らははじめのころは月の運動を土台にした。彼らは月がつぎつぎに光面の形を変えていくのを観察し、このことから、二九日十二時間四四分の長さの朔望[さくぼう]月を、きめることができた。そこで月と太陽による計算を調整しようとする最初の試みが、各月三〇日ずつの十二カ月の長さの一年の確定に導いたことは、容易に考えられる。しかし、こういう暦は天体のじっさいの運行と、あまり一致しなかったから、長いあいだにわたって、一般の要求をみたすことはできなかった。そこでもう一歩進んで、月を交互に二九日と三〇日に数えることとなった。それによって一年は三五四日に短縮された。ギリシア人はこういう暦で計算していたが、非常な開きが生じたので、ソロンのときになって、二年ごとに三〇日の完月を入れて、この開きを埋めることにした。そこで一年は平均 (354 × 2 + 30) ÷ 2 = 369 日となったが、それでも実際の長さとは非常にちがっていた。月の循環と太陽年とをいっそうよく一致させて、暦計算を調整しようと試みた(紀元前四六〇年頃)最初の一人は、天文学者のキオスのオイノピデスであった。この人の門弟のなかには、キオスのヒッポクラテスもいたと思われる。オイノピデスは七三〇太陰月と五九太陽年とを等しいとおいて、三六五・三七三日という一年の長さに達した。彼はエジプトおよびバビロニアの天文学の移植にも大いに貢献し、同じく十二宮からなる獣帯を、ギリシアに導入したと言われている。彼はまた規則的にくりかえすナイルの増水を、宇宙的原因によるととなえて有名になった。
大喜劇詩人アリストファネス3?はギリシア人の暦の混乱をからかって、こんなたよりない状態にたいして、お月さんに苦情を言わせている。紀元前四三三年になってはじめて、アテナイの数学者メトンがこの混乱を最終的に一掃することに成功した。彼は一二五「完」月と一一〇「欠」月をふくむ十九年の循環期を導入した。これによって一年は (125 × 30 + 110 × 29) ÷ 19 = 365.263 日となった4?(太陽年の真の値は 365.242 日である)。(※ メトン期は中国では十九年七閏[うるう]法として春秋時代、前六世紀頃から知られていた。)